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凡夫の迷い

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祖父が書いた自伝です。いまの人にも伝わる言葉で、物語として書き起こしてみています。ちょっとずつ上げていきます。ちなみに僕自身には特に政治思想はありません。
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記事一覧

十四、縁の下の力持ち

若い連中との距離が縮まった。女子社員が俺を見てニコッとする。

幹部には警戒されている。大した用事も無いのに、職場に顔を出す。今まで荷造り場なんて下っ端の職場には、一度も来たことが無かったのに。俺は素知らぬ顔で俵巻きに精を出す。

「きみ、作業中のタバコは止めなさい。」

憎々しい目で睨まれる。

会社の慰安旅行で伊豆下田へ行った。ウチで寝ていた方が余程マシなのになあ。そう言う若い連中と夜通し語ら

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十三、自由に物を云う

会社は好況だ。荷造り場は残業に次ぐ残業。不満がくすぶっているが、組合は無い。

幹部を交えた親睦組織で、毎月例会がある。

「何でも遠慮なく喋りなさい。」

そう言われてもなあ。皆んな下を向いたまま。仕事終わりで腹が減っている。振舞われる出前のもりそばだけが楽しみだ。

親睦会のガリ版刷の社内新聞で、編集委員をやってみないか、と言われた。「大学出だから。」そんな理由でだ。好きに記事を書いて良いと言

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十二、荷造り場

山手線の通勤ラッシュは物凄い。家畜だってこんなに詰め込まないだろう。

出社してすぐ作業着に着替える。繊細なガラス製品が詰まった四階建ての倉庫。荷物専用のエレベーターで一階の荷造り場に下ろす。割れ物だから細かく木毛でパッキングし、束ねて俵で巻く。

製品は繊細だが、荷造り場はまるで柔道場だ。伸び盛りの小企業だから、出荷は止むことを知らない。やれ増産だ、やれ欠品だ、日がな一日怒号のような掛け声が飛び

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十一、労働

民商(民主商工会)の書記の仕事に就いた。商店や町工場の経営や税金の相談、記帳指導などをする。自宅の一部を事務所として提供した。

「親父さん。やってますか。」

中華そば屋の調理場の暖簾をくぐる。

親父が出てきて、包丁を俎板に突き立てる。

「青二才に、何がわかるんだ?」

背筋を寒くして退散した。分別臭く”指導”しているが、俺は世間のこと、この親父のこと、何にも分かっちゃあいない。仰る通り。青

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十、結婚

「あら、今日も遅刻。だめねえ。」
ふと都庁のともちゃんを思い出した。

引き上げられた出勤簿に釣られて総務課へ。
注意しながら笑っていた。

皇居前広場の昼休みも懐かしい。渋井とともちゃん、彼女の友人たちとの他愛ない会話。俺が上の空だってこと、見抜かれていたような気がする。俺はいつも、得意の政治論をぶっていた。呆れる渋井。

「あらそーお。何だか面白いわね。」
ともちゃんは笑っていた。

両国の花

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九、入党

戸山ヶ原の畑仲間から、共産党に誘われた。

「資本論」のゼミナールで学んだ理論を、実践に移すときだ。そのために、仕事も辞めた。でも、踏ん切りがつなかい。

監獄にぶち込まれるかも。食うに事欠くことになるかも。俺みたいなへなちょこに務まるか?両親は、どんな顔をする?

