『項羽』1

暗闇に浮かぶ炎。炎の揺らめき。
視界を埋め尽くす闇。浮かび上がる灯火。
地上に広がる星空のように、広がる荒野に明かりが散らばる。

遠くから聞こえてくる、空を覆う歌声。
聞きなれた歌。体にしみこんだ拍子。心にしみる哀愁漂う情緒溢れる音色。

闇夜の城壁に一人立つ大男が、遠くで行われている大合唱にあわせて鼻歌を歌う。

「ああ、なんとも小賢しいことを思いつくものだ。」

身長は二メートル以上あろうか。
浅黒く、屈強な体躯は、ただでさえ大きい身長よりも更に大きな存在感を男に与える。
堀の深い眉にすっと伸びた鼻筋。眼下に一面に広がる篝火の赤い揺らめき。
目を瞑り、気持ちよさそうに風を全身で感じながら立つ影は、暗闇の中でも黒く輝いていた。

後ろから歩幅の揃った足音が近づいてくる。

「将軍、そのようなところにお立ちになられては、万一のことがございますから。」

感情がなくそう言った男の持つ灯で、やっとこの大男が裸で立っていたことが分かった。
しかも、全裸である。
目を瞑ったまま、将軍と呼ばれた全裸の大男は答える。

「張良・・・いや、こんなことを考えるのは韓信であろうなぁ。楚兵がこんなに生き残っているわけがあるまいのに。」

松明を持った男も、自分の言葉を無視されていることは気にも留めず答える。

「それでも、兵たちに与える影響は大きいのです。望郷の念にかられ、耳を塞ぎ、すすり泣く者たちもいました。脱走兵も続出しております。」

「そうであろうなぁ。」

大男は、意に止めず、心地よさげに鼻歌を続ける。

この垓下の城に篭城しているのは、楚兵十万。
それを包囲する漢軍三十万から聞こえてくる、我ら楚国の歌。
思えば、この戦乱が始まってもう八年になろうとしている。敵が味方になり、味方が敵になり、中華全土を文字通り駆け巡ってきた。
兵士たちが、「遠い楚国の歌がこれだけ聞こえるということは、楚の兵がそれだけ敵陣にいるのだ」と考えてしまうのは自然であろう。
味方は少なく、敵は多い。そして、故郷の仲間たちがあちら側にいるのだ。

「分かっていても、懐かしい。分かっていても、騙される。」

大男は、この歌の目論見を看破していた。楚国から共に戦ってきた仲間たちは、もうそう多くない。みんな戦乱の中で死んでいった。
敵側にこんなに大勢の楚兵がいるわけがないのだ。
この歌は、楚以外の兵士たちが歌わされ、こちらの心を挫こうという作戦である。
いや、大男だけではなく、楚から共に戦ってきた兵士たちは、みんなわかっていた。付け焼き刃の歌。故郷のイントネーションではない。それでも、疲れ切り、消耗し、大勢の敵に囲まれたこの状況では、兵士たちの心に染みてしまう。

「明日には、総攻撃が来るでしょう。敵は、ざっと三十万。これだけの包囲に、もう我々の援軍が無いことを知らしめるこの歌。果たして、兵たちは戦えるのでしょうか。」

「わしがここにいるのだから、援軍がないのは当たっているがな。」

大男は、一人で大笑いする。
松明を持った男が続ける。

「楚の土地すべて占領された、という噂も広まってきているようです。」

「韓信は、こちらにもう兵も兵糧もないことを知っていて、夜は攻めてこない。日光の下、堂々とわしをさらし首にしたいのだろう。
いや、わしのことがそれだけ怖いのかな。」

大男は、さっきに増して、気持ちがいいほどの大笑いをした。笑い声が暗闇の平原に響き渡る。
そして、ゆっくりと目を開き、眼前に広がる灯火の海を眺めた。

灯火の間隔や配置から、おそらく十以上の包囲陣を引かれているだろう。
大司馬に任命していた周殷が漢に寝返って南より垓下を締め付け、西にいる勇将・鯨布もここにきて漢に肩入れした。
そして、北からは、北方を占領していた楚軍を制覇した韓信が手勢全てを率いて南下し、今目の前に陣取り、大将軍としてこの包囲を指揮している。
韓信の包囲陣の後ろには、宿敵である漢王・劉邦の本陣が控えているはずだ。

