幼女VS痴女

 やばいことになった。まじでやばい。生まれてこのかた十一年、こんなにやばいことはない。塾の帰りだった。夜九時に外なんて歩くんじゃなかった。家まで歩いてすぐだからって、スマホ見ながら歩いているべきじゃなかった……この世は残酷なんだ。大好きなゾンビ映画から、わたしはなにも学ばなかったということか。阿呆め。馬鹿め。

 家まであと一分のところだった。いつもの通り、裏通りを選んで近道していたら、急に体がぐわんと揺れた。着ていた薄いパーカーが引っ張られて、そのあと、誰かにがっちりと腕を回された。口もハンカチで塞がれた。

 あ。やばい。これ、やばい。

 変質者だ。
 

 死んじゃうやつだ。もう二度と家に帰れないやつだ。
 

 ウォーキング・デッドの続編もみれないし、デッド・ライジングの続編も(あるかどうか知らないけど)プレイできない(というか本当は十一歳はプレイしちゃいけない)。いつか念願の一人暮らしが叶ったあかつきには、部屋中にゾンビ映画のポスターを飾って、そのまんなかで擬似世界終焉ごっこをして絶頂する予定だったのに。

 ……いや、待て。本当にわたしは、ゾンビものからなにも学ばなかったのか? あるじゃないか、ひとつだけゾンビから学ぶべきことが。彼らはなにができる? 歩くのは遅い(早いのもうじゃうじゃいるけど)し、思考は鈍いし、片っ端から未納税者だ。

 けれど、ひとつだけ美点がある。
 

 彼らに学ぶべきこと……それは、彼らに唯一残された可能性だ。考える前に、やれ! やるんだわたし! ジャスト・ドゥー・イット!
 噛みつけ!!

「ぐあぁああっあああぁ!」

 ハンカチ越しに、乳歯と永久歯の入り混じった歯列を指に突き立てる。期待通りの効果だ。変質者は野太い悲鳴とともに私を放り投げた。道端の空き缶の群れに体が落ちる。痛い。けっこう痛い。けれど止まっちゃダメ。この程度でゾンビは行動不能にならない。

「くっそ……このクソガキ……」

 男はこちらを睨みつけて近づいてくる。
 喉を固い唾が通り過ぎる。
 さあ、どうだ。
 ゾンビならこのあと、どうする?
 愛するゾンビさん、教えてください。

(……噛め)

 内なるゾンビさんの囁きに従い、わたしはまた男に喰いかかった。それが果たして正しい決断だったのかどうかはわからない。ていうかそもそも、内なるゾンビさんってなんなのかも、正直なところわからない。

「ガキのくせに、ふざけんな!」

 結果は不正解だった。男の腕に弾き飛ばされ、わたしの体はまた空き缶どもの上に戻った。痛みも戻った。シャレにならない。こちとら十一歳だぞ。どうしてこんな痛い目に合わなきゃならないんだ? 学校の友達にゾンビ映画を勧めまくったからだろうか? それとも、みんなが読んでいる「ちゃお」とか「りぼん」を真似して「はらわた」っていう雑誌を自作してクラスのみんなに無理やり回覧させたからだろうか?

 あれは傑作だった。なんたって、最初から最後までゾンビ映画とゾンビゲームのレビューしか載っていないのだ。写真付き。けど、その次の日からインフルエンザがクラスで流行り出したのはわたしのせいじゃない。インフルエンザめ。あの日からわたしのあだ名はウェスカーだ……。


「おとなしくしてろよ……」


 男が両手をこちらへ伸ばして近づいてくる。動けない。恐怖の感情がじわじわとせりあがってくる。大声を出したいという欲求に、なにも考えたくないという恐怖が勝ってしまっている。手が、肩に触れる。もうだめだ。さよなら、ノーマン・リーダス……死ぬ前にあなたとゾンビの効率的な殺し方について語り合いたかったよ……。

「――そこまでよ!」


 目の前が急に明るくなった。ひとすじの光が、座り込んだ私の膝小僧と、その上にある男の顔を照らし出した。光のほうを見る。まぶしい。誰かが裏通りの入り口に立ってこちらへ懐中電灯を差し向けているのは分かるのだけど、それが誰なのかまではわからない。


