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意味のない言葉と文字 / 意味のある言葉と文字(1)

 創作活動と共に、仕事としてグラフィックデザインをしている。創作活動でも、グラフィックデザインでも、どちらも「言葉と文字」を主に扱っているのだが、グラフィックデザインと創作活動では、扱う「言葉と文字」の性質が大きく異なっている。

 簡単に言えば、創作では「意味のない言葉と文字」を、デザインでは「意味のある言葉と文字」を扱っている。通常は、「言葉と文字」には必然的に意味があるのだが。今回はその辺りのことについて綴ってみたいと思う。

 僕は創作活動で、主に「詩」をつくり、「絵」を描いている。

 これまでの記事でも書いたことになるが、「詩」とは意味からすれば、無意味側にある言葉である。詩は意味を伝達する種類の言葉ではない。詩は、意味を伝えるための言葉として働くのではなく、いわば身体を啓くひとつの装置としての言葉となる。特にエクリチュール(文字)で書かれた詩とは、ひとつの物質的な彫刻作品のようなものであり、良い詩は読むことで身体感覚を変容させる力を持っている。これは明らかに意味と呼ばれるものを超えて働く。意味は、恐らく消費されるのだが、詩は、無意味に滞空して持続する。

 また、僕は絵も描くのだが、その絵の主題も、詩とエクリチュール(文字)であり、言語をとりまく問題を絵画作品として扱っている。例えば、Still Poetryというシリーズでは、音響詩と共にそれを表す意味のない文字を創作して絵にしている。

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 Still Poetryは、ダダイズムのフーゴ・バルやトリスタン・ツァラ、また一方で、具体美術の元永定正さんへの賛歌としての作品でもある。美術史においては、マルセル・デュシャンの便器が象徴的ななダダイズムだが、意味を排除した「詩」からその運動が始まっていて、例えば、フーゴ・バルのガジベリビンバ(Gadji beri bimba)は比較的に有名かと思う。ガジベリビンバは、無意味な音の響きで、ひとつの詩を成立させている作品だ。また、ダダの創始者のツァラの詩について言えば、彼の詩は、意味を排しつつ、無意味なままに美が宿っている。ツァラの詩は一読するに意味不明に思えるだろうが、意味のないままに、神経症の中に漂う美的な酩酊と言おうか、そういう危うさのある蠱惑的なものが閉じられている。意味ではないものが封入された美的な言葉の綴り。Still Poetryの意味のない音響詩という試みは、このようにダダから引用している。

 元永定正さんについては、詩人と共にオノマトペを、造形化していたり、とりわけ「ちんろろきしし」という本では、自身の原始的とも言える音響言語と、併せて絵画表現を行なっており、僕の制作しているStill Poetryシリーズはこの影響下にある。元永さんの表現には、幼少の頃に絵本で出会い、造形感覚に強い影響を受けていて、模倣、悪く言えばパクリとなることを恐れていたのだけれど、最近、自分なりの絵画詩という、意味のない文字をつくる試みとして、どうしても避けては通れないと思い、明らかな影響を覚悟で、Still Poetryシリーズを始めた。

 Still Poetryとは静かな詩、静物としての詩、意味を語らない詩である。意味を語らないが、しかし何かを大きく内包しているような詩を描きたい。そういう言葉と文字を創りたくてこのシリーズを作り始めている。とりわけ、自分なりの無意味なエクリチュール(文字)を生成しているというところに力点があり、模倣ではなくオマージュとしての作品シリーズとして成立しているのではないかと個人的には思っている。

 しかし、無意味な音響詩と文字といっているが、個人的な偏愛性とこだわりに基づいたメタ的な意味が封入されてはいる。依然として全く拙いのだけれど、日々、英語と仏語の勉強をしていることもあり、そのあたりの言語感覚と母国語の日本語を混ぜ込んで、微かな意味を帯びつつ無意味な言葉を生成している。たとえば、「めぱほ」は「mes parents(わたしの両親)」という仏語から引いている。意味を超えたメタ的な意味、抽象度の高い、本質性のある感触や感覚みたいなものを形態化している。ツァラの詩のように意味ではないものが豊かに封入された詩と文字を意図して。

 ※絵を描くなら、絵の独立した可能性を模索するべきだと本当のところでは解っているのだが、僕は絶えず言語の問題に関心があり、結局、文字を絵画化する試みをしている。東洋人として、漢字という現存する表意文字が生成された原初のところを自分なりに現したいのかもしれない。絵画的な記号性と、文字・テクストの不可思議さと、また、テクストの社会的な拘束性とそこからの遁走みたいなところに、どうにも関心が向いているのだと思う。

 また「皮 surface - signifiant」というバナナの皮を描くシリーズも展開しているのだが、こちらも言語の意味と無意味の問題を比喩的に扱っている。こちらについては、また別の記事で綴ってみたいと思っている。

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 ここまで語ったように、無意味とは=無価値でなく、無意味にこそ僕は大きな価値をみている。正確には、ぼくは無意味に「成立」するものに強い価値を抱く。無意味だけれど「成立」しているもの、そこに立ち上がる「何か」が重要なのだ。この「無意味に成立」するというのがとても大事だ。無意味だからなんでもいいというわけではない。「成立」があるもの、そこに眼を向けている。

 このように創作活動では無意味である言葉と文字に強い価値を見出している。これに対して、仕事で行なっているグラフィックデザインはどうかと言えば、こちらは決定的に「意味のある言葉と文字」寄りになる。


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 たとえば、ロゴマークのデザインでは、クライアントの要望に寄り添って、ロゴタイプ(文字)を単独か、もしくはロゴタイプに合わせてシンボルマークを制作する。(ロゴタイプとシンボルマークを併せて、ロゴマークと呼ばれるが、ロゴマークというのは和製英語らしい。)上の図でいえば、「おうるび」がロゴタイプで、「ふくろう」がシンボルマークにあたる。(※「おうるび」は栃木県栃木市嘉右衛門町に昨年オープンした、着物のレンタルと着付けのお店である。)

 また、ロゴマークを設計するに当たって、商品やサービス、企業などの世界観を視覚的に設計し総合的に構築したものをVI(ヴィジュアル・アイデンティティ)と呼ぶが、これらは、明確に「伝達」の役割をもった文字と記号・図像である。VIでは、商品やサービス、企業というひとつの人格と、それに相応しい顔を形成する。

 このように、グラフィックデザインは、主に、ヴィジュアル・コミュニケーション、視覚的な情報伝達とコミュニケーションを図るもので、意図したものを意図通りに、もしくは意図以上により深く、好ましく受け手に伝えることを目指すものと言えるだろう。つまり、ここにおいて、文字や図像は、無意味ではなく、明確に、直接的な意味を持ち伝達される。

 しかし、創作における詩に比べれば、デザインにおける言葉や文字、ロゴデザインというのは、「意味のある言葉や文字」と言えるだろうが、ロゴマークが、受け手の心象に魅惑的に立ち上がるその時、それを成立させているのは、言うなれば無意味の領域、言うなれば非言語の「美」という、それは全く意味的でないものであり、結局、「美」という無意味が、その実、その生命に関わっている。

 混乱させるようだが、伝えるべき意味を意味らしくより自然に深く伝えるには、無意味の美の設計、非言語の美の設計が肝要になる。意味や意図を深く伝えるためには、説明的では、決して好ましく伝わらないのだ。

 長文になってきたので、「意味のある言葉と文字」と無意味さとの関係、すなわちデザインにおける意味と無意味について、詳しくは、次回の記事で綴っていきたいと思う。

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