大男は、韓信の包囲の先、夜では見えるはずもない劉邦本陣の方を見つめた。
三年前、劉邦率いる五十万の漢軍を三万の自分が率いる楚軍騎兵隊が蹴散らし、寸でのところまで追い詰めた。
ついこの間も、協定を破り奇襲を仕掛けてきた漢軍を返り討ちにしてやったばかりだ。
それなのに、漁夫の利を狙っていた韓信や鯨布まで味方につけて、今、初めて自分を包囲している。
どんな兵力差でも、どんな逆境でも勝ち続けてきたのに、何故こうなたのか。
大男には、理解できなかった。

「わしは誰だ?」

誰に言うでもなく聞く。

「項将軍にございます。」

松明を持った男は、静かに即答する。
風が吹いている。包囲の灯火が西から順に揺れていく。

「そう、わしは項羽だ。」

項羽は、そう言うと、きびすを返し、松明を持った男の下へ城壁を飛び降りた。

松明の男の隣を通り過ぎ、城中に響く怒声で叫んだ。

「皆のもの、起きろ!宴だ!宴会を開く!今夜は朝までとにかく飲むぞ!」

これまた仮眠を取っていた兵たちも起きるほどの大声で、笑いながら城の中に入っていく。

「食料庫の中身を全てだせ!」

松明を持った男は、無表情に、静かに項羽の後ろに続き、駆け寄ってきた兵士たちに指示を出していく。

城内の兵士全員参加の大宴会である。
周りを敵に囲まれているのに、通常ならばありえない。
城の広間に大きな焚き火をし、ありったけの酒を平等に振舞う。肉が出され、音楽が流れる。
高台に自分の席を設け、広間を一望する項羽。

「一万人ほど、か。」

この城に入ったときには、十万弱はいたはずの兵士である。篭城戦なのでこちらの兵の損失は少ない。つまり、九万人は逃亡したことになる。
将兵クラスが率いた一万規模の脱走もあったということである。
通常ならば信じられない数だが、この状況では仕方あるまい。
それだけの脱走ならば、報告係や監視係りも一枚噛んでいるのだろう。
項羽は、いつもの怒りの感情が湧かず、城内で反乱を起こさなかった、かつての仲間たちの気持ちを噛み締め、目を閉じた。

項羽の隣に座る美女が、優しく項羽の手を握る。

「項王様。」

虞姫。絶世の美女にして、舞踊の名手であり、項羽に見初められた女。
常に項羽の側に置かれ、移動中も宴会でも項羽は虞姫が隣から離れることを許さない。
強い日光と乾きの旅でも、漢の使者との宴会でも、項羽は虞姫を隣におき、虞姫の体から手を離さなかった。
項羽は、虞姫の肌に触れるだけで全てのことから解放された気分になれた。
虞姫の肌のお陰で、過酷で緊張の連続の日々を乗り越えられた。
虞姫だけは、自分の心の底を見透かして、抱きしめてくれた。

しかし、今日は違う。

自分を見つめる虞姫の瞳は震え、その作り物のように美しい顔を見てもいつもの安らぎは感じない。
宴会の笑い声と投げ捨てられる椀の割れる音。
太鼓の音に足踏みの音。
外で合唱されている楚の歌も聞こえない。
ただ、虞姫の目の奥だけが項羽の世界を占めていた。
高台の上で、項羽は、どうしていいか分からず虞姫を抱きしめた。

宴会の最中、紛れて脱出する兵も多かった。
みんなが脱出していくと欲張りな者も出てくるようで、宴会に出された干し肉と酒をもてるだけ持って、酔っ払ったフリをしながら出て行こうとする男がいた。
中年を過ぎているだろうか。深い皺に日焼けして黒い顔がほんのり赤くなっている。これから逃げ出すというのに、もう一杯やっているらしい。
順調に干し肉と酒を抱えて宴会の輪を脱出した男は、門に続く暗闇の道で項羽の座る高台を振り返った。
光の中に輝く高台。遠目にも大きい項羽が中央で杯を掲げる。

