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なぜ戦争が終わったのにもかかわらず日本のアニメ漫画には戦いのテーマが多いのか?

戦争が終わったにもかかわらず、日本のアニメや漫画における戦闘のテーマの多さについて考察する。ここで、日本の伝承や妖怪、悪霊の役割、そして西洋(特にアメリカ)の善と悪の観念との関連性を探ります。更に、キリスト教の影響や、日本のヒーロー物語がどのように自己生産を続けることが可能であるかを考察します。

[はじめに]

最近のアニメや漫画には、私は物語の構造にジレンマや矛盾を感じています。この現象は、戦後のアメリカの影響により、ヒーロー物語が取り入れられ、日本の文化と融合することで生じていると考えています。アメリカの典型的なヒーロー物語は、主人公の旅、使命や目標、スーパーパワー、チームワーク、内的な葛藤、そして最終的な勝利を含んでいます。これは、イギリスの開拓者たちにより形成され、貴族主義から解放された、土着文化を持たないアメリカが第二次世界大戦によって生み出したものだと思われます。そして、この物語は約80年の歳月を経て、日本独自に発展していった。

富野由悠季のガンダムを源流とするロボットものは、まだ第二次世界大戦の記憶が新しかった頃の影響を引いています。人型ロボットは戦車が変形した明確な兵器と考えることが可能で、ジオン軍という人間の敵軍が存在しています。また、ミリタリーものでなくても、明確にヒーローものと位置付けられ、明確な悪の組織が存在するものも、ヒーロー物語に当てはまります。

仮面ライダーシリーズは、世界征服を企てる悪の秘密結社・ショッカーが送り出す怪人たちを次々に倒していきます。他にもウルトラマン、ヤッターマン、科学忍者隊ガッチャマンなどが挙げられます。これらの系統はガンダムシリーズや、プリキュアシリーズ、ワンパンマン、僕のヒーローアカデミアなど現代でも語り継がれ、身体能力の高いものに変身して戦う変身を行ったりする。

そして、今日では日本の伝承の呪いや災いなど、直接の人間ではない現象や概念が怪物となるパターンもつくられていきました。

ただし、るろうに剣心、スパイファミリー、ナルト、HUNTER X HUNTER、ワンピース、フェアリーテイル、銀魂、デスノートなど生きている人間のグループを敵とする主流も存在し、絶対的なヒーローではなく異なるフォース(力)のぶつかり合いを描いていると見えるが、概念的な敵の形式から除外したいと思います。



[生きている人間が敵、と災いがベースの敵の違い]

たとえばプリキュアでは、一般人が日常生活の中で嫌な目に遭った時、あるいは道徳的に悪い行いをした時に起こる悲しい、羨ましい、怒りなどの負の感情が、敵グループによって怪物化されている。プリキュアが直接戦うのは敵軍団ではなくこのモンスターです。プリキュアは女児向けアニメであるため、不道徳なものを敵とする傾向があり、教訓的な色合いが強い。日本の道徳は儒教ベースであり、思いやりや礼儀、徳を積むことが求められます。モンスターは本物のモンスター的な生物ではなく、メタファー的なものである

呪術廻戦では、人の負のエネルギーが思い入れの強い場所や存在にたまることで呪われ、呪物という化け物が発生します。さらに、呪物を生み出す上級呪物のグループも存在しています。呪いとは、人または霊が悪意をもって災厄や不幸を与えようとする行為を指す。

炎炎ノ消防隊は人体自然発火「現象」によって全身が炎に包まれ変異し暴れ出すようになった焔ビトと呼ばれる怪物と戦います。焔ビトは人体発火によって人間が永遠に苦しみ続けている状態であり、魂を成仏させ、鎮魂するとき「ラートム」という言葉を唱える。

犬夜叉は、四魂の玉を巡り人間と妖怪が争っており、人間の主人公と半妖の犬夜叉が妖怪と戦います。妖怪は日本古来のアニミズムや八百万の神(やおよろずのかみ)から生まれ、人間の想像を超える超常現象である。

鬼滅の刃では、悲惨な死目に遭った人が鬼舞辻無惨に鬼に変えられることが多いです。鬼も妖怪の一種であり、決まった姿はなく、超科学的な力、おどろおどろしい気配を秘めた、得体の知れぬ恐ろしい化け物として知られています。



[キリスト教モチーフの災い的な敵]

他にも、キリスト教のサタンがモチーフの作品があり、悪魔は人間を罪や偽りに誘惑する存在です。つまり、日本の災い的な敵と親和性が高いが、妖怪は守護的な役割や幸運をもたらすものもいるのに対し、悪魔(ルシファー)はもう少し限定的である。

