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Tokyo Undergroundよもヤバ話●’70-’80/地下にうごめくロックンロールバンドたち第8話『青ちゃん“青木眞一”の村八分/後編 “ど素人バンド結成”』

取材・文◎カスヤトシアキ
話/山口冨士夫(ミュージシャン)
話/ケンゴ(ミュージシャン)
話/恒田義見(ミュージシャン)
話/ユカリ(上原裕・ミュージシャン)
話・資料/藤枝静樹(映像作家)
資料/青木ミホ
写真/Akira Mochizuki
写真/井出情児
写真/鈴木

  

『“ど素人バンド”から“村八分”へ、変わりゆく狭間の出来事』

 
◉人間は一生のうちに何度変身するのだろう。

  想像していた自分が、想いと同じ人間になっていくとは限らない。もちろん、全く変わりなく、思い通りの自分で、予想通りの人生を過ごす人もいるのだろうが、大抵の人は何度かの転期がある。それはその人に訪れる様々な出来事によって変わるのかも知れないが、そこをどう生き抜くかによって、その人自身の人間性が決まっていくのかも知れない。

 【簡単すぎる人生に、生きる価値などない】byソクラテス

 【私たちは思った通りの人間になる】byナイチンゲール

 【狂気とはすなわち、同じことを繰り返し行い、違う結果を期待すること】byアルベルト・アインシュタイン

 【全てのルールに従って生きていたら、私はどこにも行けはしないわ】byマリリン・モンロー

 【一度でいいから、人生捨ててロックしようぜ】byフジオ・ヤマグチ

 【ウルセェな、お前が弾けよ】byシンイチ・アオキ 
(ギターの練習をしない青ちゃんに苦言を呈した時に返ってきた名言)
 

青木眞一/プロフィール

1951年1月5日生まれ。東京都出身。1970年、セツ・モードセミナー在学中に『村八分』初代ベーシストとして音楽活動を始める。1976年『スピード』でギタリストに転身し、1980年、伊藤耕たちと共に『ザ・フールズ』を結成。1983年からは山口冨士夫と行動を共にし、『タンブリングス』→『ティアドロップス』で活動するが、1987年、冨士夫の活動停止と共に、ジョージと『ウィスキーズ』を結成し、限定的ながらも印象的な活動をした。その後、1991年まで『ティアドロップス』で音楽活動をするが、バンドの休止と共に自身の音楽活動も終了した。最後のステージは2008年11月8日の山口冨士夫クロコダイル・ライヴでの飛び入りであった。2014年、12月18日、63歳でこの世を去った。

 ケンゴ 談/「“セツ”のみんなと一緒にいた頃の冨士夫はさ、大人しくて穏やかな良い奴だった。青木はそんな冨士夫に惹かれて京都まで行ったんだろうな。『フールズ』の後、(タンブリングスで)また冨士夫とやりだした時、青木が言っていたよ。“昔の冨士夫が戻ってきたから、また一緒にやるんだ”って……」

◉ケンゴが話すように、この頃の冨士夫は、青ちゃんにとって優しい兄貴のような存在だった。もう一人の兄貴はチャー坊だ。といってもチャー坊は(青ちゃんと)学年が同じ、青ちゃんが早生まれなだけなのである。当時の冨士夫はロック界隈で一目置かれる存在だったから、(周りから注目されて)一緒にいると気が張ったことだろう。かたやこの時のチャー坊は、アメリカのカルチャーをたっぷりと浴びた感覚と自負がある。この時代にアメリカを味わったのだから気もはやっていたに違いない。このオーラ溢れる二人に挟まれて、必要以上に格好をつけなければならない青ちゃんの姿が思い浮かぶ。チャー坊(Vo)、青ちゃん(Ba)と冨士夫(Gu)の3人でバンドをやることだけは決まっていたが、一体どうすれば良いのだろうか⁉ とりあえず、サングラスをかけ、煙草をくゆらせながら、寡黙にポーズを決める青ちゃんがいる。しかし、その手元には、まだベースギターさえなかったのだ。

 時を同じくして、ヘフナーのソリッド・エレキベースを持った恒田さん(※1恒田義見)が、東京から京都へと渡った。ドラマーなのだが、冨士夫に頼まれて(自身が持つ)ベースギター持参で京都までやって来たのだ。

冨士夫「青ちゃんはどっから仕入れて来たのか知らないけど、すかさずさ、へフナーのソリッドのベースを(京都に)持って来たよ。それもオシャレなやつ。表面はラメなんだよ。ラメ。キラキラ。裏は真っ黒なの。それに黒い弦張ってんだよ。俺が教えてねぇのによ。『黒い弦張れよ』って言おうと思っていたらもう張ってんだよ。黒い弦ってさ、ちょっとアコースティックな感じの音がするわけよ。『♫I Am The Walrus♫』とかやっている時のポール・マッカートニーが使ってたよ。当時、はやったんだよ、黒い弦。青木はそれを使ってた。どっから手に入れたのかなぁ、あれ。あいつも金なかったはずだしなぁ。俺も金なかったしなぁ、まあ、いいや。」(『村八分』K&Bパブリッシャーズより

◉“まぁ、いいや。”ではない。冨士夫せんせい、自書では完全に忘れてしまっているようだが、そのベースギターは恒田さんが京都まで持参したものなのです。それも、冨士夫に頼まれて。しかも、黒い弦まで張って。

The Beatles - I Am The Walrus (Official Video)


"Get Back" Rooftop Performance | The Beatles: Get Back | Disney+

※調べてみると、ポールが黒い弦を使っているのは"Get Back"のシーンだった。まぁ、想像にまさる事実はないということで。ご愛嬌です。

 