「大王様、すまねぇな。でも、自業自得ってもんだ。俺だって、死にたかねぇ。勝っても負けても、俺には何も残らねぇんだ。あんたみたいに、俺は英雄じゃねぇんだ。」

中年男は、そう呟き、項羽の顔を目に焼き付けるように見つめた。
ふと、項羽がこちらを向く。
目が合った。
中年男は、心臓が止まったと思った。
項羽に脱走がバレたとあっては、八つ裂きにされるのは必須。今まで、一体何人が項羽と目が合っただけで首を刎ねられただろうか。
そのときに項羽が見せる、鬼のような、下等生物を見下すような、怒りに満ちた冷淡な眼をこの中年男は何度も見てきた。
その目が、今回は、自分に向けられる。
一瞬のうちに背筋は凍り、呼吸が止まった。
だが、項羽は、見せたことのない優しい瞳で中年男を見つめていた。
確実に気づかれている。しかし、今日の項羽は違う。
中年男は、瞬きもできな。恐怖で足が震え、酒が壷から零れる。
項羽は、中年男の目を真っ直ぐ見つめたまま、ほんの少し、あごを先に突き出した。
そして、ゆっくりと一回だけまぶたを閉じた。
その瞬間、中年男の震えは不思議と消え去り、足が自由になった。
中年男は、それが、行っていい、という合図だと理解した。
理由は分からない。だが、このときの項羽は、今まで中年男が見てきた項羽とは別人であった。
中年男は、深く一礼をすると、駆け足で暗闇に消えていった。

項羽が視線を中年男から虞姫に戻すと、虞姫は優しく微笑んで頷いた。項羽も柔らかい微笑みを返した。

「よく、ずっとわしの側にいてくれた。」

「八年でございます。」

「あっという間であったな。そなたがいてくれた時間は、わしの幸福の時間であった。」

虞姫の瞳には、涙が浮かんだ。項羽は、決してそんなことは言わない男だ。
項羽は、虞姫を抱きしめ、口付けをした。
広間のどこからでも見られるこの場所で、誰にもはばかることなく。
虞姫の細い体を太い腕で力の限り抱きしめ、唇を吸った。
虞姫の涙の味がした。
項羽は、いつも目を閉じない。だが、この時初めて目を閉じて、虞姫の涙と呼吸を体に染み込ませた。
虞姫の吐息が漏れる。
舌の柔らかく温かい感触。唇の包まれる感触。
これほどまでに虞姫を深く感じたことがあっただろうか。
ゆっくりと口を離し、抱え上げていた虞姫を下ろた。
虞姫の止まらない涙が項羽に現実を突きつける。
項羽は、見ていられなくなり立ち上がると、杯を高く上げ叫んだ。

「飲んでおるか!歌っておるか!」

広場中の男たちの返答が城を揺らす。
その声よりもさらに大きく、豪快に、項羽は笑う。

「そうだ、それで良い。それが楚の男だ!それでこそ、わしの兵だ!」

手に持った杯をグイっと飲み干し、床に投げつける。
杯の割れる音が高々と響き、兵たちの歓声が城を震わす。
続けて、兵士たちも次々と杯を空け、地面に叩きつけて割る。広場中が椀が割れる音で包まれる。
その音を切り裂くように項羽が刀を抜き、天高く突き上げる。
呼応して、千本の刀が天に突き上げられる。

項羽は、大きく息を吸うと、天を見上げた。満天の星空。月はない。
そっと口を開くと、いつもの城を震わす怒声ではなく、広場にやっと聞こえるほどの声で歌った。
澄んだ通る声で、堂々と。

「力は山を抜き
意気は世を蓋えども
時我に利あらず
わが騅逝まず
騅の逝まざるをいかんすべき
虞よ虞よ 汝をいかんせん」

静まり返った広間。城の外からは、楚の歌がうっすらと聞こえる。
兵士たちは、刀を天に向けたまま、涙を流した。切っ先を小刻みに震わせながら、それでも天を見つめ、食いしばった。
項羽は、兵たちのことは一切見ず、天に向けた切先を見つめ繰り返し同じ歌を歌う。
その歌声は、じんわりと響き、染み渡る。

「力は山を抜き
意気は世を蓋えども
時我に利あらず
わが騅逝まず
騅逝まざるをいかんすべき
虞よ虞よ 汝をいかんせん」

兵士たちのすすり泣く声が聞こえる。
この歌を今目の前で歌っているのは、常勝の将軍であり、自信の塊であった大男なのだ。
ここまで付いてきた一万人の兵士たちは、みんな心から項羽に心服していた。
項羽についていけばいい。そう信じてきた。
その項羽が、初めて兵士たちの前で歌を歌う。
兵士たち全員は確信した。自分たちは、負けるのだ。
みんなどこかで感じていた。しかし、項将軍ならば覆せるはずだと、どこかで信じていた。
しかし、自分たちは負けるのだ。
項羽の悲しく静かな歌声が、兵士たち一人ひとりにそのことを自覚させた。

