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仕事に就く、部屋を出る、家を出るくらいなら、餓死した方がマシだと思うようになるまで その②介護の仕事をしていたときの話

介護の資格を取ろうと思い、職業訓練校に通った。

半年かけて実習、座学、実技の授業を受け、無事に資格は取得できた。

そこから、職につくまで迷いがあった。

自分は本当に正社員としてやっていけるのか、介護を仕事にできるのか、お年寄りと接する仕事の中でも、なにがいいのか…。

結局、しばらく悶々と過ごすが、バイト先の有機野菜を出すレストランによく来ていた夫妻の旦那さんが、たまたま前職が介護職で、介護施設の立ち上げに関わっていたこともあり、そちらの施設に見学に行き、いい雰囲気であったので、そこに応募することにした。

難なく、無事にその施設を運営していたNPO法人に就職が決まり、その介護施設で介護職として採用が決まった。

29歳の時だった。

職につくと、それまで心配していた、人と接することや人間関係の問題、職につく前に心配していた、排泄介助など自分はできるのだろうか?といったことは、クリアできた。

職場の人も優しく迎えてくれたし、男女問わず温厚な人が多く、上司も温厚な人だった。人と接することは、苦手意識や緊張してしまう相手もいて、きちんとしなくては、緊張してはいけないと思うと余計にぎこちなくなったり、あとですごく疲れる…みたいな、いつものこと、繰り返ししてきたことは症状、日常として表れてはいたものの、小さな施設で全体的に接する人の数が限られている上、普段接する人はいい人が多く、また、メイン、仕事として主に接するのは認知症のお年寄りたちだったので、緊張はしなかった。

これは、実習でも感じていたけれど、私はお年寄りにはあまり緊張したり、苦手意識を持つことがなく、また、お年寄りも私に好意的に接してくれたり、親しみを持ってくれるようなところがあった。

あまりに重度な認知症の人、それも出会った時から重度の認知症の人とは、意思疎通や交流は難しかった気がするが、わりと軽度な人や、朗らかな入居者、利用者の人とは、楽しく、安心して、朗らかに接したり仕事をしたりできたような気がする。

しかし、職についてみると、また違った面で、いろいろ難しい面、問題が出てきた。

まずは、夜勤や交代勤務による、不規則な勤務時間と勤務形態。

これが、正直辛かった。夜勤があると、どうしても生活リズムが整えにくく、また、眠りも乱れてしまい、常に時差ボケのような頭の中で過ごしていた。

夜勤明けの休みに、フリーター時代から続けていた格闘技の練習に行っても、準備体操の側転をしたら、頭がクラクラしてしまい、体の調子をら整えるのも難しかった。休みが不規則なこともあり、人と接したり人間関係以外、普段の練習や取っ組み合い自体はきつくも面白かった、興味のあった格闘技も、練習に参加しなくなった。

そして次に、仕事に慣れた頃に訪れたのは、この仕事のやりがいの問題だった。

介護の仕事、その施設での仕事はひと通り覚えて、仕事にも慣れた。そして、日々の仕事をこなしていると、仕事を一生懸命やればやるほど、睡眠や生活サイクルの乱れなど体調不良など抱えつつ、目の前の利用者の方と仕事に向き合えば向き合うほど、ある疑問と考えが頭に浮かんできた。

どんなに一生懸命仕事をしても、認知症の人が、回復して治る、認知症が良くなることはなかった(多少の個人差と誤差はあり、一時的に言動が激しくなっていた人が、落ち着いて穏やかに生活するようなったり、などはあった)。そもそも、当時も今も変わっていないと思うけれど、認知症の決定的な特効薬はなく、症状の進行を遅らせる薬があるのみだった。

また、認知症という脳の老化とも言える状態症状はさておき、老化そのものについても、ぴたりと止めることはできず、どんなにあがらっても、ゆるやかに老いとできることが減っていくということは進行していく。

