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人は30歳で死ぬのが一番美しく死ねる

発達障害者として産まれ、
精神障がい者として生き、
脳腫瘍患者として死んでいきます。

やはり生き過ぎた。
中学生の時に国語の教科書か本で俳人が「人は30歳で死ぬのが一番美しく死ねる」と言っていた。その言葉は、機能不全家族という精神的に極めて劣悪な環境で養育されたわたしの生きる希望となり「30歳で死のう」と思いながら生きてきた。

希死念慮を抱えながらも、自殺を試みながらも、生き過ぎてしまった。

もともとどう生きたいかなどなかった。ただただ精神的に両親に支配されていた。物理的に離れて暮らしてもなおつきまとう親の陰に怯えながら死にたいと思っていた。

今年の5月、就職活動で疲弊していたわたしは自閉スペクトラム症(旧:アスペルガー症候群)と診断された。すでに精神科に通院して6年になる。双極性障害2型と診断されていたが、発達障害の二次障害だと改めて診断された。適応障害も併発しているとのことだった。

これを受けて親に対するこれまでの怒りが爆発した。診断結果を父に伝えて1,500万円の事前贈与を求めた。なぜ1,500万円なのかと聞かれ、痛みの金額だと答えた。たとえば野球場で猛スピードでボールが飛んできて胸を強打した時の痛みを金額にすると100円だ説明した。つまり心身ともにぼろぼろ。慰謝料代わりの依頼だった。自閉症の弟の将来が心配だから、老後に医療費がかかるからという理由で断られたが、その代わりに一切の接触を断つよう要求した。そしてすべてのコンタクトをブロックした。それでも何かしらの手段で接触を試みられる不安が残り、かかりつけの公認心理士に相談しカウンセリングも受けた結果、いつ両親から連絡が来るかもしれないという予期不安に襲われることもなくなった。

そして、産まれて初めて夜見る夢がクリアに明るくなった。夢はいつも明かりが消えかけのように暗かった。まるで電球を付け替えたようだった。

8月のお盆に、結婚して以来初めて帰省することになった。義理の両親にどのように挨拶しようか、また実の両親と事実上縁を切ったことをどう説明しようか、など考え悩みすぎて頭痛が出ててしまった。なかなか治らないため近くの脳神経外科で診てもらったところ、単なる緊張型頭痛だった。ところが医師はそれだけでなく、CT画像を丁寧に説明し始めた。え、なにかあるの?と慎重に聞いていると、なんと下垂体に2cm大の腫瘍らしきものがあると言われた。青天の霹靂だった。その病院にたまたま限定的に勤務していた東京医科大学病院の医師に診てもらったところ「手術してもいい」との初見だった。

その後すぐに東京医科大学病院へ転院し、前述の医師のもとで手術も視野に入れてあらゆる検査を重ねた。さすが大学病院はかなり精密に検査してくれて、精神科系の薬の服用のために瞳が大きくなっているということまで指摘された。検査の結果、プロラクチン産生下垂体腺腫と診断され、視力、視野ともに問題ないため手術ではなく薬物治療を始めることとなった。それまでの間、わたしは主治医から何を言われても的確に情報を消化し必要な質問を準備しておかなければと、インターネットで調べられるだけ情報を集めた。そしてそれを夫にもシェアしようとした。ところが夫は「めんどくさい」と言ってとりつく島もなかった。ショックだった。腫瘍のことは誰にも言わなかった。みんな何かしら悩みがあり辛い思いをしている。不幸マウントを取るような、無闇に同情心を煽るようなことをしたくなかった。けれど夫にだけは慰めの言葉をかけてほしかった。追い打ちをかけるように「可哀そうだと思えない」と言われ絶句した。

検査が進んでいた夏から秋にかけて、夫への不満を明確に、そして多々認識し始め、かなり鬱憤が溜まっていた。家の購入もひかえており、平日に動けない夫に代わり四六時中不動産業者との窓口となり多忙を極めていた。就職活動も続けていた。疲労困憊していたし、病気が将来の人生設計に影響があることに対して不安もあった。この頃はとにかく何でもいいから気晴らしがしたかった。

この病気は死に直結しないが、QOLを損なう危険があることは調べて予想がついていた。もし手術をすれば何らかの合併症、後遺症は免れないとわかっていた。もし介助や介護が必要な身体になったらどうするのか。夫はそんなこと気にも留めなかった。自身にも影響することなのに、その無関心さが信じられなかった。

この一件以降、夫を諦めた。何も期待しないと決めた。わたしは新鮮でないからとセックスをしてくれない、辛いときに共感もしてくれない、赤字にもかかわらず嗜好品を止めず家計のことを考えない。なぜ9年も一緒にいられたのか不思議なほど夫に対する愛情は薄れ、嫌気が差した。専業主婦になり仕事がなくなった途端、今まで有耶無耶だった悪い側面に目が行くようになり、夫の存在意義はもはや経済面だけとなっている。精神科に脳神経外科と、不定期かつ複数の通院のために就職は困難となり、独り立ちさえできれば離婚できるのにと悔しい想いで一杯である。

「完治までにどのくらいかかるでしょうか?」と尋ねて、主治医は「どこにも書いてないでしょう」と答えた。ネットリサーチした限りどこにも完治に関する情報はなかった。だから尋ねたのに、医師にもわからないということだ。この病気は国から難病指定されており、恐らく”完治”というものが存在しない。双極性障害すら欧州では完治が可能と言われ断薬の余地があったのに、まさか一生通院や服薬が必要な身体になってしまったとは。

今、専業主婦となって初めての年が終わろうとしている。わたしの人生もいつ終えても構わない。やりたいことはやった。好きなものもない。楽しみはない。わたしはナニモノになることもできなかった。これから自分はどうありたいかわからない。

だから30歳で死んでおけばよかったんだ。

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