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世界は広いと知って、初めて居場所を見つけた話。

こんにちは、深月です。
ここ一年は日本に全く帰らず、ヨーロッパで仕事に旅行に、忙しくしていました。

ヨーロッパでの生活も今年で三年目になりますが、年々こちらのライフスタイルが肌にあっていくのを感じ、自分の居場所はここにあると思うようになりました。

ハンガリーの大学に進学するまではずっと日本で暮らしてきたのですが、決して心地よいと思う生活をしたことや、心から自分の居場所だと思える場所がありませんでした。テーマパークやおしゃれなカフェ、ショッピングなどで休日を過ごす度に、どこか満たされない、心に穴が空いたような気持ちが拭えないまま、時間だけが経っていきました。

そして三年経った今、あの時言語化できなかったモヤモヤした感情が何だったのか。そしてその感情を産んだヨーロッパと日本の違いは何なのか。こちらでの生活を経てその答えがゆっくりとわかるようになってきたので、今回記事を書くことにしました。

結論から言うと、ヨーロッパの生活と日本での生活で決定的に違うのは、人の社交的度合い、個人主義か集団主義か、便利さ、多様性のある環境か否かの違いにあると思います。(これらはあくまでも私の個人的な見解です。ヨーロッパと日本というざっくりな分け方をしていますが、その中にも例外はあるので、偏見を抱かないようにお願いします…!)


社交的度合い 


まず、ヨーロッパでは圧倒的に出会いの数が多いと感じます。親しい友達と数人でホームパーティーを企画すると、「他の友達も連れて行ってもいい!?」と芋蔓式で参加者が増えていきます。笑 終いには、友達の友達の地元の友達…?など、普段絶対出会うことのない人がいきなり来ることも。しかし全く問題はなく、むしろ文化や国の違いは話題のタネに。このように、皆が新しい人に会う事に慣れているヨーロッパでは、どんどん友達の輪が広がります。(もちろん、ヨーロッパといっても一括りにはできません。日本人と同じくらい内向的な国もあります。)


個人主義か集団主義か


小さい頃、学校で先生が「この問題わかる人挙手!」と言った時、答えがわかっているにもかかわらず、周りが誰も手をいないので手を挙げることができなかった。という経験はありませんか?

日本の教育は、集団の1人であることを大事にします。
周りに合わせることは、秩序を守るためには大事な要素かもしれません。しかし、周りと同じであることは決していつも善であるとは限りません。

周りと同化することが目的になってしまうと、本質を見失います。
例えば、コロナ禍、真夏の炎天下の中法的縛りがないにもかかわらず、周りがしているからマスクをし続けたり、(一方その頃ほとんどのヨーロッパの国々では、完全にマスクフリー、混雑する公共交通機関のみでの着用など、ポストコロナに向けて確実に前進していました。)
「痩せている=美しい」「白い肌=美しい」など、外見の美しさのイメージが一つに統一されることによって、10代20代女子の間で過度なダイエットに励み、拒食症になるケースが増え、深刻な問題となっています。(ヨーロッパでは、美しいのイメージは人によって全く異なります。さまざまな体系、肌の色、ファッション。相対的評価ではなく、自分がどうありたいか、絶対的評価で自分のあり方を決めるのです。そもそも「美しくあらなければいけない」と言う社会の共通意識のようなものを感じたことがありません。)

さらには、自身の将来についても、全ての人が同じタイミングで就活をはじめる、就職後はどのポジションに配属されるかわからない。など、矛盾したシステムを鵜呑みにして決められたレールに従うことは、あまりにも他人任せではないかと思うのです。集団に合わせることが正しいと盲目的に信じ、思考停止し、一生相対的評価に縛られて生きることが、本質的だと言えるのでしょうか?(一方ヨーロッパはポジション採用がメインであり、インターンの経験をもとにした採用などが主です。また、高校から既に学びたい分野を専攻することができ、合わなければ学びたい分野のある学校に二度三度と転校して勉強します。このようにベースを作ったのちに大学に進学するため、大学から将来を考え始める日本とは違い、大学はより学びを深める場として、有意義なものにすることができるのです。休学して世界を廻ったり、大学院に進んだり、自分でビジネスを立ち上げたり。皆、異なる働き方で自分らしいライフスタイルを模索しているという印象を受けます。)