項羽が三度目に繰り返すとき、虞姫が立ち上がり、唱和した。
四度目に繰り返すとき、兵士たちも唱和していた。

五度、六度…項羽の歌は、広場に何度も繰り返し響いた。

項羽の目から頬にかけて、焚き火の炎に照らし出される光る粒があった。

城門から続く暗い通路。
一人の男に続いて、闇夜に紛れて大量の兵士がひっそりと入り込んできた。
広場から聞こえる兵たちの歌声。
広場に向かい、足音を忍ばせて向かう兵士たちは、不ぞろいで質の悪い装備から、正規兵ではなく、項羽の首を取って一旗挙げようと田舎から出てきた農民たちであることが分かる。
誘導してきた男が、忍ぶ兵たちの隊長に言った。
「ここを真っ直ぐ行けば広場です。俺は、ここで帰りますから、約束の金を・・・」
隊長は懐から袋をだし、男には目もくれず投げた。
急いで袋を拾い、大事そうに抱えながら駆け出ていく男は、脇目も振らず来た道を引き返し闇に消えた。

隊長は、高台で歌う項羽を見つめ、ひっそりと言う。
「項羽、お前のおかげで俺たちの村は皆殺しにされたんだ。この時代に、他にどうしろというんだ。だから、その首を上げて俺たちが賞金をいただくぞ。」
漢陣営の間者がこの城にも多数入り込んでいる。それらは、項羽への忠誠心が低い、裏切り遅れとも言える連中を見つけては、こっそりと項羽の首の価値を吹き込んでいった。
そんな間者にそそのかされて集まったのが、この農民上がりの兵士と隊長たちだ。
隊長とは名ばかりで、今まで戦場の隅で生き残るのに必死だった男。兵士たちも、戦乱に巻き込まれて田畑を失い、兵士にならざるを得なかった人たち。
普通に考えて、この素人に毛が生えた連中には項羽の首など取れるはずもないのだが、素人の悲しさか、その困難さと項羽の実力が全く分からず、間者に焚き付けられるうちに自分たちでもやれる気になってしまっていた。
なにせ、同じ城内、しかも、目に見え、声が聞こえる場所に、千金があるのだ。こんな機会など、人生で今後二度とないのは明らかである。
無知な集団の目は、自信過剰に血走っていた。

隊長は、生唾を飲み、意を決して右手を上げた。
抜刀。そっと音を立てないように一斉に抜かれた剣が、闇夜に鈍い光を反射させた。
兵士というにはあまりに質の悪く、緊張と恐怖に襲われている農民上がりたちは、その鈍い光を見つめた。
自分たちの決意を再認識する一瞬の間。
みんな、自然と額から汗が滴り落ちる。
隊長も抜刀した。意を決し、切先を上げる。ただ項羽だけをみつめ、項羽を切りつけるように剣を振り下ろし、開始の合図をしようとした。
項羽は、天に突き上げた自分の剣の先を見て歌っている。

これでお前も終わりだ。このまま宴会になだれ込んで、酔っ払ったその首を取ってやる。

前のめりになり足の裏に体重をかけた。
項羽の視線がすっと隊長に向く。
目があう。
隊長の頭は真っ白になった。
項羽の視線は、鬼のように鋭く、視線を外すことも呼吸をすることさえも許さない。
ただ目が合っただけなのに、心臓が縮み上がり、隊長の顔から血の気が引いていく。

なぜ、気づかれたのだろうか?いや、気づかれるはずがない。たまたまこちらを見ただけのはずだ。
それ以前に、この暗さではこちらの姿は見えるはずがない。大丈夫のはずだ。バレてない。

そう自分に言い聞かせても、隊長の足はガクガクと振るえ、体は微動だに動かない。
合図がないと周りの兵士が隊長の異変に気づいた刹那、今まで聞いたことがないほど力強い馬の嘶きが響き渡った。
広場中に響く低くたくましい声。
出鼻をくじかれた兵士たちの押し殺した驚きと戸惑いの声。
同時に、闇を進んできた兵士たちの、さらに周りに広がる深い闇がギラリと光った。

一瞬だった。
農民上がりたちは、あっという間に闇の中の銀色の光に切り伏せられ、逃げる間もなく黒い路地に血の海が広がった。
隊長も右手を上げたまま、何が起きたのか気づくこともないまま、無造作に作られた死体の山の一つに成り下がっていた。