だいいち、今の共産党の極左的な方針には賛同しかねる。党内も分裂している。マルクス、レーニンを超える理論は未だ現れていない。単なるシン

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八、遅刻の常習犯

八、遅刻の常習犯

午前九時三十分。引き上げられた出勤簿につられて、今日もその男が総務課にやって来る。
遅刻を揉み消しに来たのに、悪びれる様子も無い。

「ネ、ごめんね。今回も頼むよ。」
渋井さんの紹介で入庁してきたらしい。親切そうな笑顔と気難しいしかめ面がコロコロ入れ替わる、不思議な男だ。

お昼休みに皇居前広場でお弁当を囲む。渋井さんと私、総務課のお友達と、遅刻の常習犯。

渋井さんは人の話を聴くのが上手い。わた

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七、穴

七、穴

新大久保駅の近く、百人町に越してきた。父六十五歳、母五十八歳。俺は二十五歳。何度目の再出発か。

仕事を探すが、両親を養い夜学の資金を賄えるだけの良い職が無い。

夜学で通うカール・マルクスの「資本論」のゼミナール。昼間に鍬を振るっていないから、元気が有り余っている。戦争でぽっかり空いた心の穴に、知識をたっぷり詰め込んだ。詰めても詰めても、まだまだ足りないような気がした。

「気持ちはわかるが、悪

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六、意地

六、意地

窓の無い掘立て小屋に、むっとする熱気が立ち込めている。時計は零時を回った。

畑仲間で結成した「農事実行組合」。市場氏は、組合とは交渉せず個々人にそれぞれ条件を提示しているようだ。

誰かが良い条件を呑んで抜け駆けするかもしれない。皆んな疑心暗鬼になっている。

仲間意識はある。でも所詮は、縁もゆかりもない他人の寄せ集め。損得を超えてまで団結をするほどの気概はない。当然だろう。

「いやしかし…」

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五、再建

五、再建

「釣りをしてのんびりしています。」
兄は軍事郵便でそう寄越した。仏印からタイに進駐した頃だ。束の間の休息だったんだろう。その後ビルマへ転戦した。

インパール作戦からの敗走に次ぐ敗走。悲惨な撤収であったと言う。

兄がどんな辛い思いをして死んでいったか。知る術もない。「なぜあんな良い兄が…。」声も涙も出なかった。

「腹あ空かして帰ってくるだらあ。」
そう言いながら鍬を振ってきた父と母。打ちのめさ

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四、開拓

四、開拓

市ヶ谷の高台にある復員局は、ついこの間まで陸軍士官学校だった。元軍人や引揚者に開拓入植の仕事を世話してくれる。

古ぼけた木の椅子で待つ。呼ばれて入った部屋は、煙草の煙が充満していた。

元軍人らしい中年の係官は俺を一瞥して、「まぁ、かけろ」という仕草で右手を振った。

北海道、八ヶ岳山麓、千葉の習志野、栃木の那須。係官はぼそぼそと候補地を読み上げる。

「もっと近い所はありませんか。」
係官はい

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三、ビルマ

三、ビルマ

弟は頑固な奴だ。程々ということを知らない。両親は心配しているが、俺はそんな弟が好きだ。

あいつには「若者」という言葉がよく似合う。血気盛んで、愚直で、天邪鬼。

俺は年増に見られることが多い。何事も「程々」にこなすから、大人びて見えるんだろう。中身はあいつと同じ、青二才だと言うのに。

ここに転戦してくる前、タイで束の間の休息があった。
「釣りをしてのんびりしています。」
そう手紙に書いた。両親

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ニ、通信兵

ニ、通信兵

零下四十度。ソ満国境の酷寒の地に俺はいた。うっかり深く息を吸い込んだら、肺が凍てついてしまいそうだ。

寝泊まりする小屋の便所から、糞尿が巨大な氷柱になって垂れ下がっている。

赤紙が来てから有無を言わさず送還された。行き先は告げられない。詰め込まれた列車は山陽本線をひた走り、二年前に開通した関門海底トンネルに潜った。門司から乗った船が釜山に着く。再び列車に詰め込まれ、朝鮮半島を縦断し…。それから

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一、東京

一、東京

1945年、8月。

焦土と化した東京に残ったのは、帰るべき田舎を持たない者だけだった。

俺もその一人だ。田舎では食えなくなって、見切りをつけて一家で出てきた。帰る場所なんか無い。

人形屋。それが俺たち家族が光明を見出した商売だった。起き上がると目が開いて、横になると閉じる。小さな漁村でいろんな商売を立ち上げては畳んだ父が、東京で始めたのはそんな人形をつくる店だった。

洋風の出立ちが当時珍し

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