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風の葬送

14時間もの飛行のあと、着陸体勢に入った飛行機は、今まで感じたことのない程の大きな揺れと轟音を伴いながら下降し始めた。
窓の外は真っ白で何も見えず、機外カメラからはビリビリと機体に電流が流れるように稲妻が走っているのが見えた。
ドーン、ドーンと何かに打ち付けられるような揺れの度にガクッと高度が下がり、体が座席の上で大きくバウンドする。機体の加速が機内にも伝わり、やがて、まるで暴れ馬に乗っているかのように、床に脚を踏ん張っていないと座席に座っていられないような状態になった。
私達の後方に座り、先程まで、ワオ!今日は揺れるわね〜!などと明るく冗談を飛ばしていた CA達にも次第に緊張が走り、乗客達もザワつき始めた。
無事に着陸出来るのだろうか…と一抹の不安がよぎる。

やがて機体はガタガタと大きく振動しながらも、しかしタイヤが地面と接触した瞬間は、優しく地上に舞い降りる鳥のように、スッと滑走路に降り立ち、ゆっくりと暫く走り続けあと停車した。

湿度のある暖かな地上の空気が、機内に流れ込んでくる。

ああ、帰ってきた、と感じた。

5年ぶりの日本ーー
こんな形での一時帰国になるとは思いもしなかった。



父の病状がよくない。

妹から連絡があったのは、こちらの国の短い夏の始まり頃だった。
妹も直接医師と話したわけではなく、父の再婚相手の娘から知らされたのだという。
父の癌はもう骨にまで転移しており、今は痛み止めのための麻薬が導入され、長くはないだろうとのことだった。
父の希望で、緩和ケアのみで延命治療はしない。
面会は許可されていないため、妹もまだ父に会えていないという。


いつ帰国したらいいのか、迷った。

父は、実子である私たちを拒絶していた。


最後に父と会ったのは、パンデミックが起きるよりも何年も前の一時帰国の時で、あまり長く此処に滞在しないでほしいと言われた。
翌年も、いつもなら数年に一度しか帰国しないところ珍しく立て続けに帰国することを知らせると、直前になってあれこれと理由をつけ、来ないでほしい、という旨のメールが父から届いたので、故郷には寄らずにまた日本を後にした。

この一連の出来事がきっかけとなり、今まで辛うじて何とか繋がっていた糸が、ぷつりと切れた気がした。

そのあと私は絶縁のメールを父へ送った。
それで父からの返信は二度と来なくなった。
音信不通になった頃から、次に父と会うのは葬儀の時かもしれない…という予感があった。
現実になりそうだな。
冷静に考えている自分がいた。

あれは私が小学校の低学年くらいの頃だろうか、夏の夕方、家の裏庭に植えられていたオジギソウの前で、こうすると眠るんだよ、と父が親指と人差し指で葉を合わせると、ぴったり閉じたままになった。私も父の真似をして、次々と葉っぱを眠らせていった。
父はいわゆる”緑の指”というものを持っていて、どんなにぐったりとした植物も父にかかると息を吹き返した。
私が20年以上も前に父へ贈ったブルーベリーの苗も、だいぶ大きくなるまで育て沢山の実を収穫していた、と妹から聞いた。
幼い頃の私は、お父さん子だったと思う。

しかし父との関わりは長じて希薄になってゆき、私にとって父は頼れる人でも、心強い存在でもなく、むしろ悩みの種となっていった。
家庭を省みず放蕩を繰り返し、事業に失敗し借金を重ね仕事も安定しなかった父は、一家の大黒柱であった母とは諍いが絶えず、ついには母の留守中に何も言わず荷物をまとめて家を出て行き、他所の女の人と暮らし始めた。
数年の別居のあと父と母は別れ、そのとき母へ離婚を勧めたのは娘である私たちだった。


母が亡くなり、実家を処分する数年前、私は戸棚の中から見つけた子供の頃の古いアルバムを捲っていた。
その中の1枚には、住宅街の中にある公園までベビーカーを押して来た父と、まだ乳飲み子の私が写っていた。写真を撮ったのは恐らく母だろう。
父は頬がげっそり削げ痩せこけていて、にこりともしておらず、なんだか悲壮感さえ漂わせていた。
ああ、こんな風に、父にとって家庭とは、家族とは、重荷でしかなかったのだろうか。
私は、まだ母と結婚する前の若い頃の父の写真を、数枚だけ選んで持ち帰った。

父は家庭から逃げたが、私も母や父、生まれ故郷からも逃げた。
私にとって実家とは、常に気が休まらず、安心出来るような拠り所ではなかった。
自分には帰る場所はない、そう思ってずっと生きてきた。

