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「愛情」とは 【エッセイ】

2020年、年も末に近づいて、私を常に悩ませたそれ。
「愛情」とは何か?
過去、私は私なりに、愛していると思う人に愛情をもって接してきたつもりだ。だが、果たして「愛情」の定義とは何なのか、改めて考えをまとめてみることにした。

私のセクシャリティ、その根拠

端的に表す言葉で言えば、私は「アロマンティック」だ。2020年の10月くらいまでは「アセクシャル」だと思っていた。だが、「アロマンティック」の可能性を考えたのは、恋愛感情を抱かない人に、性的欲求を持つ夢を見た時だ。そうなのだ。私にとって「性」と「愛」はかけ離れたものだ。「恋愛感情」は一切抱かないが、「恋愛感情」を抱かない人に、「性的欲求」を感じることがある。その欲求は、現実世界で今でも続いている。「夢」から始まった性的欲求など、泡沫もいいところに思えるが、それは今私のアイデンティティを形成するほど強い。だが、「愛情」を持っていないか、と問われれば、それは違う気がする。彼を想えば、涙が止まらなくなり、安定剤に頼り、挙句の果てにオーバードーズで想いをシャットダウンさせようと試みたりする。それは「恋愛感情」だ、と思う人もいるかもしれないが、私には「恋愛」という言葉が全くピンと来ない。愛しているのは間違いないが、彼を恋い慕う気持ちは全くない。共に人生を過ごしたいとは一切思わない。会いたいとか、そういう気持ちもない。ただ、彼が、彼にとっての幸せの中で生きることは強く希んでいる。

