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【連載短編】『白狐』8

 鳥居の前で二人して立ち止まった。
 本殿に続く石の階段は長く続いていて、その上を高く伸びる木が覆いかぶさっていた。その木にはもう葉があまり付いていないことが暗い中でも分かったのは、風が吹いても葉擦れではなく、枝が空を切るような乾いた音しかしなかったからだ。階段を上った先に、本殿のシルエットがぼんやりと浮かんでいる。
「ここでいいんよな?」
 清水はこれには答えなかった。スマホの地図を確認しながらやってきたのは俺だから、清水に聞くのは間違っている。それでもそう聞いたのは、そう聞かざるを得ないような何かその神社に感じたからだ。
 その神社は、いたって現実的だった。縁結びの白狐だの、座敷童だの、そういった類の噂がある場所なら、そういう噂に相応しい神聖さなり妖しさなりが醸し出されていてもいいはずだ。それなのに、今俺の目の前にある神社は、そうした非現実的な現象を否定するかのようだ。それはまるで俺たちの生活の延長線上に地続きにあるかのように、いたって世俗的なもののように、ただそこにあるものとしてしか存在していないかのような、そんな神社だった。
「行きましょう」
 清水が踏み出して、鳥居をくぐるのに俺も続いた。
 風は、階段を上る俺たちの斜め横から吹きつけては、おさまってを繰り返した。とてつもなく巨大な誰かの冷たい呼吸が俺たちにかかっているようだった。
 石の階段はデコボコしていて、上りにくい。段差が数ミリから数センチくらいの間でまちまちだから、たまに躓きそうになる。
「あのさ」
 黙って階段を上るのにも飽きてきた。
「清水は白狐の噂、ぶっちゃけ信じとる?」
 清水は階段に上りながら考え込んだ。息が切れていないところを見ると、体力はある方なのだろう。
「先輩はどうなんですか?」
 逆に聞かれて、俺は狼狽した。返す言葉が見つからないでいると、清水が先に答えた。
「私はどっちでもいいんです。本当のことを言えば、噂も半信半疑です。でも、どっちでもいいと思ってます。白狐の噂が本当でも嘘でも」
 俺たちは階段を上り切った。目の前には、鬱蒼とした木々を背景にした本殿が構えている。
 彼女はどんどん前に進む。くるりを歌いながら。
 俺も黙って後を追う。
 俺たちは本殿の前に着いた。彼女は財布を取り出して、静かに洟をすすりながらお賽銭を投げた。からんころんと、間抜けな音がした。
 俺も何を祈るでもなくそうした。また、間抜けな音が鳴る。柏手は二人で打った。
 手を合わせて顔を上げると、清水はまだ隣で拝んでいた。俺は隣で彼女を待った。
 参拝が終わると俺たちは本殿前の数段しかない階段に座った。清水は手でカイロを揉んで縮こまる。俺はその横に並ぶように座った。
「狐は探さんの?」
 彼女はその質問には答えることはしなかった。
「私は、先輩と結婚してみたいって考えてますよ」
 急な宣言に、俺は返す言葉を失った。彼女は続ける。
「もちろん私だって、初恋の人と結ばれる確率がかなり低いのは分かってます。結局、これも今のところです。狐が見れても、どっちにしても、先輩とずっと一緒にいたいって。少なくとも今はそう思うので、とりあえずそうなるように努力したいというか…」
 段々、彼女の声が消え入るように小さくなり、それにつれてうつむいた。
「俺も、そう思っとるよ」
 やっと返答ができた。
 ——今のところ。彼女の声が頭に残った。彼女なら、彼女となら、白狐を見るか否かに関わらず、永遠に結ばれる未来に到達できるかもしれない。彼女はこうやって、「今のところ」をたくさん積み重ねて、本当に想像していたような将来を手に入れられるように見えた。
 でも、僕は半分疑ってもいた。いくら清水がそうだからといって、そしていくら自分たちがお互いを好きだからといって、俺たちの関係はちょっとしたことで簡単に終わる可能性のあることは変わらない。
 例えば、清水が親の事情で転校したら。あるいは、俺がこの町を出ていったとしたら。多分この関係は簡単に終わる。問題は僕たちの恋心ではなく、もっとドライで無機質な何かだ。大人の事情とか、入試とか、生活の変化とか、物理的な距離が生む齟齬とか、人間関係の移り変わりとか、反抗期も終わりに差し掛かって何となく自覚し始めた俺たちの幼さとか。あるいは、永遠の愛に対する漠然とした怖さとか。
「もちろん、今のところはな」
 だから俺は、こう付け加えた。でも、俺が言う「今のところ」は、清水の言うそれとはずいぶん違うものだ。彼女のそれが暫定的な目的に向けて積みあがる踏み台のような言葉だとしたら、俺のそれは望んだ将来が実現しなかった時のための予防線のようなものだった。
「せっかく来たんだから探しましょう。白狐」
 彼女は立ち上がって、尻を2、3回はたいた。
 俺も、立ち上がって彼女の顔を見た。
 どこかで音がした。風の音かと思ったが、俺の肌はそれを感知しなかった。
 瞬間、彼女の肩の向こうに、白い光が見えた。
「あ」
 声を出したのも、俺の声に反応して振り返ろうとした彼女を抱きしめたのも、ほとんど反射的だった。
「どうしたんですか?」
 俺の胸に顔をうずめられた清水の声はくぐもった。俺の意識は、彼女の肩越しにある、白い発光体に向けられていた。
「私、こんなところでは嫌です。寒いし。バチ当たりそう」
「違う。そんなんじゃない」
 はじめは、ただのぼんやりした白い光だと思った。目が慣れるにつれ、それは輪郭のある何かが光っているものだと分かった。尖った耳と鼻、青く澄んだビー玉をはめ込んだような目。筆の毛束のような尻尾。柔らかく膨らんだ毛に覆われた肢体。白い光は、毛並みのようにふんわりとして、離れていても温度さえ伝わってきそうだった。
「先輩?」
 清水が聞く。
「いたんですか?」
 その光は、やがて茂る草木の中に跳ねるようにして消えていった。
「先輩、苦しいです」
 その声で、俺がかなり強い力で清水を抱きしめていたことに気付いた。俺は彼女をすぐに離した。
「どうしたんですか、急に」
「ごめん」
 清水は、少し息が荒くなっていた。
 俺はさっきの白い光があったところに目をやった。清水の俺の視線を辿るように後ろを振り返った。そこには穏やかな風にゆれる草木の陰しか見えなかった。
「やっぱり、見たんですか?」
 彼女は少し興奮気味に聞いた。
 俺はこう言うしかなかった。
「ううん、見てへん。何も見てへんよ。」

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