このように、相対的評価に頼らず自分の中にある絶対的評価で生きるヨーロッパの人々。責任を持って自分らしく生きることに注力するため、他人をジャッジする暇も、ジャッジされることを恐れる暇もありません。
「自分は自分、他人は他人。」と切り離して考えると、嫉妬や計算とは程遠い、建設的な関係を築くことができます。


不便さが教えてくれる本当の幸せ


ヨーロッパは地震が少ないため、(イタリアなどはありますが…)古い歴史的建造物が多く残っています。そのため、水道管や天井が頻繁に故障したり落下するなど、よくトラブルに見舞われます。もちろんトイレにはウォシュレットなどなく、冬は冷たい便座との戦いです。また、官僚制のため政府系の手続きには本当に手間と時間がかかります。

そしてハンガリーは観光資源も少なく、日本より生活水準も低く、娯楽も多くありませんが、スーパーで買ったお酒と手作りの料理で開くホームパーティーや、公園でのピクニックは、お金を使う遊びよりも遥かに高い幸福度をくれます。

昨年二ヶ月タイで生活したのですが、バンコクは日本と同様騒々しく発展していて便利な一方、日本にいた時のように、「お金も物も、全てあるけど何もしたくない」という窮屈な気持ちになった事を覚えています。

そして私に本当に必要なのは、高級な服でもインスタの為に行くカフェでも、フィルターを使って盛れるまで撮影する写真でもなく、大事な人と美味しいものを食べてディープな話をする時間や、自然の中で大事な人たちと過ごす時間、本当にシンプルだけど本質的に幸せな時間であると、強く感じるきっかけとなりました。

やっぱり限られたもので自分の生活を豊かにしていく日々は愛おしい。そこにはクリエイティビティや思いが沢山詰まっていて、それこそが暮らすとだ。と23歳の若造は悟っています。


多様性の有無 〜違いを愛するヨーロッパの人たち〜

島国日本との一番の違いは、その多様性です。
多くの移民を受け入れているヨーロッパでは、肌の色、言語、宗教、道徳、文化など、全く異なるバックグラウンドを持つ人が当たり前に共存しています。

ベルギーでスーパーに寄った時、こんな事がありました。一見同じに見えるチキン。なぜか売り場が分けられており、片方のみすごく値段が高い。ベルギー人の相方に何故?と尋ねると、高い方はハラルフードと言って、イスラム教の方の宗教的な理由の為に特別な殺され方をしたチキンなんだよ。と教えてくれました。

このように、日常に溢れている多様性。時には考え方の違いによるテロなど、悲惨な事件を引き起こすこともあります。それでも、多くの国や地域の友達を持つと、新しい食べ物や美しい音楽、価値観に出会ったり、戦争が自分事になったり、他文化の中に自分の居場所を見つけたり。日本では得られない、人生の財産となる時間や人に出会う事ができます。いつもホームパーティーを開くたびに見える、異なる人々がお互いを知ろうとする姿はとても愛おしく、国境という恣意的な線を忘れ、私たちはみんな同じ地球人であるということを強く感じながら彼らと交わすお酒は本当に美味しく、これほど幸せな瞬間はありません、、!


おわりに…

世界への愛が暴走しそうになりましたが、、、
今現在私がヨーロッパ暮らしを経て吸収した知見をシェアします。
もしも誰かの小さなきっかけになれたら、幸せです。

知らない事を知ろうとすること。それはきっと世界の解像度を高くしてくれます。
異なる国や文化の人と出会うこと。それは大事な人や場所が増えること。
旅をすること。それは本当の居場所を知ること。そしてそこに住んでいる人たちは同じ人間だと知ること。

まだまだ無知で未熟な人間ですが、死ぬまでできる限り私の住む世界を理解すること、愛すること。これが私の大きな夢です。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます:)


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