私の「母」が貫いた愛

私の「愛情」の定義で、避けては通れない問題だと思う、私の母が貫いた愛について触れる。
母の生きた時代、女性は未婚で20代も後半になると、「売れ残り」くらいに思われていた時代だったらしい。結婚が当たり前の時代。そんな中、母は、恐らく結婚を急いだと思う。祖母の話によれば、新婚旅行で海外を何ヶ国か周って帰ってきたあと、この結婚は失敗だったと、認識してたらしい。確かに、私の父は、恐らくではあるが境界性人格障害的な面を持った、かなり変わった人だった。母が産気づいた時、病院に行くと告げると、父は「僕眠いから・・・」と言って起きなかったそうだ。結局母は、自ら車を運転し病院に向かい、私を産んだ。その瞬間も、父はパチンコに興じていた。
そもそも何故そんな結婚を選んだのか、私には疑問で仕方なかったが、多少見てくれが良くて、銀行員だった父に、この人なら失敗はないかもしれない、と思ったのかもしれない。元々見合い結婚だったが、結婚までのお付き合いは、客観的に見ても、ズレはあまりなかったようだ。
だが、結婚早々、母は父に「ズレ」を感じてしまった。母が私を連れて家を飛び出したのは、私の中学受験が成功した直後だ。母は、私の為に、ただひたすら耐えていたのかもしれない。私の進路が決まるまで、私の心を乱さぬように。結果として、母は私を連れて、実家に戻った。
子供であったあたしは、はっきりとはわからなかったのだが、母には別に愛している人がいた、と思う。それは私の成長と共に理解が深まっていくので、その頃はまだ10歳にもなっていない子供であり、何も気づかなかった。その人は、あたしの小学二年生の時の担任の教師だった。生徒思いで、教師としての責任感で生きているような人だったと、今は思う。いつしか、よく夕食を食べに私の家に来るようになった。よく家で勉強も教えてもらった。それは、私の中学受験成功の鍵の一つだったとも言えると思う。学校の勉強で分からないことなど一つもなかったが、塾の復習で分からなかったところは、とにかくその人に教えてもらっていたと記憶している。(私は栄光ゼミナールや四谷大塚やSAPIXのような予習型の塾ではなく、復習型の日能研という塾に通っていた)
何はともあれ第一希望の中学に進学した私は、母の実家を新たな「家」として、中学生活をスタートした。少しずつ悩みを感じ始めたのは、中学生活に慣れた頃だと思う。私の進学した中学は、土曜日も半日は登校しなければいけない学校だった。休みは日曜日だけ、だがその日曜日、母はほとんど家に居なかった。どうやらその男性と過ごしているらしいと気づいたのは、それからそんなに時の経過はなかったように思う。私は正直混乱した。私の為にひたすら父との結婚生活を維持した母が、たった一日の休日に私の元を簡単に離れていく。当時の私は全く理解ができず、心底母へ反発した。もちろんその気持ちを表に出すことはなかった。その男性と母と私、3人で出かけることもあった。もちろん、私の担任教師でもあったその男性は、私への理解も深かった。私は、「何も感じていない」ことにした。そうして、私にとって奇妙な生活が始まった。母は実家を出ることはなかったが、その男性は後に近くのアパートに引っ越しをしてきた。もちろんその男性も既婚者だった。日曜日、ほとんど家に居ることのなかった母が、どこにいたのかは想像に余りある。ただ、私はひたすら「何も感じていない」ことにした。だがその歪みは必ず顔を出す。中学三年生の時、私は初めて「拒食症」というものになった。体重は15キロくらい落ちた。腕も足もポキリと折れそうだ、と思ったのを記憶している。眠りにつくのも困難になり始めた。当時、祖父母、母、そして時々会いに行っていた父(母は私と父が会うことを不思議と嫌わなかった。)、中学校の担任、誰もそれを心の病気のはじまりのサインとは思わなかった。祖母は、今、それを凄く後悔していると私に話す。
そして、「事件」は私が高校一年生の時に起こった。夏休みだった。心の病気が少しずつ進んでいた私は、とにかく休める「夏休み」を謳歌していた。身体を休める「夏休み」を過ごしていた。ある朝、私は母に突然起こされた。
「ねえ・・・〇〇さん・・・殺されちゃったかもしれない・・・。」
私はあまりの疲労と眠気で、その時あまり事の重大性を理解していなかった。正直自分の眠気が先、起きなかった。だが、それは事実であった。母の愛していた、お付き合い(と言っても不倫関係だが)していた男性は、精神を病んでいた自分の次男との話し合いの場で、包丁で刺され命を落とした。その「話し合い」の日、母は「気を付けてね」と言って、その男性にお弁当を手渡したそうだ。それが、最期の姿となった。
だが、母とその男性の関係はあくまで不倫関係であり、そしてその男性は私の小学校時代の担任であった。もちろん葬儀に母も私も参列した。私の同級生や保護者も沢山参列していた。当たり前だが、母はその男性の顔を見ることもできなかった。
後に知ったことだが、その男性の住んでいたアパートは、法律上「保証人」になることができなかった母が賃貸契約し、保証人にその男性がなっていたらしい。そこで、その男性の家族は、アパートの賃貸契約をしていた本人に、遺留品の片づけを全て押し付けた、というか何もされないので母がやるしかなかった。私は、やつれた母に何度か「手伝うよ」と言ったが、母が決して私に手伝わせることはなかった。荒れ狂う悲しみの中、母は仕事が終わるとアパートに通い、全てその後片づけをした。その男性の長男にも会ったようだが、その時何を話したのか、私にはわからない。
その「後片付け」の最中、母は「腰が痛い」と言い出した。
母は元々腰痛持ちだった。片付けでその腰痛が悪化した、祖父母も、叔母も私も、誰もがそう信じて疑わなかった。だが、その時既に母には「病魔」が忍び寄っていた。あてもなく腰痛の治療を続けた母に忍び寄っていた病、それは「子宮癌」だった。それがわかったのは、翌年4月だった。その日も、私は丁度春休みが終わるか終わらないかで、いつものように起きたのは昼頃だった。だが家がもぬけの殻だった。体調の悪化で寝込んでいた母、そして祖父母も居ない。私は直感で母に何かあったと思った。母は地元の大学病院を頼ったが、最初は「ベッドが空いていない」と、教授でもある医師に入院を断られたそうだ。だが、そこで祖父母はその医師に、密かに10万円を包んで渡した。すると、「あそこ・・・空いてなかったか?」という話になり、母は入院することとなった。(その時から基本的にあたしは医師という者への不信感が拭えない結果となってしまった。)そして、検査の結果、子宮癌と診断され、母は手術を受け、少しだけ回復の兆しを見せた。病院食は美味しくない。よくコンビニの麺類などを持ち込み、母と一緒に食べていた。5月後半くらいから、抗がん剤治療と放射線治療が始まった。髪が抜け落ちはじめ、母はどんどん痩せていった。続く治療と裏腹に、症状はどんどん悪くなった。祖母や叔母は、抗がん剤治療を一度やめよう、と散々説得したそうだ。だが、母は頑として続ける意思しかなかった。理由はひとつだった。