『恒田義見“ど素人バンド構想”のドラマーとして参加する』


恒田義見(つねだよしみ)プロフィール/

1951年。東京赤坂生まれ。『村八分』、『ブラインド・バード』、『ハルヲフォン』など、1970年代日本のロックの黎明期を生き抜いたロックドラマー。1980年以降はポップ・ロック・バンドの『ペグモ』を結成するなど、幅広く活動する。その後、和太鼓に出会い『鼓絆』を結成し、インターナショナルな活動を続けている。著書に自身の自伝『ロックンロールマイウェイ/uuuUPSbooks』がある。

恒田 談/「“いま、冨士夫たちが来るでぇ”って、『フリーゲート(当時、京都にあったフリースペース)の住人(管理人)』である加藤さんが言ったかと思うと、いきなり、バーン!っと、ドアが開いて、チャー坊、冨士夫、青ちゃんが入って来た。
 まさに『おぉっ!』っという感じ。チャー坊なんか、尻の下まであるんじゃないかというくらいの長髪。前に日比谷の野音で、成毛茂(※2)のステージのときに踊っているのを見たことがあるから、認識はしていたんだけれどね。実際に目の前に現れるとね、全然迫力が違った。青ちゃんは知らん振りしているし。わかるでしょ? そっぽを向いて、目も合わせないって、シカトするあの感じ。」

成毛滋 ロンドン・ノーツ(London Notes)

※成毛 滋(なるも しげる)。1947年生まれのギタリスト、キーボーディスト。東京都出身。1960年代後半から1970年代を中心に国内のロックシーンで活躍。ブリヂストン創業者である石橋正二郎の孫で父親は同社副社長。鳩山威一郎の甥で、鳩山由紀夫・邦夫兄弟は従兄弟。2007年死去。享年60歳。※『TEARDROPS』が東芝EMIと契約した時、冨士夫の提案で成毛さん宅を訪問したことがある。人脈を配してCM等につなげることはできないだろうか? という都合の良いお伺いだったのであるが、「無理」ということであった。考えてみればそれだけ冨士夫も本気だったんだな、と今更ながらに思うところである。

◉ドギマギしている恒田さんの心細げな間(ま)を察したのか、全員で四条河原町にあった『バチバチ』というディスコに移動する。といっても踊るわけではない。いきなりセッションをするのであった。

恒田 談/「その日はそこで何を演ったんだっけなぁ?とにかくストーンズナンバーだったような気がするんだけど……、はっきりとは覚えていないんだ。僕は歌が唄えたから、冨士夫とハモったりしてね、初日なのに上手くなじんだって思いがある」

◉それが恒田さんが京都に着いた日の出来事であった。そこからドラムとしてメンバーに加わるのである。

恒田 談/「僕はまだ19歳のガキだった。高校を出たばかりの生意気なガキ。冨士夫とチャー坊は二つ三つ上で、青ちゃんもひとつばかり上だったのかな? とにかく僕が一番年下で、3人の兄貴に囲まれているっていう構図だったな」

◉ついに青ちゃんにも弟ができたのである。(なんて、考えてみたらメチャクチャ全員が若いのであった)実は、青ちゃんと恒田さんとは、その前に東京で出会っていた。ドラマーを探していた冨士夫が、立川直樹さん(プロデューサー・ディレクター)の紹介で恒田さんに会って、『サンダーバード』でセッションをする段階から立ち会っていたのだ。

恒田 談/「『おれ、冨士夫。京都でバンドやろうと思っているんだ。ヴォーカルはチャー坊って奴。ギターは俺の他にもう一人いる。ベースはあてがあるんだが、ドラムがいねぇんだ、探しているんだよ』

 六本木のアマンドで冨士夫にそう言われて、ここでのドラムって、自分のことだってわかって来てはいるんだけど、改めて言われるとね、なんかね…。

 だってそうでしょ、コッチは『ダイナマイツ』が好きで、高校(立教)のときなんかずっと観に行っているわけ。教師にどやされながらも、ステージ通いがやめられない。同じ高校の1級下に幸宏(高橋幸宏)がいて、彼が校門のところで待っているわけだ。“一緒に『ダイナマイツ』観に行こうぜ”ってね。その幸宏がまた冨士夫のことが大好きだった。「あのギターは凄いよ」なんて、いつも冨士夫の話ばかりしていたから。だから、彼と一緒に行くわけ。池袋のドラムとか、新宿のラ・セーヌ、アシベとか…。

 その『ダイナマイツ』の冨士夫が、いま、目の前にいる。そして、ドラムを探しているとか言われてもね(笑)」

マーシー・マーシー・マーシー


◉結局、音を出してから決めようということで、『サンダーバード』でセッションをすることになったのだ。

恒田 談/「今考えてみると、あれは青ちゃんと石丸しのぶなんだけれど、途中から合流するわけ。しのぶは腰まであろうかという長髪、青ちゃんはアフロヘアーで、とてつもないインパクトがあった。新宿『サンダーバード(ゴーゴークラブ)』では『ジョイ』っていう、ヤードバーズみたいなバンドが出演していたんだけれど、『今日は山口冨士夫が来ているので、一緒に演りたいと思います』とかステージから言うんだよね。それで僕もいきなりドラムにつかされた。で、ストーンズ・ヴァージョンの『モナ』が始まり、15分くらい演ったかなぁ……。それこそ初めてだった、プロと演るのはさ(高校生の時から、セミプロとして横浜のハコには出演していたが……)。冨士夫はとても巧みに音を回すわけ。もちろん、それまでに自分たちが演っていたのとは大違い、全くの別世界って感じだった。だから、それこそ必死で、見失っちゃいけないから、倒れてもいいから演りきろうなんて思っていたのを憶えている。それで、10分なのか15分なのか、あるいはもっと長かったのかも知れないけれど、やっと終わってね、ほっとしているところにまた冨士夫が来て、

