無題

日本史のよくある質問19 「武士」とは①

さて、前回、荘園に関する記事の最後に、次回の記事では「武士」について触れます!と書きました。

実は、「武士」の定義は意外に難しくて、例年こんな感じの質問があります。
江戸時代くらいになるとこういう質問が出やすくなる印象です。
恐らく、私の授業の中では色々な武士が出てきたので、「結局武士って何なの?」となるんだと思います(笑)

生徒:
結局のところ、「武士」ってどういう人たちなんですか?
例えば、戦国時代の足軽は武士なんですか?農民なんですか?

私:
お、良い質問です!実は、時代によって「武士」の定義というのは微妙に違います。
そのことを理解すると、平安時代以降の日本史がもう少し違った形で理解できるようになるかもしれないですよ。
では、改めて「武士」だけにスポットを当てて説明していきましょうか。


というわけで、今回のテーマは

「武士」はどこから来たのか?

です。

非常にざっくりしたイメージですと、武士というのは

こんな感じのイメージですね。
要するに「戦う人たち」

ただ、彼らだって命は惜しいはず。
彼らが何のために武装し、命懸けで戦うようになったのかを考えてみることは、武士のルーツを探るうえで大切なことです。
普通に考えれば、命を懸けるべき対象がなければ、わざわざ武装にお金をかけ、命のリスクを負うことはしないはずですね。

さて、「武士」と言われる人たちが見られるようになるのは平安時代です。
平安時代というと、一部は荘園に関する記事でも取り上げましたが地方にはこんな人たちがいました。

①「開発領主」
地元の豪族(土豪)や、有力な農民(田堵)出身で、荘園の管理や運営などを行っていた人達。
彼らは財力や権力を手にして荘園を拡大し、「私領」としてその支配を強めていきます。
②「受領」
朝廷から地方に派遣され、その地域の管理と徴税を請け負った中級貴族。
中央に納める税のノルマを達成すればあとは自分の財産となるため、豊かな国の受領になるために賄賂(成功)を行う者や、重税を課して私腹を肥やす者もいました。

さて、古代から近世において、都市の大火は度々起こります。
例えば1016(長和5)年、時は藤原道長が権勢をふるう摂関政治の時代です。
この時に発生した大火は、道長邸など多くの建造物を焼き払いました。
しかし、道長邸や、同時に焼けた土御門邸などは、すぐに再建されます。
むしろ以前より豪華になって…。

この点について、「藤原道長の莫大な財力により再建された」という認識をしがちですが、実際にはそうではありません。
摂関期、院政期の有力な皇族・貴族が関係する建造物の多くは、受領たちがこぞって財物を差し出すことで建てられています。

そして、院・皇族・有力貴族たちは、このようにして中下級貴族を自分の派閥に取り込み、「権門」を呼ばれるグループを形成していきます。
このことについてはまた別の記事で詳しく触れます。

ちなみに、この時に最も張り切って成功をしたのは、源頼光

です。
彼は藤原派の中級貴族で、美濃源氏の祖にあたる人物。
この頃に増え始めた「武」の要素が強い受領でした。
本人も酒呑童子退治の伝説

を持つなどバリバリの武人です。

彼は道長に相当気に入られていたようで、上総や下総、美濃、但馬など、豊かな国々の受領を歴任しています。
彼の莫大な財産は、この時に蓄えられたものでしょう。

頼光のようなタイプの受領は、受領として任国に赴く際、自分の一族や従者を連れていきます。
そして、彼らを「館の者共」という武力集団に編成して、土地の収公などを行いました。
(任国の人々は他人ですから、味方として信用しきれなかったのでしょう)
また、「館の者共」の一部を都に派遣し、派閥のリーダー(頼光なら藤原氏)の護衛にあたらせることで、受領は見返りとして朝廷での官職も得ていました。
ちなみに、このように都でVIPの護衛にあたる人たちのことを「侍」といいます。

つまり彼らは、出世と財力・権力の形成に命を懸けていたと言えますね。


一方、開発領主の側も、受領を含めた外的勢力による侵入に対抗するため、武装する者が出てきます。
彼らの目的は一つ。自分たちの管理する荘園(私領)を守ること。

彼らは「武勇の輩」「兵の家」などとも呼ばれ、11世紀から13世紀にかけて徐々に武士身分として定着していきます。

しかし開発領主の中には、受領に対する徹底抗戦ではなく、受領に従って「在庁官人」という役割を得ることで自分の地位を保つ人々も出てきます。

いずれにしても、彼らは土地に命を懸けています
こちらの方が、後の時代の「武士」のイメージに近い気がしますね。
彼らは「開発領主」であり、「武士」であり、場合によっては「在庁官人」でもあったわけです。いろいろ役回りが多くて大変そう…。


日本史では、この「受領」「館の者共」「侍」、武装化した「開発領主」「在庁官人」などを総称して「武士」と呼んでいます。

つまり、「武士」と一口に言っても、当初からかなりレパートリーがあったということですね。
ただ、それぞれ異なるとはいえ、「武力」をベースに自分の目的を果たしていたという点では共通しているといます。


あ、ちなみになのですが…
平安時代前期の征夷大将軍、坂上田村麻呂

のような、「武士」が生まれたとされる平安時代後期よりも前に活躍した「武」にまつわる人々は、「武官」と呼ばれています。
彼らは「朝廷の役人(官吏)の中でも、武に関わる職務を担う人々」であって、あくまでも朝廷内の役割分担の問題。
武士とはまた違います。
ちなみに、朝廷とつながりが深い受領の担う役割にも、「武官」の名残が見られます。


さて、次回はここからもう少し踏み込んで、平安時代の源氏や平氏といった武士の集団、そして鎌倉時代の武士について触れていきたいと思います。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました!


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