そうなると、一生懸命やっても良くならない、向上しない。なら、なんのためにやってるんだろう、仕事のやりがいを、どこに求めればいいのだろう?と思うようになって行った。

今思うと、それでも、目の前の利用者の人に向き合い、日々できることを、淡々と、丁寧に、やっている職員の人たちがいた。

それはすごいことだと思う。

でも、自分は、どうしても上記の疑問が頭から離れず、悩んでいた。


上司の人に相談したこともある。

すると、上司はこう答えた。

自分たちの仕事は、言葉は悪いかもしれないけれど、敗戦処理のピッチャーのようなところがあると。そんな中、仕事のどこにやりがいや喜びを見出すかというと、今日は、利用者の人がたくさん笑ってくれたな、とか、穏やかな一日を過ごしていたな、とか、そんなところにやりがいを見出していくものなのじゃないか…と。

正直、そのときの自分は、そう言われても、ピンと来なかったというか、そうか、じゃあそこにやりがいや喜びを見出してやってみよう…という気持ちにはならなかった。

今なら、今でもよくは分かってないかもしれないけれど、少しはわかると思うのは、やりがいや喜びを見出す、見つける…といったあたりか。その当時から比べると、当時の上司と同じくらいの年齢になった今、少し上司の言っていた意味がわかる気がする。

喜びややりがいは見つけるもの。

人生に、自分の人生に、そういったものを見つけられない、生きていることがただ辛かったり、時間をやり過ごすことしかできない今、振り返ると、少しだけ上司の言っていたことが、当時よりは伝わってくる気がする。

ただ、目に見える結果、変化、向上、成長、そういったものがないと、自分のやる行為や仕事に、やりがいを見出せなかった。

それは、今もあまり変わってないかもしれない。

とにかく、当時は、上司の言葉で気持ちを持ち直したり、奮起したり、やる気を出したりすることはなく、日々モヤモヤしながら、体をすり減らし、悶々とした悩みを抱えて働いていた。

また、もう一つ気がかりだったのは、仕事の先行きだった。

ちょうど一回り上の直属の上司や、数個上の施設長の姿を見ていたら、数年後の自分が想像されたのだけれど、自分はあと数年後も、夜勤を続ける体力はないと思った。ましてや、上司や施設長のように、病欠の職員の穴埋めで、休日返上で夜勤シフトに入ったりしていたら、とてもじゃないけれど、体がもたない、そんなの無理だと思った。この仕事は、長くは続けられない、それは薄々というか、次第にはっきりと思うようになっていった。

また、職場の人の入れ替わりがとても激しかった。というか、自分が勤めていた2年間の間、辞める頃には、前述の施設長や上司も含め、自分より先に勤めていた正職員(合計で10人くらいだったか)は全員辞めてしまうという事態になっていた。

元々この仕事自体が入れ替わりの激しい、人の出入りの激しい職種だと思うのだけれど、小さな施設、法人の中でのこの離職率の高さや定着率の低さは、とくに、自分がいた2年間での運営体制の不安定さは激しかった。

人間関係や、人と接することに苦手意識があり、変化が苦手な自分にとっては、これも相当に厳しかった。

いい職員さんがどんどん辞めてしまう。仲が良かったり、頼りにしていた人が、どんどん職場を去っていく。ただでさえ、仕事のやりがいや、職業としての先行きに不安と悩みを抱えているのに、この職場環境の不安定さは、さらに不安と迷いを大きくした。

運営する法人への不満や不信もどんどん高まって行った。

そして、とどめは、信頼していた上司たちが去ることが決まった後の、のちに入ってきた施設長たちの介護方針ややり方だった。

新しい施設長たちのやり方が、どうしても自分には受け入れられなかった。そんなことはしたくないと思った。自分が、賛同して、今までやってきた、仕事としてやってきた、やり方、それまで見聞きしてきた、現場で感じたことを、180度ひっくり返すような、やり方に思えた。


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