チェンソーマンではチェンソーの悪魔、支配の悪魔、戦争の悪魔など人が恐れるものが悪魔になっています。こ
れは宗教的、文化的な定義の災いよりはもっと解釈が自由で、トマトの悪魔や、正義の悪魔など、動植物や概念の名が混在して使われている。

他にも、青の祓魔師では、虚無界からくる悪魔が人間界に干渉し、エクソシストが悪魔を祓います。BLEACHでは死神代行となった黒崎一護が、人の魂を喰らう悪霊・虚(ホロウ)を退治します。

魔法少女まどか☆マギカの魔女は呪いから生まれる存在で、様々なモチーフがキメラ的に組み合わさった異形の姿をしています。アニメーションでも分かる通り、人形ではなくコラージュで独創的に描かれ、怪奇的です。魔女は、15世紀から17世紀にかけてヨーロッパで悪魔と契約を結んで得た力をもって災いをなす存在として考えられているため、ソウルジェムの穢れを祓うために戦う魔法少女とは対比的です。

例外もあります。進撃の巨人では、巨人の脊髄液が入った注射を打たれて巨人化したエルディア人です。これらは生きている生命体ですが、巨人にとってエレンたち人間への敵意を持って攻撃してくるというよりも、人間を捕食する生理現象といえ、それが人間にとっては脅威である。

また、宗教モチーフがない現代的な設定としてPSYCHO-PASSが挙げられ、人々の犯罪係数を超えると潜在犯として執行されるが、人々の心に潜む悪意を敵としている。しかし、ヴィランである槙島はいわゆるサイコパスで、悪意のない殺人を犯すことができ、執行をを免れてしまうというシステムの裏をかく存在である。



[妖怪や鬼は元来敵ではない]

概念的な敵は、お祓いすることで退散していきますが、それは一時的なもので、いつかまた人間の心から生まれるものです。そうすると、人間の敵を退場させると完全な平和が訪れ、お姫様または王子様と末長く幸せに暮らすというヨーロッパの童話的な帰結へ物語を終えることはできなくなります。主人公はヒーローとして永遠の戦いを続けなければならない。これがアメリカ的なもので、日本的なものを倒すことで生じるトラブルです。

この誤謬が生じるのは、日本の民間伝承が扱う災いは本来敵ではなく超常現象的なものであり、人々が恐れるものだからです。 日本には自然災害が多く、妖怪や災いが、超自然的な存在や現象として描かれることで、人々はそれらを恐れ、災害による悲劇を避けるようになります。これにより、危険や不可解な出来事に対する生存本能として機能し、日々備えたり注意深く行動させる役割を果たしてきました。

日本はアニミズム的な価値観を持っているとされ、アニミズムの信念では、人間だけでなく、植物、動物、山や川、星々など、自然界のあらゆるものに霊的なエネルギーや意識が存在すると考えられています。

民間伝承が敵ではないアニメシーンは例えば、平成たぬき合戦ぽんぽこでは、狸たちは具現化した百鬼夜行でニュータウンを襲う、妖怪大作戦を決行します。その際の妖怪の行進はパレード的であり、住民はそれに対して明確な敵意を示すというよりもまさに理解を超えて圧倒されています。

また、今敏監督のパプリカにもパレードのシーンがあり、DCミニによって共有された人々の夢が現実世界に侵食し、夢と現実が混じり合い、街中で宗教的なものや冷蔵庫、自転車など様々なものがパレードに参加していきます。

攻殻機動隊2 イノセンスの冒頭では、近未来的な日本で、像や龍、豚や山羊、カエルや宝船、如来などアジアのさまざまな信仰物がミックスしたパレードが、傀儡歌という民謡的な歌い方の曲とともに描かれます。電脳化やサイボーグ技術が普及している世界設定と、伝統的な信仰は遠く離れているように見えますが、草薙素子のように脳だけのパーツが人間の、傀儡(人形)のような存在も、まだ人間である。サイボーグと電脳世界の人間を、アニミズムという信仰によって、従来の人間から離れた人間を守る、人間世界に留めるという働きを担っているように思います。

また、もう少しコミカルな例ではさらまんざいという、突如現れた謎のカッパ型生命体“ケッピ”に尻子玉を奪われてカッパに変身させられてしまう男子中学生を描いたものがある。