「もう1曲いい?」って(笑)……。

 まぁ、そんなセッションがあって、終わったら『決めた!』って冨士夫が言いながら近づいて来てね、『お前さぁ、京都来いよ』って言うんだ」

Mona (I Need You Baby)

◉そんなことがきっかけで京都に出向いた恒田さんではあったが、バンドの名前はまだなかった。その時のバンドのもう一人のギタリストは水谷さんである。つまり、この時は、仮にだが『裸のラリーズ』と、『山口富士夫バンド』がごっちゃだったのだ。冨士夫もチャー坊を介して水谷さんと会ったばかりであった。ドラムに恒田さんが加わり、青ちゃんが生まれて初めてベースギターを手にした。そして、延々とブルーズギターを弾きまくる染谷君をメンバーに引き入れて、四条河原町『バチバチ』で、1週間の突貫練習に入ったのである。

恒田 談/「僕はフリーゲートに住んいでたし、チャー坊や青ちゃんもよく泊まっていった覚えがある。そのフリーゲートで青ちゃんにベースを教える冨士夫がいて、それが日常的な風景だった」

◉バンドのオリジナル曲もまだなかった。ストーンズ、ブラインド・フェイス、ボブ・ディラン、マウンテンの曲を演奏していたという。チャー坊も歌っていなかった。踊っているだけだったのである。ヴォーカルは冨士夫と恒田さんがとっていた。

Blind Faith - Can't Find My Way Home - London Hyde Park 1969.

MOUNTAIN - Mississippi Queen (Live on "The Show" 02-24-1970) - * RARE * remastered audio

◉そして、『バチバチ(京都・月世界バチバチ/ゴーゴークラブ)』で1週間練習したのち、1970年7月に富士急ハイランドで行われたイベントに『裸のラリーズ』として出演した。

Photo/『月世界バチバチ』ディスコクラブ資料館

[Disco in my life 197?] 京都 月世界バチバチ . #Discoinmylife #月世界バチバチ #京都ダンスホール #ゴーゴーバチバチ

Posted by ディスコクラブ資料館 on Tuesday, March 8, 2022

  
 後に唯一の『村八分』動画を8ミリフィルムで撮影することになる藤枝さん(藤枝静樹/映像作家・プロデューサー)は、この日の状況を以下のように語っている。

藤枝 談/「バンド演奏を聴くと、確かにベースの音がするんだけど、ステージを見るとべーシストがいないんだ。“おかしいな”と思ってベースアンプの裏に回ってみると、ベーシストがアンプに隠れて弾いていた。それが青ちゃんだったんだよね(笑)」

◉冨士夫もこの日の青ちゃんについて援護射撃をしている。

冨士夫 談/「ベースの音がするのに弾いている奴はいないしね。みんなから見えない。アンプの後ろにいるんだもん。青ちゃんにとってこれが初ステージで、恥ずかしいから下向きながら弾いていたって。だって青ちゃんにコードを教えたのは、その1週間ぐらい前だよ。Aはここ。Eはここ。Dはここ。この三つを知っていればほとんど大丈夫だからって。でも、あれが最初のステージっていうのはきついよね。」(『村八分』K&Bパブリッシャーズより)

◉このイベントに参加した藤枝さんは、そのときのことを音楽雑誌『ヤングギター』に寄稿している。

『裸のラリーズ:雑誌記事「ヤング・ギター」1973年9月号から』
◉1970年はウッドストックの映画が公開されたり、ストーンズが来ると言われた『富士オデッセイ』が企画されたりして、ロック・フェスティバルは常にマスコミに話題をふりまいていた。

Santana Soul Sacrifice 1969 Woodstock Live Video HQ

『ウッドストックがやってくる!』 予告編

【ウッドストック】 40万人以上の観客を集めた伝説の無料コンサートはどの様に誕生したのか


「この『ロック・イン・ハイランド』もその当時の日本の代表バンドを全て網羅し、スタッフ、機材も最高の部類を集めて、かなり前からマスコミの間で騒がれていたにもかかわらず、さて幕を開けてみると、バンド関係、報道関係をのぞくと、真の観客は100人位しかおらず、関係者は唖然としていた。日本版ウッドストックと前評判を聞いてドッと押し掛けた報道陣は、このイベントの不成功はともかくとして取材をしなければならないので、ちょっとした事が起こると、いつもカメラマンの山ができて、アマチュア写真家の撮影会みたいな雰囲気になっていった。

 ちょうど『裸のラリーズ』が出て来て『ギミー・シェルター』を演奏し始めた時、案の定この人だかりができてしまった。」

The Rolling Stones - Gimme Shelter (Live) - OFFICIAL

「よせばいいのにその中の一人がカメラを持ってステージに上がって行き、写真を撮り始めた。その時である、ステージの隅で踊りを踊っていた不思議な奴が、そのカメラマンに向かって激しいケリを入れた。それに合わすように曲はブレイクして、『ミッドナイト・ランブラー』のブレイクに代り、カメラマンは鼻血を出しながらステージの上から転げ落ちていった。」

The Rolling Stones - Midnight Rambler (Live on Copacabana Beach)

