見出し画像

【正欲】~「理解する」というエゴ~

「生きるために必死だった道のりを、有り得ないって簡単に片付けられたこと、ありますか?」

ガッキーこと新垣結衣が放つ台詞。この台詞が映画館の予告で流れた際に、息をするのを忘れるほどに惹きつけられた。この映画は「絶対に見なければならない」そう思わされた。そして、やっぱり、見て良かった。本当に良かった。今年ベストの映画だった。

▼これがその予告


1.何であくまで自分は理解する側だと思ってるんだよ。

これは自分自身ドキッとした台詞だった。本作では、「ダイバーシティをテーマにしたイベント」が行われるシーンがあった。
その中で、

「「多様性」の時代なんで、こういう演出良いと思うんですよ~」
「私、そういうの全然気にしないので、理解あります」

のような台詞がニュアンスだが、散見された。

結婚式でも「もしかして、同性が好きだったりする?」と自分は全然そういうの気にしないからという体で、水にしか性的な好意を抱けない佐々木佳道(磯村勇人)に質問する同級生の女性。無生物に性愛感情を抱く人物に「同性が好きでも私気にしないよ〜」というのはあまりにも残酷である。あくまで、佐々木佳道(磯村勇人)は彼らにとって想像範囲外の人なのだ。

「何で、自分はあくまで理解する側だと思ってるんだよ。あんたには想像できないような人間がこの世にはたくさんいるんだよ」

それらのシーンを見て、「多様性を認める/理解する」という言葉がどれだけ暴力的か、マジョリティのエゴにすぎないということしみじみと実感させられた。「多様性を認める」「理解する」「私は気にしない」という言葉を言えるのはマジョリティの特権だと思う。そして、その言葉の根底には、"私たち"は普通の人間で"あの人”たちは普通じゃなくて可哀想だから、理解してあげようという、無意識的な上から下に見る感情がある。そして、「理解する側」と「理解される側」で線を引いている。

これはまさに、「多様性」という言葉が浸透したからこそ、新たに世の中で生まれている社会の歪のような気がする。「多様性」を浸透させるという問題のフェーズの次段階である「多様性」という言葉だけが浸透した先に生じた無意識的な問題をありありと描いたこの作品は、どの社会派作品よりも一つ先を歩いているような気がした。

その点に関して、この作品は、無理に「理解させよう」「分からせよう」というエゴを観客に強要していなかった。理解する側、理解される側と線を引くのではなく、ただ必死に生きている「人間」の姿を「平等に」真摯に描いた作品だった。稲垣吾郎演じる「マジョリティ」側も新垣結衣演じる「マイノリティ」側の思いもすべてフラットに描いている。(ここでは便宜上、マジョリティとマイノリティと分けていますが、、、すいません。ちょっと感想書くの難しいこれ、、、)

だからこそ、観客は誰の思いに「痛み」を感じるか、自分はどの思いに共鳴し、どの思いに拒絶するかで、リトマス試験紙のように自分の内にある価値観をありありと突き付けられるのだと思う。

2.「普通」に「擬態」する

普通に"擬態する"という台詞。桐生夏月(新垣結衣)と佐々木佳道(磯村勇人)の2人は外側だけでも「普通」を演じるために「結婚関係」になる。そして、擬態した2人は、1人で様々な周囲からのプレッシャーに晒されていた頃よりも心穏やかな表情になる。


私(筆者)自身、「この世の中では、みんなが”幸せ”と思う流れに、自分の意志に反してでも、乗っといた方が色々質問されなくて楽なんじゃないか」と思い悩んだことがある。世間一般的には恋愛して家庭を持って子供を育てて、、が"当たり前の幸せ"だという認識はまだまだある。

特に、私(筆者)のような20代前半の女性だと、「好意を持つ相手がいない」「恋人がいない」というだけで、「なんで?」「同性が好きなの?」とかはよく聞かれる。自分自身、そう聞かれることを特に苦痛とは思わず「また聞かれた~」くらいの感覚でいたが、やはり「世間の普通」から外れると、周りからは「なぜ?」と疑問に思われるのだ。そうなると「普通」に「擬態」していた方が断然、生きやすい。

私(筆者)自身、自分は恋愛感情を誰にも抱かないのではないかと漠然と感じていたことはあるが、幼い頃は恋していたし、異性のアイドルを推すという感情は抱く。その点で自分は一体何者なのだろうと、ずっと「どこにも属していない」という意識があった。だからこそ、「普通」に「擬態」することが、名前のあるわかりやすい場所に所属できるという意味で安心できるような気がした。この物語の2人も世間から認められる「夫婦」という名前のある場所に所属することで安心感を抱いたのではないかと思う。

「普通に擬態する」

この台詞は、自分の体験も相まり、頭に残る言葉だった。

「お正月って人生の通信簿みたい」

ちなみに、この台詞も「あ~わかる」となった。私自身、自分からどこか人と線を引いてしまうところがあるのだが、その癖に、年末年始、テレビで「家族」とほのぼのしているような描写を見たりすると、1人でいるのが寂しい。この矛盾した感情すごくわかる。そういった感情をこの台詞で表現したのがとても素晴らしかった。

3.「死んだように生きている」新垣結衣の演技

本作、台詞の応酬、台詞の繋がり、群像劇のまとめ方、演出、音楽と全て良かったのだが、やはり1番良かったのは「新垣結衣」の目の演技だと思う。
死んだように生きている人の目の表現が素晴らしかった。この世を憎んでいて、自分には居場所がないと諦めている人の目をしていた。
最後の稲垣吾郎と対峙するシーンも、言葉だけでなく「目」の力で物語っていた。

4.普通のことです。いなくならないって。

色々、あったけれど、結局私はこの言葉に救われた。

「いなくならない」


これこそ"普通"のようで"普通"ではないことなのかもしれない。共に人生を歩む相棒が「いなくならない」ということ。当たり前のようだけれど、そういう人がいてくれるって本当に軌跡であるし、幸せなことなのだと思う。

きっと私たちにも、自分と共に必死に人生を生きてくれるような人は「いなくならない」と信じたい。

この記事が参加している募集

スキしてみて

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?