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24/4/7(日) 美しい花がある、花の美しさという様なものはない

桜が満開であるにも関わらず、
ぐずついた天気が続いて憂鬱な気持ちだった。
この日は快晴だったので、
散歩がてら近所の川沿いの桜並木を見に行ってきた。
本数も景色も申し分ないとは思うんだけど、
そこまで有名な場所じゃない。
日曜にも関わらず、
人もまばらで、近所の人たちが
見に来てるくらいで
観光客などはあまり見受けられなかった。
結構穴場だと思っている。

小林秀雄先生の言葉で
「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」
というものがある。
一見、哲学の言葉遊びのようにも見えるが、
美しさとは頭で考えた観念や数値で表せるものではなく、
科学的根拠などもなく、
自分の中で生まれるものである。
ということだと解釈している。
感覚、感情、経験などから美しいと認識できる自分が
あるだけで、自然界において
「花は美しい」という事実はないということなのかなと。

確かにうちの猫ちゃんに桜を見せても、
食べれるものかどうか匂いを嗅いだり、
ひらひら舞う花びらで遊びたいとは
思うかも知れないが、
「美しいにゃあ」とは思わないだろう。
(もしかしたら思ってるのかな。だったらごめんね)

であれば「美しい」というのはただの言葉でしかなく、
多く人が花を美しいと言うから、
僕らも美しいと表現しているだけなのかも知れない。
花を見て湧き上がる気持ちを
表す言葉として「美しい」と発するが、
本来、人によっては正確に当てはまる言葉が
違うのかも知れない。
「楽しい」とか「悲しい」とか「テンション上がる」とか。

言い換えれば、「美しい」という言葉が内包している
意味合いは多岐にわたる。
天真爛漫な笑顔を美しいと思うし、
人を思いやり流す涙も美しいと思うし、
鍛え抜かれ均整の取れた肉体を美しいと思う。

ドレスアップしてスポットライトを浴びる
女優さんを美しいと思うし、
希少な宝石があしらわれたネックレスをかける
令嬢の首元も美しいと思う。
貧困の中で、化粧もせず
家事と子育てに奔走する母親も美しいし、
畑仕事で、土まみれでしわくちゃの
おばあちゃんの手も美しい。
これは僕が男だからだが、
女性目線ではまた違うだろう。

昔からずっと違和感があって、
テレビなどのメディアで
「美人」「美女」「美魔女」「美男子」「美声」
などの言葉が使われることが嫌いだった。
最近ではあまり聞かないが、「美しすぎる」
とかもっての外だ。
この人は美しいとかこの声は美しいとか、
一方的な意見を不特定多数の人に共有しよう
というのが、あたかも美しさの価値観を
定義されてるようだと感じ嫌悪感があった。
(我ながらめんどくさい人間だと思う。。。)
でもそのせいで、一般の人たちも
その作られた美しさの価値観に近づけようと、
ブランド品を購入したり、整形するのではないだろうか。
もちろんそれによって、コンプレックスが解消され、
前向きに生きられるなら良いことだとも思うが。
ただ「美しさ」とは小林秀雄先生の言うように、
それぞれの中から生まれてくる、感情、言葉で
あってほしい。
他人が決めた一律の美しさに縛られないで欲しい
と強く思う。


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