「ちっ」

 男は舌打ちを残して、すぐさま駆け出し、路地から消えた。一瞬のできごとで状況が飲み込めない。落ちていたスマートフォンを見ると、時計は一分しか進んでいなかった。

「大丈夫? あんずちゃん」
「あ、はい、大丈夫です」

 女性の声だった。肩の力が抜けていくのがわかる。わたしは名前を呼ばれたことで安堵し、まだ懐中電灯の光の向こう側にいる誰かの伸ばしてきた手につかまって立った。

「危ないところだったわね……夜中はああいう輩がいるから気をつけて。とりあえず家に着いたら、ご両親は心配するだろうけど、あったことは全部話して。それから警察に電話すること。いろいろと嫌なこともあるかもしれないけど、ちゃんと、正直にぜんぶ話してね。あなたを守るためでもあるから」
「……あ、はい。助けて下さって、ありがとうございます」
「いいのよ、お礼なんて。私とあんずちゃんの仲じゃない」

 そうか。そういうものかもしれない。ゾンビものでも、仲間同士は助け合うし、いちいち丁寧にお礼を言い合ったりもしない。

 仲間って、いいものだな。
 でも、ちゃんと顔を見てお礼をいいたい。
 なにせ、殺されるか、もっとひどいことだってあったかもしれないのだから。

「でも、死んじゃうところでしたから……ちゃんとお礼をいわせてください」
「もう、いいっていいって! みずくさいなあ」

 彼女は大人びた声で笑った。わたしを安心させるためだろう、両肩に手を置いて、撫でるようにしてくれた。やさしい人だ。こんなにやさしい人なら、すぐに誰なのか思い出せそうなものだけど……どうしてだろう?

「あの、本当にありがとうござい……まし……た」

 下げていた頭を上げる。
 懐中電灯の光はもうない。
 彼女の顔がはっきりと見える。

 ……?
 ………??
 ……………え?
 …………え?
 ……だれ? 


 ……この女の人、誰?

「……え? 誰?」
「もーあんずちゃん、私のこと知らないの?」
「ごめ、んな、さい……知りません」
「そりゃそうよ! 私があなたを一方的に知ってるだけだもの!」
「……ん? んん? それってどういう」
ストーカーよ。ストーカー


 はっきりということはいいことだって、先生がいってた。
 でもこれはたぶん、だめなやつだ。
 逃げなきゃ、だめなやつだ

「ごめんなさい失礼します」
「あ、待ってよあんずちゃん」


 習ったばかりのスタンディングスタートで走り出そうとしたが、がっしりと腕を掴まれる。今日はよく拘束される日だなあ、と頭の隅で思った。

「花宮あんずちゃん」
「フルネームで呼ばないでください! 知らない人にフルネームで呼ばれるの、めちゃくちゃこわいです! ほら、鳥肌立ってます!」
「五年四組、花宮あんずちゃん」
「クラスまで……!」

 怖気がやってくる。さっきの変質者の比じゃない。さっきのが命的な恐怖なら、今のは精神的な恐怖だ。わたしの存在がおびやかされている。

「しゅ、出席番号は……?」
「じゅうよ」
「わかりました。いわないでいいです」
「うん、わかったわ」
「それから、これ以上なにかしたら、噛みます」

 それはちょっとした威嚇のつもりだったが、変態女はむしろ頬を真っ赤にして、にやにやしだした。瞳孔が開いているのに、唇はめいっぱい横に伸びている。口だけが笑っている。

「ゾンビが好きなんだものねえ。そりゃ噛むわよねえ……カワイイ……」
「どうして、ゾンビものが好きなことを……?」
「え、だって、ほら」

 女はすんなりと手を離し、同じ手で大きめのコートのポケットからスマートフォンを取り出した。画像ギャラリーを開くと、そこにはわたしがたくさんいた。

「……なに……これ……」

 たくさん。
 たくさんたくさんたくさんたくさんたくさんいる。
 わたしが。
 登校中のわたしも学校のわたしも水着のわたしも体操着のわたしも塾でうたたねするわたしも……映画館に入っていくわたしも。
 たくさんたくさんたくさんたくさんたくさんたくさんたくさんたくさんたくさん。
 たくさんたくさんたくさんたくさんたくさんたくさんたくさんたくさんいた。
 画像フォルダをうめつくしていた。
 わたしが。
 わたしの写真が。
 たくさん……。