「その事を遠巻きに見ていた僕はスゴイ奴が現れたと思い、走ってステージの真ん前まで行き、その男を見つめた。近くに寄ってみると、濃いグレーのシャツに擦り切れたようなジーパンをはき、その上から夏だというのに穴の開いたロング・ブーツを履き、八百屋の前掛けをつけて胸まで伸ばした長髪を揺らしながら踊っており、かなり異様に見えた。僕はその男に釘付けにされたように見つめた」

『「ヤング・ギター」新興音楽出版社(現シンコー・ミュージック・エンタテイメント)発行1973年9月号』『ロック・イン・ハイランド』より一部抜粋/藤枝静樹

◉その男がチャー坊である。時たまワンフレーズを歌うだけで、後はずっと1時間のステージ中踊り続けていた不思議な男だったのだ。

 このイベントの『裸のラリーズ』とは、水谷孝がセッション・メンバーとして、バックに山口冨士夫グループを頼んだという事であった。(『裸のラリーズ』のオリジナルメンバーだった久保田麻琴さん曰く、『裸のラリーズ』とは、あくまで水谷孝を指し、その他のメンバーは絶えず流動的ということであった)

裸のラリーズ Les Rallizes Denudes 1

【渋谷】CITTA' '93 / 裸のラリーズ 発売記念パーティーFall and Rise of Les Rallizes Dénudés Vol.4

※現在、『裸のラリーズ』の Live Mix/Produceを手掛けている久保田麻琴さんによれば、いよいよ来年は山口冨士夫の入ったバージョンを手掛けるらしい。楽しみである。

Photo/Akira Mochizuki 客が少なくてマスコミばかりだったステージで、冨士夫もドラムの後ろにいる。

◉富士急ハイランドで、チャー坊がカメラマンを蹴飛ばした血まみれの写真が、新聞や週刊誌を随分と賑わして、センセーショナルにマスコミに取り上げられた。それで、“京都に危険なバンド現る”と、全国に知れ渡ることになったのである。(今とは真逆な世界だ。今だったら叩かれるであろう暴力的なイメージは、当時はいかにもロック的な華やかさとしてフィーチャーされたのであった)

恒田 談/「だけど、そのすぐ後なんだ、チャー坊が世間から姿を消すのは。だから、逆にそれがミステリアスだったんだよね。そういう感じでメディアが効果的な捉え方をしたような気がする。だって、注目されたのに表舞台に出てこないんだから。

 僕が京都に行って、ほんとうにすぐ、チャー坊が何ヵ月も入ったりしていた。何ヵ月かして“シャバはいいでぇ”とか言いながら出て来て、そのときに初めてチャー坊の歌を聴いたんだよ。ハーモニカを吹きながらね、『What a Shame』っていうストーンズのナンバーをやっていた。その時だね、“チャー坊の声はこうゆう感じなんだ”って知ったのは。」

What A Shame ((Original Single Mono Version))

◉チャー坊抜きの『山口冨士夫バンド』は、京都と東京のディスコを行ったり来たりして活動を続けていた。やがて、再びチャー坊がシャバダバ! っと現れ、合流しても、しばらくは踊っているだけのパフォーマーであった。

冨士夫 談/「俺とチャー坊、染谷、青ちゃん、恒田の頃がいちばん平和だったね。(その中で)京都の奴はチャー坊だけだよ。」(『村八分』K&Bパブリッシャーズより

恒田 談/「僕の知る限り、バンドが『村八分』になったのは木村さんがマネージメントをやるって話になったころから。僕が京都に行って、1年くらい経ってからかな。チャー坊が詩を書き始めて、バンドの芯が冨士夫からチャー坊に移っていった。それまでは完全に冨士夫バンドだったからね。全ての音楽性を冨士夫が引っ張っていたわけだから。そこにチャー坊がオリジナルを持って来るわけ」

◉チャー坊が最初に書いた詩は『くたびれて』。冨士夫はそれに対して『Don't Let Me Down』のコード進行から曲作りに入ったと明かしている。そこからチャー坊色に染められた『村八分』が始まるのである。

The Beatles - Don't Let Me Down

くたびれて / 村八分(from “1979”)2019 Remaster


◉『[小野一雄のルーツ]改訂版より』の木村英輝さんの文章を伺うと、初めて青ちゃんと共に木村さんを訪ねてきた時の冨士夫は、

「私の家を訪ねてきたフジオ君は、実に礼儀正しい爽やかな青年だった」

 とあるが、半年後の深大寺フリー・コンサートの時には、

「チャー坊や青木君と一緒に、目の回りを黒く化粧した村八分に変身していた。(以前に)私の家を訪ねたフジオ君ではなかったのだ」

 となり、1年位経った頃、さらにバンドのプロデュースまでを頼みに来るのである。

木村英輝[小野一雄のルーツ]改訂版より

◆フジオ君が京都を訪ねてから、一年位経った頃、チャー坊とフジオ君が私に話があると連絡してきた。木屋町の琥珀というロココ調の喫茶店で会うことになる。

 私に村八分をプロデュースしてくれということだった。

「キーヤンと組んで売りだしたらすぐに日本で一番になれる。売りだすのがはっきり見えるんや、一緒に金儲けしよう」。

 何と自惚れの強い奴らや、私に儲け話をもってのせようとしている。金では動かない私のこと知らんのと違うか、そう思ったけどチャー坊の自身にはオーラがかかった迫力があった。

 世直しをしなければと政治運動に奔走する若者たちの情報に囲まれていた私に、チャー坊の誘いは意外な新鮮さがあった。

 その後、村八分をプロデュースすることになる。◆

(blog[小野一雄のルーツ]改訂版より)