父の最期に際して、辛いでも悲しいでもなく、強いて言えば、今更どうなるものでもない、という諦めに似た気持ちがある。
感傷的な対面などというものは、現実にはない事をよくわかっている。
私の内側にはとても冷めた部分があり、もうこの人とはだめだと判断すると、躊躇なくすぱっと人間関係を断つようなところがある。
そういうところは、父に似たのかもしれない。
私には、何か大切なものが欠けているのだろう。


父の容体が急変し、あと1週間もつかどうかという知らせが入った。
すでに父は昏睡状態に入りかけており、体を揺らすと起きる時もあるが、話しかけてもほとんど答えることは出来ないという。
知らせを受けた孫たちが、遠方からも続々と駆けつけ、特別に1回15分に限り面会を許された病室で父を囲んだという。
この孫たちというのは、父の再婚相手の孫であり血の繋がりはない。
だけれど、小さい頃から沢山遊んでもらって面倒みてもらった、自分たちにとっては本当のおじいちゃんだった、と涙を流し、実の娘である妹へ口々に礼を述べたという。

その時、妹がどんな気持ちだったか、痛いほどわかる。
実の孫である私たちの子供と父は、これまで数える程しか会ったことがないし交流もなかった。
私たちの子供と父の間には、思い出らしきものもほとんどない。
これまで再婚相手が父と私たちの間をはばんできたが、それに逆らわず言いなりになっていたのは父だ。

「…なんだかね…全然違うんだよね…」

妹の居た堪れなさが私にも伝わり、不憫に思った。

大切にされた家族と、大切にされなかった家族

血の繋がりはなくとも沢山の孫に慕われ、父の人生は概ね幸せだったのだろう。
私たち姉妹には、釈然としない思いが残るが。

「お姉ちゃんも体調悪いし、無理して帰国しなくても大丈夫だから」

「後のことはあちらに任せて、私も必要最小限しか関わらないと決めてる」

「ただ最期くらいは、ごたごたしないで見送りたいだけ」

妹の言葉に、ほっとしている自分がいた。

「これが最後の面会になるかもしれないから」

姪が父の病室からビデオ通話を繋いでくれた。
酸素吸入器やいろいろな管に繋がれベッドに横たわる父の姿が、画面に映し出された。
父の目はしっかりと見開かれていた。
数年振りに見る父は少し顔がむくんでいるような気もするが、痩せ細っているわけでもなく、むしろふっくらとして見えた。

「お父さん、私だよ。わかる?」

呼びかけると、暫く間があり
「………わかる」
父は呟くように小さな声で答えた。

この人を憎んでいるわけではない。
しかし今更何を話せばいいのか、言葉が見つからない。


やおら、父がこちらに手を伸ばすような仕草をするのが見えた。


それを遮るように
「もう見せないで!娘たちには会いたくないって言ってたんだから」
「早く切って!」
父の再婚相手が騒ぎだした。

側にいた姪が
「おじいちゃん、違うならまばたきして」
と懇願したが、父の目は見開かれたままだった。


「叔母ちゃん、ごめん…切るね」

フッと画面が暗転し、そこで通話は途絶えた。






朝の日課になっている島へと歩く。
木々の葉が風に揺れ、カモメが空を横切り、海がきらきらと輝いている。


ふと「おつかれさまでした」という言葉が頭に浮かび、水平線に向かい、心の中で手を合わせた。


同じくらいの時刻に、海の向こうの父は安らかに逝ったと聞かされた。


送られてきた画像で見た父の死に顔は、わずかに微笑んでいるような穏やかなものだった。






東京駅の新幹線ホームに、前面が流線型の車体にグリーンの帯が入った「やまびこ号」が入ってきた。
新幹線に乗車するのもかなり久しぶりだ。
これからは更に帰郷する機会は減ってゆくだろう。
発車ベルがホームに鳴り響き、行き先を告げるアナウンスが流れると、車体はスーッと滑るように走り出し、徐々に速度を上げてゆく。
車窓の景色は後ろへビュンビュン飛ぶように流れてゆき、ビル群から山並み、田畑の風景へと移り変わって行った。

いくつかの駅に停車したのち、最寄りの駅名がアナウンスされ、私はスーツケースと共に出口へと向かった。
平日の午後に降り立った地方都市の新幹線ホームは、閑散としていた。


遠くに山の稜線が見える。


何処からか、微かに金木犀の匂いがした。
十数年ぶりにかぐ、甘く懐かしい花の香り。


吹きおろす風はやっと、夏の終わりを告げようとしていた。


故郷で私を待つ人は、もう誰もいない。








ジャズとラテン音楽を愛した
父へ捧ぐ



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