「娘を遺して逝けない・・・。」

最後に母が私に残してくれたのは、母親としての愛情だった。結局、母の意識は6月25日になくなり、6月29日、母は息をひきとった。連絡を受け学校から病院にかけつけた私と過ごせた最期は、たった40分くらいだったが、息が止まりそうになれば、「お母さん、息をして!」あたしと叔母、祖母は励まし続けた。虚しいことなのはわかっていたが、そうするしかなかったのだ。祖父はそんな娘の姿を見ていられなかったのだろう、病室の外で、絶望的な表情で宙を見つめていた。
ただその母と過ごしたたった40分間を、私は忘れることができない。母が少しの私への謝罪と、愛情で残してくれた時間だったと今は思っている。迷いはあった。既婚の身でいながら、不貞もあった人生だったかもしれない。ただ、最期は、母は私への母としての「愛情」を貫いた。47年の生涯だった。

私の「父」が貫いた愛

短いが、父の事にも触れる。父は、母の病気を、亡くなる数日前まで知らなかった。母が決して言うなと、祖父母や私に口止めをしていたからだ。だが、祖父母は立場上、母に命の危険が迫った時、言わざるを得なかった。それは常識的に仕方ない、何も非難する事ではないと思っている。父は母に会いに来たそうだ。そして、私のことは心配するな、と母に伝えたそうだ。その時母は、一筋涙を流したらしい。それがどういう涙だったのか、今となっては知る由もない。
私は父に母への愛情は無いと、思って疑っていなかった。
だが、葬儀の際、父は両手に顔を埋めてむせび泣いた。私は隣の席でぎょっとした。正直、信じられない光景であった。
母が家を出た後、父は何度か母を説得しに迎えに来た。だが、母は頑として受け入れることはなかった。その説得も途絶え、私は父にも別の女性がいるのではないかと思っていた。だが、あの光景を見た限りでは、その時私にはそうは思えなかった。父は母への愛を、父なりに貫いたのだと思う。父は母が亡くなったあとしばらくして、定年を待たずに退職し長野県の実家に帰った。そして結局寒い冬1月末、孤独死をした。他殺の線はないものの、死因は不明のまま荼毘に付された。恐らく飲酒したまま眠り、凍死したのだと思う。(長野県の冬の寒さに私が敏感すぎる理由はこの辺りにある。実は大切な人が昨年夏長野県へ転居した。結局彼は長野の本気の冬を待たずまた転居したが、家のない状態がしばらくあった彼に酒を飲んで屋外で寝ないで、としつこいほど言ったのはこの辺が理由になる。)孤独死とは父らしいな、とは思う。父らしい最期だった。

私を支配した心の病-すれ違ったの愛の行方-

母が亡くなった時、すでに少し異常を感じていた精神と肉体は、その後1年も経たないうちに溢れ出てしまった。はじめは通学電車内で訳もなく流れ出た涙から始まった。突然のことに私は混乱した。所謂パニック障害である。だがそれを私は知らなかった。まだ学生だった私は、制服を着ていたこともあり、周りにいた優しい大人に声を掛けられ、助けてもらうことが出来た。「駅員さんに伝えてくるね」1人の女性が駅員室へ走り、1人の女性が背中をさすってくれた。駅員さんがそのような急病人対応をどうするべきとマニュアル化されているかは分からないが(聞いてみたい人がいるのでもしこのことがわかったらここは差し替えます)、そこはJR上野駅、そこそこ大きなターミナル駅で、駅員さんは駅員室の長椅子のようなところで休ませてくれた。祖父母に連絡し、祖母が迎えにやってきて、塾の帰りだったこともあり23時半頃私は自宅に戻った。特に何か異常はなかった。

だが綻びは始まったら止まらない。私は学校への往復だけで疲労困憊になり、夜も眠れず4時くらいまで布団の中で寝返りを繰り返した。登校の為起床は6時。どう考えてもおかしい。だがそれに誰も気が付かなかった。そのサインを受け取ってくれる人は誰もいなかった。授業中に寝てばかりいる私を見ても、教師たちはそのサインに気づいてはくれなかった。

だがいつか限界は訪れる。私は母が亡くなった大学病院の内科を受診した。身体に異常は見つからず、そのまま精神神経科行きになった。そのまま今現在も私はそこに通い続けている。大学病院なので主治医は変わる。だが不思議と合わない、と思う主治医はいなかった。ただ一度女性の主治医に酷く依存してしまったことがあり、主治医は必ず男性と決めている。

母のこと、父のこと、それが私の病気に影響を及ぼしたかは、いくら主治医でもわからない。もし、母の愛した男性が殺されていなかったら?父と母の離婚が成立していたら?もし母が再婚することがあったら?可能性はいくらでもあるが、全くそれは答えとは結び付かない。

ただ、父と母が普通に愛を通い合う、ごく普通の家庭だったら?もしかしたら私のこの病気はなかったかもしれない。少しだけそう思ってしまうのは的外れだろうか?