水たまり from 『村八分 ライブ』(2022 Digitally Remastered)

◉時を同じくして恒田さんはバンドを抜けて帰京することになる。代わりにドラムとして入ったのは、当時まだ高校生だった17歳のユカリさん(上原 裕/うえはら ゆたか)だった。ギターも染谷さんから、龍谷大学に通っていたテッちゃん(浅田哲)に代わり、東京のメンバーは青ちゃんと冨士夫だけになった。バンドはだんだんと京都色に染められていき、チャー坊独特の雅(みやび)なる世界へと変貌していくのだった。

 当時の様子を恒田さんとユカリさんの対談からも確かめることができる。ユカリさんは恒田さんの次に、『村八分』に加わったドラマーである。

『ブログ/山口富士夫とよもヤバ話』2016年10月6日都立大学駅前にて/恒田さんとユカリさんの対談より』※李 哲洙/コーディネート)

ユカリ(上原 裕/うえはら ゆたか)プロフィール

1953年生まれ。16歳の頃、伊藤銀次と知り合い、『グラス・ブレイン』を結成。1971年には『村八分』、1972年には『ごまのはえ』に参加。その後 『ココナツ・バンク』のメンバーとなる。1975年シュガー・ベイブのアルバム『SONGS』のレコーディングに参加。『ハイ・ファイ・セット』のバック・バンドに加入。『シュガー・ベイブ』のメンバーになり、以後1976年4月の解散まで活動。1981年から1984年まで沢田研二のバック・バンド『EXOTICS』に加入。その後、一時期ドラマーを引退していたが、『瀬川洋&トラベリン・オーシャン・ブルーバーズ』で復活する。湘南のサーファーでもある。愛称の“ユカリ”というミドル・ネームは、明治「マーブルチョコレート」のCMに出演していた上原ゆかりに因んで付けられたもの。

恒田「ユカリさんは、どのくらい『村八分』をやっていたんですか?」

ユカリ「僕は1年くらいじゃないかなぁ!? 18歳になる3ヵ月くらい前に辞めたんだから」

恒田「『村八分』に入るきっかけは?」

ユカリ「京都の一本松というところに『マップ』という喫茶店があったんだけど、中に入るとホールとカウンターがあって、奥にビリヤード台があるような店。そこにチャー坊はいつもビリヤードをやりに来ていた。僕は高校の帰りはいつもそこに行っていてね、珈琲一杯でず〜っと夕方までいるという毎日なわけ。スティックを持ってね。そこはチャー坊の知り合いだらけだった。だいたがその店にいたのよ」

恒田「そう言えば、チャー坊はビリヤードが強かったね」

ユカリ「そうですね」

恒田「チャー坊はポケットが得意だった。千円を缶かなんかに入れてさ、賭けビリヤードだよね。最初の頃はそんなので凌いでいた事もあったなぁ」

ユカリ「ホントに!? 面白い(笑)。いつも『マップ』の奥でやっていましたもんね」

恒田「“ちょっと行って来る”なんて言ってね。こっちも、“メシ代稼いで来てね”なんてね」

ユカリ「あの頃はエイトボールですよね、負けたほうが金を払う」

恒田「ところで、何を話してみたかったかというとさ、僕のあとのシーンはどうだったか? それを知りたくなってきたわけ、今さらなんだけどね。何で1年で辞めちゃったのか知りたかったんだよね。先に辞めた僕が言うのも何なんだけどさ」

ユカリ「辞めたっていうか、活動ができなくなったんです。冨士夫ちゃんがね、アレで(笑)活動休止になったもんだから。とりあえず、みんなバラバラになって僕も家に帰ったという……(笑)」

恒田「じゃあ、何かいろいろなことがあってということじゃなくて……」

ユカリ「そうです。まぁ、いろいろあったといえば、日常的にはあったんだけれど(笑)、活動休止は冨士夫ちゃんが原因。そこまでで僕は抜けた」

恒田「『村八分』ってユカリさんにとってはどうだった?」

ユカリ「ロック魂っていうか、そういうのをもらいましたね」


2016年10月6日。初代と2代目のドラマーが、十代だった時を想い、初めての会話を交わした。

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◉ユカリさんは高校1年の頃から、ヒッチハイクで京都と東京を行ったり来たりしていたという。目的は野音(日比谷野外音楽堂)で当時行われていたロックイベントを見るためだ。そこで見た『山口冨士夫グループ(まだ村八分ではなかった)』に本当にブッ飛んだという。

恒田「冨士夫と俺と、染谷くんと青ちゃん…。ごめん、あの頃は、俺もちょっと普通の状態じゃなかったから(笑)」

ユカリ「あはは(笑)、それはみなさん、そうだと思います(笑)」

恒田「だから、ごめん、全然覚えてない…。だけど、2回か3回やった」

ユカリ「そのうちの1回に僕も出ているんですよ。でも、聞かないでください。僕もまったく普通の状態じゃなかったから(大笑)」

恒田「(大笑)」

……しばらく笑いが続く……

村八分 / 京都円山野外音楽堂 2021年リマスタリング音源差し替えバージョン


恒田「僕にとっては、冨士夫もチャー坊も兄貴みたいな存在で、守ってもくれたし、あんまり嫌な思いもしなかったんですよ。ユカリさんはもっと深い時期だよね?」

ユカリ「そうですね、一緒に住んでいたからね。チャー坊の家に僕は居たから。冨士夫ちゃんとチャー坊とステファニーとオバアちゃんと僕の5人暮らし。僕は17(歳)で冨士夫ちゃんは21(歳)かな。いつもコタツの横にブラックケースのツインが置いてあるんですよ。335と一緒にね。それを朝起きると冨士夫ちゃんがずぅっと弾いているという。それも延々と同じフレーズばかり、ず〜っと弾いている……」

