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世界で一番かわいい

たとえば誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとして
僕は誰かが名乗り出るのを待っているだけの男だ
(Mr.Children「HERO」)

シーンとした教室の中に並んだ机。「もし『私が身代わりになります』という人がいたら手を挙げて」と教師が言う。私はマザーテレサや仏陀のことを思い浮かべながら、いつまでも手を挙げない。

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壮大なテーマへの決意表明から始まるこの歌詞を読んで、そんなイメージをしながら、自分を情けないなぁと思ってきた。

「正義」「自己犠牲」「勇気」「身代わり」—
それらがとても大事なのは分かる。願わくば、自分は手を挙げる側の人間でいたいし、誰かのために使われる命を持っていたい、と考えている。

しかし、そこに行き着くまでの信念の隙間1cmくらいのところに、とってもシンプルに「痛いの怖い」「死にたくない」「誰か手挙げてくれ(…ないかな)」と思う気持ちがある。

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穂村弘さんの『世界音痴』を読んだ。

題名ぴったり。世界に対して実に音痴な穂村さんのエッセイである。

なかなか世界に馴染めない自分の”不協和音”を奏でている。

それは時に優しく、穏やか。共感的で哀愁漂うようにも見えるけれど、読んでいる途中から、だんだん腹立たしくなってくる。

思い出すのは五年前に冬の札幌に行ったときのこと。凍った路上で恋人が足を滑らせた。その瞬間に、私は「わっ」と驚いて、繋いでいた手を放してしまったのである。支えを失った恋人は思い切り転倒した。(・・・)私はそんな彼女を呆然と見下ろしていた。最初のタイミングで手を放してしまったら、おそろしくて、二度と手を触れることができないのだ。やがて、彼女はひとりで、むくっ、と起き上がった。そしてお尻の雪を払いながら、あたし、なんか、わかった気がする、と呟いた。(・・・)その人とは、結局、別れることになった。(「一秒で、」)

本当であれば「助ける」ことを優先させなければならない。それなのに、当時の穂村さんは自分の「怖い気持ち」を取った。きわめて保身的。
きっと穂村さんも、手を挙げない人間なんだろう、思ってしまった。
(※失礼。昔からファンです。)

穂村さんのエピソードはさらに進度を高める。友人Sから「恋人と流星群を観に行った帰りに車が動かなくなってしまった話」を聞かされた時。

私はそういうトラブルに会ったことがない。何故なら流星群を観るためにテントを持って海に出かけたりしないからだ。行動力というか、エネルギーがないのである。ベランダに出ることすらしない。好奇心がないのである。
(思い出のない男)

出無精である私にもこういう類の気持ちは理解できるが、穂村さんにはなんというか、「本当はこうしたいけれど、僕はできないからやらない」という甘えのメンタリティが見え隠れしている。そのわりには「世界音痴」と言って、不器用な部分を武器にしている感じが否めない。

今の私の日常生活は、人間が「自分かわいさ」を極限まで突き詰めるとどうなるのか、という人体実験をしているようなものだと思う。
(ビタミン小僧)

開き直り。
想像してほしいのだが、「ホットケーキの上を走るバターに面する熱々ふにゃふにゃな生地」、「メロンソーダのソーダとアイスのシャリシャリした部分」のような、一番おいしいところを持ってかれたような気持ちになった。

皮肉にも、穂村さんの作品には甘い物が登場することが多い。

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しかし、読んでいると、その腹立たしさが、本当に穂村さんに向けられたものなのか分からなくなってきた。

顔を洗った後に用意するタオルを家で最も高価なものにしている。恋人が風呂上りに使用するタオルは、3枚で1000円だった少し安価なものを渡している。

50代が集まる職場で険悪な雰囲気になった時、いたたまれなくなったので「若すぎて分からない」と妙な理由を心の中に落とし込んでトイレへ逃げる。

これらは全部、私のことである。

穂村弘さんを通じて、隠してきた自分の”音痴さ”が顔を出しはじめた。

隠してきた自分の「自分かわいさ」が露わになる。
私は、いつまでも自分が最優先であり、同時にそんな自分を叩き割りたい、と願っている。

穂村さんの不協和音と、ガンガン共鳴してしまって、自分に対して腹立たしくなっていたのだ。

生きることの意味が知りたかった。素晴らしい人になりたかった。私は確かにそんな風に考えていたはずだ。今もそう考えている。だが、そうした願いのすべてが、いつのまにか「この世は一度きり、主人公は誰?大切なものは何?」という問いに強く結びついていたのだ。(・・・)その結果、何が起きたのか。
究極の愛を、決定的な何かを求めて、ロマンチックな理想の出逢い(・・・)を繰り返し夢想しつづけた私だが、その「決定的な誰か」は、ついに〈私〉自身のことでしかなかったのではないか。(あとがき)

これを読んで、心の嘔吐感がとうとう基準値を超えてしまったような気がした。あーだこーだ強いことを言っても、「自分かわいい」が根底にある限り、自分も他人も守れないような気がした。

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「ヴァルネラビリティ」という言葉がある。「不確実性、リスク、生身をさらすこと」という意味で、研究発展途上の言葉らしい。傷つくことや痛み、恐怖を他人に対して明らかにし、それらを認めること。これは当事者にとってもリスキーだけれど、一つの勇気でもある。

少なからずも私は、穂村弘さんの作品から「ヴァルネラビリティ」を感じる。穂村さんが言ってくれなかったら気付かない「弱さ」が自分の中に存在している。それが脆弱性、攻撃性への自覚に繋がる。

「完全」よりも「欠如」に目を向けること。

弱いことを知るのは、「強い」ことよりも一段階「深い強さ」だとも感じる。


手を挙げられない自分を、まずは認めたいのだ。
手を挙げる人になるためには、その道を通らねばならん。

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