「ォェッ」

 吐きそうになるのを必死でこらえた。うずくまる。気持ちが悪い。さっきの男以上に気持ちが悪い。恐怖を通り越した気持ち悪さだ。みあげると、変態ストーカー盗撮女はにやにやとした気味の悪い笑みを続けていた。

「あは……きれい……苦しそうにしているの、レアぁ……」

 やばい。
 やばいことになった。
 こんなことってあるのか。
 一日に二回も、変質者に遭遇するなんて。

「泣きそうになってるの、お母さんに犬の散歩のことで叱られて家を飛び出したとき以来よねぇ……アハ……かわいい……やっぱりあんずちゃん、最高よぉ……ハァハァ」

 息が荒くなってきた。
 何をされるか分からない。
 体が動かない。
 教えてください、内なるノーマン・リーダス。
 こういうときは、どうすればいいんですか。

(殴れ!)

「はい! そうします!」
「おっと」

 わたしのアッパーカットを避けると、女は腕をつかんだ。

「ようやく触れた……きれいな二の腕……つやつや……」
「ヒッ」


 あわてて手を引く。もうやだ。家に帰りたい。どうしてこんなこんなことになってしまったのだろう。泣きたい。

「ねえ、あんずちゃん……」

 女はじりじりと距離を詰めてくる。
 逃げ出すことはたやすいはずなのに、足が動かない。

「ハァハァ……お願いがあるん、だけど、いいかな……?」

 私の耳元に唇を差し込むと、女はいった。

「髪の毛一本、くれない……?」

 わたしはすぐに、二つ結びにしている髪の毛をまさぐった。手櫛でひっぱると、一本長めのがある。おそるおそる差し出すと、女はまるで神様の降臨でも見るように目を見開き、ついでに口もだらしなくひらき、そこから涎を犬のようにぼたぼたと落としていた。

「いいの……? ねえ、いいの……?」
「……はい」
「……ウェイヒ、イヒ、ィイヒ……」

 気持ちの悪い引き笑い選手権を開いたら堂々の一位入賞確定の笑いだった。


「ありがとう、あんずちゃん……大切にするね……ね……」
「もう……いいから、帰って……」
「うん、もう帰る……帰るわよ……ヒヒ」

 コートの前ボタンを開き、内ポケットにしまうと、またボタンを締める。
 見間違いだろうか、とも思ったが、そうではない。
 女は裸だった。
 コートの下には、なにも身に着けていない。
 上着も、ズボンも、もちろん……下着も。
 生まれたままの姿だった。

「ち」
「え?」
「痴女だーーーーーーー!!」

 ようやく出た大声はそんなことばだった。女は颯爽と裏通りから姿を消し、私は女の印象を忘れないうちに家に駆けこむと、すぐさま受話器を取って警察に電話した。親の助けなんかいらない。私の手で、あの変態ストーカー盗撮痴女を、この地上から葬り去らなくてはいけない。あれは恐怖だ。そして脅威だ。あんなのが堂々と呼吸をしていたら、困る。おちおちトイレにもいけない。


「もしもし、警察ですか」

 わたしはすぐにいった。

「痴女が出ました。すぐに来てください」

  *

 警察の行動は早かった。電話のあと、一分もしないで駆け付けてくれたのだ。
 変態であること、腕をつかまれたことなどを伝えると、一晩のあいだに聞き込みをし、周囲の監視カメラも調べ上げ、日付が変わるまでには捕えてくれた。


「もう大丈夫ですよ、安心してくださいね」

 深夜に玄関先でおまわりさんからそう聞いた時は、その場で崩れそうになった。「一応、また朝方写真を持ってくるので、それまでは家から出ないでください。念のため、警官を家の前で待機させますので」と付け加えられ、もちろん、と心のなかで強くうなずいた。