恒田「それはファンの皆様が喜ぶエピソードだ」

ユカリ「僕は2階でいつも寝ていたんだけれど、起きて階段を下りる時は、もう冨士夫ちゃんのギターの音がしているという。だいたい冨士夫ちゃんが一番早起きだったから」

恒田「ふ〜ん、意外で面白いね。青ちゃんはどうだった?」

ユカリ「青ちゃん? 青ちゃんはどうだったかなぁ? あれっ? 青ちゃんは何処に住んでいたんだろう(笑)」

恒田「でしょ?(笑)青ちゃんは謎だよねぇ」

ユカリ「彼女がいたんだよ、青ちゃんには。彼女といつも一緒にいる感じ。だから彼女ン家に居たのかなぁ? 今、聞かれて、そういえばって感じなんだけどね」

東京/上石神井の農家の納屋にて。左から/青ちゃん、ユカリ、冨士夫。石丸しのぶの家が近くにあり、泊まったりしていたという。多分、撮影者はしのぶである。

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◉毎日が“旅”のようだったと言う。何もしていないのに、いろんなことがありすぎて、思い出しても何から話したらよいのかわからなくなるのだとか。それに対して「人間を試されるんだよね。」と応えるのは恒田さん。どうやって毎日喰っていたのか?は、二人に共通する謎であった。

ユカリ「ある朝、いきなり起こされて、“今日、大阪行くから”とか言われて録ったのが、あの『草臥れて』。あれは、青ちゃんの友達がスタジオを持っててさ、突然に録った。何しろ、いきなりの出来事が多過ぎる」

恒田「それなのに、ほとんど憶えてないってことは、どうしてなんだろう?何して暮らしていたんだろう?」

ユカリ「あまりにスピードが速いんだろうね。何もしないようで…。」

ぐにゃぐにゃ / 村八分 from 村八分/ライブ(2014 Remaster)

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ユカリ「76年か77年かなぁ、僕はそのとき福生に住んでいたんだけど、青ちゃんがいきなり家に遊びに来てさ、“『スピード』っていうバンドやるんだけど、やんない?“って言われて、なんかコワいって(笑)」

●青木眞一(スピード)「インタビュー」(1976年)

※青ちゃん、確かに、なんかコワい。

恒田「あの青ちゃんがギターをね。あの頃には想像もつかないよね」

ユカリ「でも、もともとはギターだったんですよね」

恒田「そう。でも生ギターね。それが、いきなりベースにさせられて、ポジションもわかんなかったんだから」

ユカリ「そうそう。チューニングもわかってなかったみたい。テツもそうだよね、ギターを弾けなかった。だから冨士夫ちゃんがいつも横にいて教えていたんだから」

風月堂のシャッターの前で、左から、チャー坊、カント、青ちゃん、冨士夫、テッちゃん。/撮影・井出情児

姫狩り/村八分(鼻からちょうちんの原曲)ぶっつぶせ!より

※ぶっつぶせ!―1971年北区公会堂Live―Dr/ユカリ・Ba/青木。他にVo/チャー坊・Gu/冨士夫・Gu/テッちゃん ※冨士夫いわく「奇数と偶数を意識して、リズムとギターとベースが重ならないようにしてサウンドを作った」のだとか。

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恒田「僕らのころは、村八分がアムステルダムでレコーディングするんだって、でっかい話があったんだけど、あれはどうなった?」

ユカリ「それは知らないなぁ。僕らの時はエレック(※3)に全員で乗り込んだんだけれど。全員で行くっていうのが凄いよね。表参道のケヤキっていう喫茶店で、そこでエレックの偉い人を待っているわけ。社長なのか何なのか僕は知らないんだけど。その偉い人が現れると、いきなりチャー坊が“何百万出してくれ!”って話をするわけ。まぁ、うろ覚えなんだけれど、そこら辺は印象深く残っているいんだよね」

恒田「当時だからな。何百万っていってもケタが違うよな」

ユカリ「その時も、いきなり“行くぞ”って、全員で行くんだけど、僕なんかはいつもわけわかんないんだよね。…それで? その話? そのときは、まぁ、ボツです(笑)」

エレックレコード (ELEC RECORDS) は、1969年設立のインディペンデント・レーベル。URCレコード、ベルウッド・レコードとともに初期フォーク系の3大レーベルのうちのひとつ。また、今日のインディーズレーベルの先駆けとされる。/写真は、村八分 ライブ 2022 Digitally Remastered(1CD)【通常盤】


 恒田「僕も、もうちょっと、村八分っていうバンドのイメージに入り込めば良かったんだけどね」

ユカリ「いや、僕はもう、ちょっと、入り込み過ぎて(笑)。毎日、何をしているのかわかんないんだけど、とにかく一緒には居たと、そんな感じですね。そうこうしているうちに、18歳になる三ヵ月くらい前に黒いクルマが三台くらい家の前に来て、“みなさん、乗ってください、強制終了です”って(笑)。僕の『村八分』はそこで終わりました。それで、大阪に行って、真面目に音楽をやり直そうと思って、以前に営業をやっていたハコに遊びに行ってみたら、『ごまのはえ(※)』が演っていて、『ちょうど良かったわ、ドラムが辞めるところなんだ』って、そんなんです」