血の海が作られた影から生まれるように、のっそりと通りに現れる項羽の親衛隊の面々。その身のこなしでこの男たちが並の兵士でないことは一目でわかる。精鋭中の精鋭。その気配は、刃を振る一瞬だけしか感じられない。
結局、農民上がりの侵入者たちは、分不相応な野望に手を伸ばすことすら許されずに命を落としていった。

宴会に浮かれる広間は、侵入者の存在と親衛隊の鮮やかな除去に、何が起きたのかと騒然としている。
その広間の中を、大きく黒く美しい馬が駆け躍る。
その馬は、立髪を靡かせながら驚き逃げ回る兵士たちを上手に避け、中央の焚き火の前でその鍛え抜かれた前足を高く上げた。
その高さは、大人の男よりも高く、
その声は、主が誰であるのか示していた。

騅。

項羽の愛馬にして、天下一の名馬。
美しく、強く、速い。一日に千里を走り、どんな名馬も追いつくことはできない。
項羽のみしか乗ることを許さない、気高い馬。
引き締まった筋肉と手入れの行き届いた艶のある毛並み。
その立ち姿は、騅自身が、自分が特別な存在であることをよく知っているようだった。

騅に呼ばれるように、項羽は高台を降りるために一歩踏み出す。
ふと足を止め、振り向くと、項羽を見つめる虞姫。
項羽は、虞姫に告げた。

「真っ直ぐ劉邦の陣営に向かえ。張良と陳平ならば、そなたを悪いようにはしないだろう。」

項羽は、敵陣営、いや、当代最高の頭脳である張良と、項羽の味方から鞍替えし漢軍の頭脳の一人に加わった陳平の名前を出した。
しかし、虞姫は、しずかに首を横に振った。

「嫌でございます。私の人生は、将軍と共にあるのみでございます。どうして、あなた無しで生きていけましょうか。」

真っ直ぐな瞳。この強い目を見て、踊り子であった虞姫に魅了されたのだ。
それは、つい昨日のことのようで、ずっと昔のようでもある。
項羽は、喉を搾り出すように言った。

「連れてはいけぬ。」

「分かっております。」

思わぬ即答に項羽が驚くと、虞姫は、さっと駆け出し高台から飛び降りた。

自分が足手まといになることは分かっていた。
そして、贅沢な時間を過ごしすぎた自分には、いつかこうした時が来ることも予感していた。
後悔はない。
将軍は、何も持っていなかった一介の踊り子の私に全てを与えてくださったのだ。
幸せだった。
虞姫の表情は、穏やかで、涙が笑顔に輝いていた。

手首が掴まれる。
締め付ける痛みが右手に走り、次に衝撃が肩に響く。
見上げると、項羽の顔があった。
太く黒い腕に掴まれた細く白い腕。
項羽は、一息に虞姫を引き上げる。高台に倒れこみ、泣き伏せる虞姫。
項羽は、その上から虞姫の背中に言った。

「そなたはわしのものだ。わしの命令を拒否することなど許さぬ。」

項羽は、虞姫に背を向け高台から降りていく。
最愛の安らぎの最後の感触を逃さないように、強く右の拳を握りしめた。
声を上げて泣きつぶれる虞姫。右手首には、真っ赤な項羽の手形が残っていた。

広場に下りると、騅が待っていた。
穏やかに待ってくれていた騅の額を優しく撫でる。
気持ちよさそうに目をつぶる騅。そのまま首筋を撫でてやると、頭をあげ、首を伸ばす。
出陣前のいつものやりとりだ。

「もう一度だけ、付き合ってくれ。」

項羽は騅に語りかけ、ふわっと騅の上にまたがる。
大男に屈強な馬。
その姿は、子供が夢見るおとぎ話であり、まさに英雄の肖像であった。
すっかり混乱が収まった広場。全ての兵士たちが、項羽と騅のその姿に見惚れ、次の言葉を待っていた。

「皆のもの、さあ、江東に帰ろう!」

広場に響く項羽の声。澄み切った、よく通る声。優しく、父親のように包み込む声。
騅が一啼きし、駆け出した。
兵たちは、それぞれの役割を果たすため項羽に続いて駆け出した。
高台の上でうつ伏せる虞姫。
項羽は、背中で虞姫の涙を感じながらも、振り返らずに門をくぐった。
騅は、いつも以上に速く走った。

(つづく)

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