「あんず……大変だったな……お前が無事で本当に良かった……うぅ……」
「パパ、今日はそっとしておいてあげましょう……」
「ああ、そうだなママ……」
「でも、本当によかった……」

 安堵感と、幸福感。ベッドに戻ると、涙を流すパパとママに抱きしめられて、眠りに沈んでいった。ふたりは最初から最後まで、わたしのことを心配して、やつれるほどだったのだ。それがちょっとゾンビみたいだった。
 私は平穏な世界に戻ってきたことを感謝した。
 あたたかいベッドの上で目覚める。
 平和とは、なんとすばらしいことか。

「おはようございます、昨日の件ですが……」

 日本の警察はなんて優秀なんだろう。翌朝すぐに写真を届けに来てくれた。パパとママは「そんなの見せないでくれ!」「うちの子は傷ついているんですよ!」とヒステリックに叫んだけど、私からすればその写真は、あの女の首そのものだった。いわば首級である。狩ったゾンビの頭をキャンプの周囲に飾り付けるみたいなものである。戦勝記念。私は頬がにやけるのをおさえつつ、おまわりさんから写真を受け取った。
 ……ああ、しかし、なんということだろう。
 こんなことって、ある?
 おかしい、こんなの、あっちゃいけないことだ……。
 たとえるなら、ゾンビだと思って殺したのが人間だったみたいな……。

「こ、これ……」
「……どうしました?」

 そこに写っていたのは、男だった

 たしかに、こいつだ。私を締め付けて、ついでに殴った。
 でも、ちがう。

 こいつじゃない。私の敵はあの痴女なんだ……!

 話を聞くと、この男は腕から血を流して公園にいたところ、警官に事情聴取を受けたという。しかし、すぐに自分のやったことを白状し、大人しくお縄についたという……ちがうんだよ! おまえなんかあの痴女に比べりゃ雑魚なんだよ! 

「こ、このひと……」

 いいかけたところで、両親の目線に気付く。
 わたしがここで「この人じゃありません」なんていえば、パパとママはまた心労になって、本当にゾンビになってしまうそれは見てみたいけどそれは今はどうでもよくて、それだけはいやだ。
 しかし、ここでわたしがいわなければ、あの女は野放しだ……。

「どうしました?」

 おまわりさんは心配そうにわたしの顔を覗き込む。

「い、いえ、あの」
「かわいい顔してるんだから、もっと笑って。花宮あんずちゃん」
「あ、はい……え?」

 違和感を覚えた。さっきから写真のことばかり考えていた。だから、今更になって目の前のおまわりさんが、女性であることにきづいた。柔らかい声質だったから、自然と安心してしまっていた。どうして、気づかなかったのだろう。
 わたしは顔を上げる。
 おまわりさんは、帽子をちょっと上にずらした。

「な、なんで……」

 ――痴女が、そこにいた。

 恐怖がこみあげてくる。わたしはその顔を見つめることしかできない。

「すみません、警察の皆様にはなんと申し上げればいいことか」

 ママがいう。

「いえいえ、仕事ですから」

 女はさわやかな笑みを浮かべた。そうしていると、まるでただの女性警官にしか見えない……こいつが警察官だったなんて……最初からつかまるはずがなかったんだ……。


「またお困りのことがあれば、いつでもご相談ください」
「本当に、本当に、ありがとうございました」

 女は敬礼する。
 パパが深々とお辞儀をする。ママも、それにならって頭を下げる。
 
 だから、私だけが女を見ることができた。
 扉を開け放った玄関で、朝の真っ白い光を浴びて、奴は――痴女は言い放った。

「また、助けてあげるからね」

 べろっと、舌を出す。
 舌の上には、細くてやや茶色い線状のものが……。
 それが何かわかった瞬間、ぞくりと、体が一気に冷えた。

 だからまた、ちょうだいね。

 わたしにだけ聴こえるようにそういって、女は軽い挨拶とともに立ち去っていった。
 
 
 この日から、わたしと痴女の戦いは始まったのであった。






 

  
 

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