私の「アロマンティック」への影響は

初めて私を愛している、と言ってくれる男性が現れたのは、高校を何とか卒業して無職だった時だ。その男性も心の病を持っていた。だがどうしても私はその男性に恋愛感情が湧かなかった。だが付き合って欲しい、という彼の想いに応えたいと思い、少しの間お付き合いをした。もちろん性的関係も持ったが私は何の感慨もなかった。そして関係は続かず、数ヶ月で彼とは別れた。自然消滅だった。

そして数年後、また現れた私を愛していると言う男性に、正直あたしは面倒だと思ってしまった。彼は、少し年の離れた男性だった。どうしても恋愛感情が湧かない。でもその恋愛感情が湧かない自分が嫌だった私は、またしても少しの間お付き合いをするという選択をした。そしてまたしても関係は続かず、私の精神科病棟への3ヶ月間の入院をきっかけに(精神科の閉鎖病棟は基本親族以外とは会えない。婚約者でも会うことは許されない。)自然消滅した。

どうにも恋愛感情が湧かない、これをどうとらえるか私は正直悩んだ。周りの友達に彼ができ、結婚し、子供ができて行く中、取り残された私は途方に暮れた。その時、セクシャルマイノリティなど、LGBTQくらいしか知らなかった。要するに、母と同じ売れ残りなんだな、くらいに思っていたし、結婚という全くイメージのわかない代物に興味はなかった。母のように、無理をして結婚しようなどと思わなかった。それはそうだ、母の人生を娘が繰り返すようでは、まるで赤木リツコのようではないか。そんな哀れな人生は送りたくない、別に1人の人生、悪くないと思っていた。

そんな折、出会ったのがとある2人組の男性YouTuberだった。

ある「YouTubeチャンネル」との出会い

そのYoutubeチャンネルの登録者は、当初LGBTQの特に男性が多かったそうだ。すぐに女性層に逆転されたようだが、まあそれはそこそこ顔もスタイルもいい男性2人が何かいちゃこらしているのだから仕方がないだろう。(今振り返ると何故私が惹かれたかは全く不明だ。特に私の推していた子、今友人には良く、あれは「芋」だよ、と表現する。今、特にチャンネル開設動画を見返すと、垢ぬけない田舎育ちの純朴な少年にしか見えない。だが当時から私は彼を何となく気に入っていた。)その「芋」じゃない方、後にあたしが「夢」から始まった「性的欲求」を持ってしまった方の子のセクシャリティが、バイセクシャルだった。
彼は性に奔放だった。仕事も、所謂「夜職」、それも「水」ではなく「風」の方だったた。多分、「恋愛感情」がなくても性愛関係を結べてしまう人だ。それに悩む様子も一切ない。
「悩んでないよ、俺は。」普通の事のように彼は言う。自分が一種のセクシャルマイノリティなのだろうな、と考えていた私には結構衝撃だった。それが私がセクシャルマイノリティについて必死に調べるきっかけとなった。その時出した結論は「自分はアセクシャル(無性愛)」だった。多分、あの時の私は、「アセクシャル」で正しかったと思う。
しかしその彼らとの時を過ごす過程で、私の中の「性愛」というものを掘り起こした彼に対する感情は正直複雑だ。歪んでいるかもしれない。セクシャリティというものが外的要因で変わるのかはよくわからないが、私は彼によって「アロマンティック」化、したのかもしれない。

結局「愛情」の定義とは

「愛情」とは、心が動けば既に「愛」なのだと思う。「親」や「子」、「友人」や「恋人」、「アーティスト」「俳優」「芸人」「YouTuber」「ホスト」「キャバクラ嬢」関係は色々あるだろう。だが、そこに何か「あたたかいもの」が生まれれば、それはもう「愛情」なのだ。心がほっとあたたかくなり、慈しみ、愛しむ感情、それはどういう形をとろうと「愛情」、と呼べる。「心」があたたかく思うもの、「身体」があたたかく思うもの、もしかしたら違うかもしれない。(実際私は「心」と「身体」がどうにも一致しないところがあるので、「心」の求めるものと「身体」の求めるものは違うと感じている。先程あげた男性2人組のYouTuberにも、「心」は片方、「身体」は片方に想いが寄っている気がするのは間違いないと思っている。)でも、想えば愛なのではないか。「あたたかいもの」を向けることができれば、それは「愛情」なのだろう。

「愛情」とは「あたたかい想い」である。そうあって欲しいと、願わずにはいられない。

そして私も、あたたかく誰かを想える存在でありたい。例え、「心」が想うもの、「身体」が想うもの、が違ったとしても。普遍的な「愛情」とは、違ったとしても。


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