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八方美人の我慢はあぶない

スッピンで文章を書きたい。文章をスッピンにしたい。そんな風に思うようになった。

今までも自分の書きたいように文章を書いてきたのだけど、でもどこかスッピンに見えるようにメイクをしていた文章だったとも思っていて、そういう「自分のことを少しだけでも良いからよく見せたい」という思いを消したいと、ある日突然に思ったのだった。理由は不明。なんか急に思いついた。

私は自他ともに認めるほどの八方美人で、とにかく場を丸く収めることに意識が集中しすぎて、自分の意見を深く考えたことが今までの人生で一度も無かった。たぶんこのnoteを書いている時だけが、唯一、自分の意見を深く考えている時間なのだけど、その唯一の場でも八方美人が登場することはけっこうあって、それってもったいないんじゃないかと気づいた。

余計な争いを生みたくはないし、日々を平和に過ごすことも私の中で重要事項ではあるけれど、それと自分の意見を言わずにいるというのは、たぶんイコールではない。はず。せっかく自分の意見を言える場であるのだもの、日和ったり平和にまとめようとせず、思ったことをそのままぶちまけるぐらいの勢いでいたら良いじゃないか!と思うなどした。


そんな最近の読書は『真綿の檻』

この本の著者である、尾崎衣良さんのマンガが大好きで読んでみたのだけど、これが今の自分に突き刺さる内容で、購入してすぐに3回読んだ。いやこれ本当にすごいね、面白い。

榛花という女性を軸に展開する話なのだけど、語り手がそれぞれいて、その語り手から見た榛花はとっても虐げられて生きていて、何とも言えない息苦しさも感じた。特に榛花と母親との関係は、見ていて辛くなる場面もあるので目をそらしたくもなるのだけど、その目をそらしたい部分が今の自分と重なるもんだから、目をそらすどころかしっかりと場面を心に焼きつけておこうと、一人で静かな決心をした。

『真綿の檻』を読むと、いかに人は自分の物差しで世界を見ているのかを知ることができる。人は自分が見たいようにしか、世界を見てはいなくて、だから自分の都合のいいような解釈であふれている世の中で、争いをゼロにするのってとても難しいんだろうと思ったりもする。人の数だけ正義があって、正解があるんだものね、そこを理解し合うことができるなんて幻想かもしれない。

ただ『真綿の檻』の良いところは、人と理解し合うことが幻想だと思わせない物語になっているところで、それは私が大好きな尾崎衣良さんの『深夜のダメ恋図鑑』を読んでいて思うことでもあった。

失望してしまうことは世の中にたくさんあるけれど、それでも、自分なりの落としどころを見つけていく登場人物たちを眺めながら、この「自分なりの」という部分が重要だよねと思う。

周囲の人と分かち合えない部分もあると認めたうえで、ではどうすればいいのかを考えて行動していくというのが、私はどうも苦手。だから八方美人になって事なきを得ていたつもりだったけれど、実は問題を大きくして自分の肩に乗せていただけだったかもしれないな、と気づいた。

そして、八方美人でもなんでもそうなんだけど、自分の意見を我慢することは、いつかその我慢が暴言として表に出る可能性があるということを、尾崎さんのマンガを読むたびに思ってしまう。フィクションだから、物語を面白くするためだから、暴言なんて誰も吐かないよ、と思える人は思考が大人だなと思う。我慢ばかりしてきておこちゃまな私は、暴言と縁が切れない。我慢のしすぎは禁物なり。

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