ゲゲゲの鬼太郎では、墓場から生まれた幽霊族の少年・鬼太郎が目玉親父や、猫娘などの多種多様な妖怪たちと野球をしたり日常的な物語が繰り広げられる。

アニメ漫画の文脈を抜きにして現実的に妖怪について考えた場合、私たち日本人には元来超常現象にそれほど敵対的なイメージはありません。言うなればモンスターズインクのサリーとマイクのような、見た目は奇妙で怖がらせてくるが、人間と共存できる存在である。



[アメリカ的なもので日本的なものを倒すことの不協和]

戦争のない平和な社会では、外国を敵とする物語は差別的な表現であり、違和感を引き起こします。そのためもっと架空の敵を創り出さなければならない。日本では妖怪や呪われた霊、あるいはキリスト教の災いをもたらす悪魔や、自然の脅威などを悪や敵として描き、それらを打ち破ることで平和を保とうとするのです。この時の必殺技や魔法、剣を振るうという行為は、お祓いのメタファーと考えられる。

このようなアプローチは、日本のモチーフがアメリカの文化を取り入れた現代的な日本によって、アダプテーション(受容)、再伝承する行為であると考えられます。しかし同時に、日本文化がますますアメリカ文化に侵食されているようにも見える。

なぜなら、敵として扱うか、恐ろしい存在なので共存するかというのは対立する考え方だからだ。例えば、「桃太郎」の物語では鬼と直接対決し、退治していますが、鬼は道徳的に悪い存在や縁起の悪いものというメタファーであり、「生物」ではない。鬼は二月の豆まきにも登場し、鬼は外、福は内というが、鬼は邪気に対する思考対象である。敵視するということは、その対象を憎み、否定し、攻撃したり排斥したりすることで、しばしば偏見や差別、争いや紛争の原因となる。鬼はむしろその反対で、浄化することで心身の健康や幸福を追求するために使われるため、敵視とは心理状態が違う。

日本的な災いを敵にするとヒーロー物語を永遠に創造し続けることができる。災いとは困難であり、人生から困難を完全に排除することはできない。しかしこの手法では、「ハッピーエンド」によって完全な平和が訪れることはない。アメリカ的なヒーローは、エンディングでようやく幸せになれることを目的にしているが、日本的なものを敵にすることで、信じ難いほどの文化的な矛盾を抱えてしまっている。

このジレンマは、戦い続けなければならないという歯車を回してしまう。そのため、戦うことや倒すことといった概念を見直す必要があり、共存する心を今一度思い出すことが重要だと感じる。



[ジレンマの例とその対処法 1]

知名度は前述に挙げたものより低いが、少年サンデーで連載されていたマギという作品の終盤にかけて、最もこのジレンマに直面したと考えている。マギでは、アラジンの魔法のランプという、千夜一夜物語を基軸としており、ランプのような魔人が眠る特別な金属器が隠されている迷宮がいくつもある。

金属器を手に入れるには巨大な魔人に王の器として認められなければならない。しかし、迷宮をクリアした王の器が何人も存在するため、一体誰が最も理想の王なのかという命題を序盤で提示している。

しかし、最終的に作者はこの命題に終着点をつけることができなかった。終盤で、最も王の器に近いとされたシンドバッドというキャラクターは、さらに神になろうとしたが、過去の世界より復活した特異な魔法使いも神になろうと企んでおり、さらに現在の世界を見守る聖宮の魔人も神になろうとするというカオスが発生した。

神となったものをさらに支配できる神になったものをさらに上から司る神へ...という終わりなきマトリョーシカ状態となり、世界は混沌の極みを尽くし、主人公たちはこの世界の秩序であるシステムを全て破壊することで、世界を崩壊させた。そして大地は再創造され、またゼロからやり直すということで幕を閉じるのだが...

破壊と再生とはヒンドゥー教的な考え方であり、インドの3大神、創造の神ブラフマー、維持の神ヴィシュヌ、破壊の神シヴァ、この三つがバランスをとること(トリニティ)は、宇宙の秩序というよりも、全ての生物がそこに依存せざるをえない力強く、慈悲深いエネルギーの流れなのである。

このような方法でアメリカ的なヒーローで日本的な土着信仰を敵とすることのジレンマを解決することもできるが、外国文化である上に、日本人から理解が得られる方法とは言い難い。


[ジレンマの例とその対処法 2]

もう一つの例は、新海誠監督の雀の戸締りであるが、彼は比較的日本文化を正しく扱っている。「君の名は。」では、東日本大震災を彷彿とさせる地震によって島の住民が主人公の三葉を含めて大量に犠牲になるという災害が発生しており、滝と三葉は過去と体を入れ替え、口噛み酒という神道的な儀式をすることで地震を未然に防いだ。