ごまのはえ「留子ちゃんたら」

※ 『ごまのはえ』 ベルウッドからデビューして45周年を迎える伊藤銀次が在籍したバンド。ちなみに“ごまのはえ”とは、詐欺師や押し売りの俗称である。

恒田「そりゃあ、ラッキーじゃない」

ユカリ「そうですね、偶然です」

恒田「ほんと、人との出会いって面白いよね。そんな出会いもあれば、僕らみたいにね、50年近く経って初めて話す出会いもある」

ユカリ「そうですね、(恒田さんとは)キャッツアイ(※京都市左京区にあったゴーゴー喫茶)でも会っているし、フリーゲートでも一緒にいたのに一言も話したことがなかったですからね」
2016年10月6 日都立大学駅前にて(※一部抜粋・セレクトしています)

【恒田義見】# 1 伝説のバンド村八分結成秘話!山口冨士夫との出会い!ハルヲフォンへの軌跡!

サリハナ!ROCKチャンネル

※恒田さん主催の『サリハナ!ROCKチャンネル』。貴重なロック話が満載です。

 『 “村八分”より青木ぬける“どうしようかな”』


◉1971年『京都円山音楽堂』でのステージで、チャー坊が突然に歌えなくなった。いや、パフォーマンスそのものができなくなったのである。『どうしようかな』のイントロが始まってもチャー坊は歌えず(うまく入れず)に、冨士夫たちは3回イントロをやり直した。

冨士夫 談/「前奏が一周まわってから【な〜にかいいこと♪】って入ろうとしたんだけれど、やっぱり【なにか!♪】って入るべきだ、もう一回やり直そうって、“冨士夫ちゃんもう一回”って(チャー坊から)来たから、“オーケー、じゃあ、もう一回な。今度こそしっかり歌ってくれよな”って感じで始めたんだけれど、また、【なにか!♪】のタイミングでチャー坊は入れなかった。」(『村八分』K&Bパブリッシャーズより)

◉瞬間にチャー坊はマイクスタンドをぶん投げてステージを降りていく。

 あとに残った4人のメンバーは、『どうしようかな』のイントロのまま空回りするしかない状態に置かれていた。

冨士夫 談/どう終わりゃいいんだ!バリャリャン!って終わるしかねぇだろ!くそーって。馬鹿野郎って。バーローって感じ。」(『村八分』K&Bパブリッシャーズより

◉そのまま、何もしないまま『村八分』のステージは終了した。それこそ、本当の『どうしようかな』である。

冨士夫 談/「その時に青ちゃんがふてくされていたのは知っていたんだ。」(『村八分』K&Bパブリッシャーズより

映画『色即ぜねれいしょん』主題歌 「どうしようかな」

『色即ぜねれいしょん』(しきそくぜねれいしょん)は、みうらじゅんによる小説。2009年に田口トモロヲ監督により映画化され、主題歌 「どうしようかな」が歌われている。

◉円山音楽堂でのロックイベントであった。冨士夫目線で行くと、バンドはアシッドをキメて昂揚(こうよう)していた。

 夕焼け空に武者震いしなから、思い切り意気込んでステージへと向かう。前のバンドは『布谷文夫のバンド』であった。偶然か必然か、そのステージがすこぶる良かったのだという。

 “それよりも良いステージをしなきゃ”と力が入り過ぎたのかどうかは定かではないが、“これから俺たちがキメたかった音を、『布谷文夫のバンド』に全部やられたのが決定的だったね”と冨士夫は回想している。

Fumio Nunoya - Kara no Bed no Blues [からのベッドのブルース] (1972)

※昔から冨士夫は布谷文夫が好きなのです。

◉青ちゃんは怒って“けったクソわるいや、帰るよ”って、会場を後にした。 “キマリ過ぎて演奏ができなかった”のは、どうみてもチャー坊に原因があったのだろう。故に、当然の如く怒りに満ちた青ちゃんは当日のギャラをチャー坊に要求した。

「『どうしようかな』どころじゃねぇだろ!」って!

BO GUMBOS feat. 山口冨士夫 どうしようかな

※世間にはいろんな『どうしようかな』があるのです。

冨士夫 談/「“ギャラを払えよ、今日のギャラどうするんだよ、チャー坊”って。“ひとりいくらって約束だろう”って。“馬鹿野郎、銭払え、この野郎、チャー坊、歌えなかったのはお前だろ!”って。でもあれは、思うけどさ、江戸っ子の気風だよ。俺はそういうの好きだよ」(『村八分』K&Bパブリッシャーズより

◉その日、会場を後にしたみんなは、二手に分かれた。青ちゃんは彼女と一緒に帰り、その他、冨士夫、チャー坊、テッちゃん、ユカリさんの4人は蔦の絡まる喫茶店に集まり、ムッツリとしていたという。

冨士夫 談/「“ところで青ちゃんはどうしたんだよ”って話になって、いや、あの頃は青ちゃんじゃなくて青木君。“青木君どうしたん?”って。そうしたらチャー坊が言い出したんだ。

 “あいつよ〜、金要求しやがったんだ。今日のギャラよこせって、えへへへへっ”って。チャー坊流の場面が始まったんだ。

 だけど、よく考えてみたら歌えなかったのはチャー坊だよ。“うん、当然じゃないの”って。

 青ちゃんはそのまんま東京に帰っちゃったんだよ。そのまんま行方知れず。まさか青ちゃんが辞めるとは思ってなかったんだけどさ。“辞めっこなし”のはずだったから…。」(『村八分』K&Bパブリッシャーズより

