見出し画像

【連載小説】『晴子』7

 気が付いたら、リビングのソファーの上でクッションを抱いて眠っていた。
 西日のまぶしさに目覚めた私は、ソファーのひじ掛けの所に背をもたれさせて、半分身体を起こした。テレビを見る気にもなれず、窓の外を見るともなく眺めた。夏の夕方は、まだまだ明るい。
 飲食店の仕事は、休みの日が世間の休日と一致しないことも多い。今日も仕事は休みだが平日で、だから休みの日にただでさえ数少ない友人と会う約束を取り付けることもままならない。あの人と会うのは出勤日か休日かを問わず、夜に会うことが多いから、生活の中で会いやすい人に分類される。だからこそ、この関係も続いていたのだ。
 私はあの人の本名を知っている。でも、あの人と関わる時に特に名前を呼ばないので、知っている必要もないのだが。別に、名前なんて重要ではないのだ。特に、私たちの場合は。私が名前を秘密にしたように、私たちはどちらにも秘密を保つことができるのだ。仮にある秘密が相手に伝わったとしても、私たちにとってはとるに足らないことだったし、もはやお互いにどうこうできるものでもない(し、その必要もない)。
 だから、私の名前のことも、あの人に妻子がいることも、驚くに値することではなかった。私たちは一緒にいることが自然だった。それは、不倫について道徳的な良し悪しを判断するという次元の話ではなく、雨上がりに自然にできる虹に良いも悪いもないのと同じなのだ。自然であるとこは、良し悪しよりも余程重要なのだ。
 気が付くと、外が少し薄暗くなってきていた。午後6時でもまだ明るい。思い返してみると、今日一日、何をしていたのかあまり覚えていない。休日でも大体起きる時間はいつもと変わらないことを、同じ職場の宮崎菖蒲に羨ましがられたことがある。
「いいなあ。それ、一番いいですよ。」
 菖蒲ちゃんは、職場の女子更衣室でウェイトレス用のシャツを脱ぎながら言った。何がいいのかよくわからないまま、でも特に良いことと自覚していないことを良いと言われているわけだから、悪い気はしないものの、それでもやはりどこか奇妙な感じが背中を這い回った。
「そういうものかな。でも、早く起きるからって羨ましがられるようなこと、何もしてないわよ。」
「でも、そういうの、私はかっこいいと思いますよ。晴子さんのそういうところ。平日も休日も区別せずに、淡々としている感じ。私なんて、休日は昼過ぎまでゴロゴロしてますよ。」
 話を続けて聞くと、どうやら彼女にとっては、世間的な平日と休日の区別になびくことがないというのが、自分のスタンスを貫き通しているように見えて「かっこいい」らしい。でも、こういうのは職場の環境に影響を受けている部分も少なくないわけで、つまり菖蒲ちゃんも私と同じこのレストランで働いているのだから、彼女だって「かっこいい」のではないだろうか?菖蒲ちゃんは、たまにこういう、よく分からないことを言う時があるけど、悪い娘ではないのは明らかだった。実際、職場の後輩の中でも仲良くしているのは彼女だった。
 もう、太陽はすっかり空から消えて、西にその余韻を残すような薄ら明かりだけがあった。そろそろ夕食を作った方がいいかもしれない。思い立って立ち上がり、Bluetoothスピーカーの電源を入れる。iPodとスピーカーを繋いで、気分に合わせてRod Stewartを流す。
 夕食の献立は特に決めていなかったが、今日の暑さから熱いスープを作るのは選択肢から消えた。とりあえず、冷蔵庫のよく冷えた野菜でサラダを作ろうと思った。野菜を取り出して、キャベツをちぎり、トマトを切りながら、Rod Stewartのハスキーな声に合わせて、Have You Seen The Rainを鼻歌でなぞる。今日もまたパンを切って、他にサラダチキンをほぐして、作ったサラダにちりばめた。一人の夕食は、特に彩りや変化を急かされないことが心地いい。
 Rod Stewartの声が、孤独な晩餐を祝福しているような、そんな夜が始まった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?