また雀の戸締りでは、ミミズという地震を起こす災いを戸締りする閉じ師が存在するが、ミミズはかなり抽象的で輪郭がぼやけた形をしており、開けられたドアに鍵をかけて一時的に封印する。私はこれはかなり西洋オーディエンスにも日本的な「敵」の概念がわかるように説明してあるなと感じたのだが、ミミズは地震という災い、現象であり、地震は一時的なものである。またドアは西洋的なものだが、開け閉めは一時的なものだ。倒すまで永久に闇を支配する悪の城のような恒久的な「敵」ではない。

新海誠は神道と東日本大震災を強くパーソナルテーマにしており、これは日本オーディエンスにかなりウケていると感じているが、少年漫画では自然災害を供養して回る物語はあまり見ることはない。なぜウケているかというと、日本のアイデンティティである天皇に親和しているからだ。

天皇は神道の信仰体系において「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」の直系の子孫とされ、天皇は神格化されている。天皇は神道の儀式や祭りに参加するため、このような「戸締り」は天皇的な行為であり、それを賛美している。天皇制は2019年の調査で約70%が支持しているため、新海誠の作品は日本の伝統的アイデンティティを再帰させていると言える。

一時的なものであり、そして必然的な存在であるため、それを供養することで和解できるのだ。彼らを倒すことではなく、共存することが求められる。異なる文化は混ざり合うこともあるが、必ずしも精神性は融合するわけではない。この解釈において、日本的な要素とアメリカ的な要素は一致しないのだ。

しかし、神道ベースでは主人公たちは敵と戦うことはないため、今まで戦いものに慣れている視聴者にとっては面白くない、インパクトに欠けると感じるかもしれない。

また、日本には経済低迷や少子高齢化という自然災害よりも重大で差し迫った問題があるため、こうした自然災害を封印しても問題はまだそこにあり、あまり共感することができない。主人公は東日本大震災で母を失っており、小さい頃の自分にタイムスリップした時、生きていればあなたはちゃんと大人になってくの、大丈夫!という抽象的な励ましをしていたのだが、今までドアを閉めるという最も現実的なことをして問題解決をしていたのに、急にフワッとした感が否めない。きっと未来は良くなるという希望を信じる「神話」が今も通じるとは思えない。



[新しいタイプの主人公の希求]

日本の作品には、現実的な問題に立ち向かうための心構えや具体的なアドバイスが欠けていると感じています。日本の漫画アニメのエンターテイメントの、現実逃避性は凄まじい。

今最も量産されている「なろう系」の物語は、現実世界でうまくいかない主人公が死んだ後、中世ヨーロッパ的ドラクエ的な世界観に異世界転生し、勇者として生まれ変わり、いろんな可愛い女の子のハーレムを築き、魔王を倒してヒーローになるというものだ。

これは日本の男性たちが実際に長時間労働や低い給料などの勤務形態の問題や、不満や悩みやつらい気持ちを受け止め、耳を傾けてくれる人がいない、期待された男らしさによって弱みを見せることができないというジェンダー問題に直面していることの現実逃避であると考える。

一時的な快楽で、リフレッシュしてまた現実へ帰るというエンタメと仕事のルーティンも、もう日本だと厳しい。

現在の社会問題や政治の機能不全に対処するためには、仲介者的な主人公の登場が必要だと考える。彼らは対立する当事者の間に入り、コミュニケーションや交渉を通じて問題解決や和解を促進する役割を果たします。

仲介者的な主人公の存在は、敵対する人々を話術や説得力で和解させることを描いた作品で見ることができます。彼らは武力で戦う前に対話や交渉を試み、相手の問題に対して新たなアイデアや解決策を生み出す商才を持っています。

つまりヒーローものでは、敵対する二つの人々を話術や説得によって和解させるということだ。これを行ったのが、マギのアリババという主人公なのだが、彼は自国で反乱が起きた時に、王宮に乗り込んでかなり無理のある交渉をするのだが、それまでは王宮に乗り込むまでに敵と武力で戦っており、敵と話し合いをするために戦うという図式がとても新鮮だった。そして彼の説得はとても胸が熱くなるものだった。

彼はその後も価値観の異なる王の器と幾度となく対峙するが、その都度対話を図っており、相手の問題に対して新しいアイデアを生み出す商才があった。

日本の物語には、このようなデザイナーやアイデアマン、営業マン、商売者タイプの主人公が必要だと考えています。彼らが現実の問題に向き合い、新たなアプローチや解決策を提案することで、社会の変革や問題解決への糸口や、イメージを与えることができるだろう。

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