◉そこまでで青ちゃんの『村八分』は永遠に終わった。性格的にも、二度と振り返ることもなかったのである。

どうしようかな/村八分『ぶっつぶせ!』

※元祖:『どうしようかな』1971年北区公会堂Liveより●Vo/チャー坊(20歳) ・Gu/冨士夫(21歳) ・Gu/テッちゃん(20歳) ・Ba/青木(19歳) Dr/ユカリ(17歳)だった。

 

 『エピローグ/青ちゃん(青木眞一)と日本堤の土手道を行く/の続き』


 話を最初に戻そうと思う(前回/第7回の最初だが……)。

 日本堤の土手道を行き、僕らは青ちゃん家に着いた。屋上からは隅田川の花火大会を眺めることができるのだが、それはもう少し経ってからのエピソードである。

 その時の僕らは、あまりに久しぶり過ぎて、何を話したのか、ろくすっぽ覚えてはいないのだが、青ちゃんの部屋に入りぐるりと眺めると、冨士夫が青ちゃんにプレゼントした黒いフェンダーのギターが目についた。

「今でもギターは弾いている?」

 僕はなんとなく時間を埋めるように訊いてみた。

「ときどきな。思い出すからさ。あの時もそう、チャー坊はいつも“やめよう”って言うんだ。“このまま帰ろう”って。」

「えっ!? 何の話? …村八分?」

「あいつはいつもそうだった。そんなこと言われたら、俺たちもガチガチになっちまうだろ⁉ 冨士夫なんかいちばんに影響されちまってさ、蒼くなって固まっているんだよ」

 そう言いながら青ちゃんは部屋から廊下に出た。

「ステージのこと?」

 背中越しに問いかける。

「そう。それも毎回だぜ。毎回、ステージの寸前でチャー坊が“やめようぜ!”って言うんだ。ラリってるし、どうしようもない。」

 永い付き合いの中で、青ちゃんが目の前で『村八分』の話をしたのは、これが最初だったと思う(結局、最後でもあったが)。冨士夫からは100万回聞いていたが、青ちゃんは決して『村八分』の話をしなかった。いや、したがらなかったのだ。それは何故なのかわからない。(確か、聞くと機嫌が悪くなったので、聞くこと自体がタブーになった気がする)

 そして、何故、ここで唐突に話したのかもわからなかった。

 僕らは茶の間に移動してテレビをつけた。『村八分』についてはそれ以上聞かないでいた。

 テレビでは昼過ぎのバラエティ番組が映し出されていた。

 それを並んで僕らは見た。

 会話も無く、見るともなく画面に目をやり、すでに青ちゃんの思いからは『村八分』が抜け落ちているようだった。

 途方もなく永い時間の流れが僕らの後ろにあるように想えた。意識と無意識の間にあるほんの薄い層の中で、その一つ一つのシーンが浮かんでは消えていく。

 きっと、青ちゃんの中では、京都でのあの最後のステージの残像だけが残っていたのだろう。他の全てを葬り去ることができても、あの瞬間だけは何か決定的なこととして、人生に張り付いていたのである。

 全ての希望と、快楽と、悔しさと、無念さをひとまとめにした『青ちゃんの村八分』がぐるぐると回っている。

 その想いは、青木眞一にしかわからない。

 それは、その後の人生の中で、繰り返し心の中に沸き起こった、“はじまり”と“おわり”、そのものだったのかも知れない…。

Photo/井出情児

 村八分BOX -LIMITED EDITION Trailer


(第8話『青ちゃんの村八分/後編“ど素人バンド結成”』終わり▶︎第9話『スピード▶︎フールズ』に続く)

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 ●カスヤトシアキ(粕谷利昭)プロフィール

1955年東京生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。イラストレーターとして社会に出たとたんに子供が生まれ、就職して広告デザイナーになる。デザイナーとして頑張ろうとした矢先に、山口冨士夫と知り合いマネージャーとなった。なりふり構わず出版も経験し、友人と出版会社を設立したが、デジタルの津波にのみこまれ、流れ着いた島で再び冨士夫と再会した。冨士夫亡き後、小さくクリエイティブしているところにジョージとの縁ができる。『藻の月』を眺めると落ち着く自分を知ったのが最近のこと。一緒に眺めてはどうかと世間に問いかけているところである。

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 【LIVE INFORMATION】

●9/23sat 国立/地球屋

出演/
藻の月
Mec/monotsuki/2023:05:02/青山/月見るル君想フ

フーテン族

フーテン族 - ハスリン・ダン (浅川マキ cover)

OPEN 19:00/START 19:30

CHARGE ¥1,500+1d


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●2023年9月21日(木)/荻窪 TOP BEAT CLUB

■山口冨士夫TRIBUTE BAND "FRIEND OF MINE"

○吉田 博Ba/Vo (ex.THE DYNAMITES) 

○延原 達治Gu/Vo (THE PRIVATES)

○P-chan Gu (ブルースビンボーズ) 

○ナオミDr(ナオミ&チャイナタウンズ)

○芝井 直実 Sax

■花田裕之(ROCK'N'ROLL GYPSIES)

■DELTA ECHO (延原 達治&手塚 稔 / THE PRIVATES)

OPEN18:30 / START19:00

ADV 4000+1d / DOOR4500+1d

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 【山口冨士夫 / 渋谷屋根裏 1983(2CD)】

9/13out💽/没後10年を迎えた山口冨士夫の誕生日である8/10、本日解禁⚡️83年の完全未発表ライブ、初音源化/幻の未発表曲「雨だから」を収録した2枚組CD!



  


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