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お父さん、「すべての本質的な力は、表現される過程において成長する」は今も本棚にぶら下がっていますか?

「すべての本質的な力は、表現される過程において成長する」

父がこのE.フロムの言葉を紙切れに書き、本棚にクリップでとめたのは私が中学生か高校生の頃だったでしょうか。父の基地は4畳半の畳の間で、そのつつましい部屋は、父の電気工作も彫刻の木屑もプログラミングも盆栽の赤玉土も受け止めたうえに、父の愛蔵書を本棚にずっしりと抱え込んでいました。

そこは盆栽から自転車の科学、仏像彫刻からパウル・クレーからプログラミング、と思えば親鸞からコーラン、オデュッセイアから論理パズルまで、父が好奇心をくすぐられたありとあらゆる本がごった返す闇鍋的宝箱空間(そんなものがあれば笑)であり、父はその中から今読んでいる1冊を持ちだしては食卓であれこれ議論をするのが好きでした。理屈が通っているのか否か、本物かはったりか、美しいのか醜いのか、普遍的か否か、発展的か否か、陽気か否か(コレ父の重要ポイント)、真実か否か、誠実なのか卑劣なのか、自分はどう考えるのか、他の誰それの考えとどう矛盾しどう整合するのか、好きか嫌いか、、、あらゆる方向に発想を飛ばし、好きに話していいその魔法のような時間が、私も大好きでした。

ですが、そこにしばしば登場するエキサイティングな生命論や哲学に比べれば、冒頭の「~表現される過程において成長~」という一節はかなり地味でした。ですから、当時の私がその紙切れを見た時の正直な感想は、「ふ~ん、、、そう、かもね?でもそれで?」でした。あれだけの本の中から父が唯一、紙切れに書いて自分の本棚にぶら下げようと思い立ったのが、この一言だったことが、不思議でした。

それが今、当時の父の歳を前にして、「あ、、、」と思い当たるようになったのですから不思議なものです。

先日、ある方のお引越し壮行会があり、ご本人と参加者の皆さんとお話をさせていただく機会に恵まれました。子供ができてからというもの、こうした集まりからは十何年も遠ざかっていましたが、育児も一段落し、また心から尊敬する方でしたので思い切って顔を出してみたのです。プログラミングが強いコミュニティだけあって、問題解決力の塊のような集まりなのですが、単にそれができるというにとどまらず、皆さんそのパワーで自らワクワクしつつ、世の中のワクワクを推し進めている感じが尋常ではありません。

そんな方々のお話をうかがい、熱気をじかに浴びているうちに、自問自答するばかりで冷え固まっていたなにかの考えのモトが温められてきて、黄金のバターのようにするりとあふれ出ます。そうすると、その発した言葉が、自分でも正体が分かっていなかった考えに色を付けて見えやすくしてくれたり、周囲からの反響が、漠然としていた考えのモトの輪郭をソナーのように明らかにしてくれたりします。そうこうするうちに、自分の中の漠然としていた何かが浮かび上がり、発展していく、その楽しいことといったら!

壮行会から2日経った今も、その時話題になっていた、ウクライナ問題と農産物価格の関連が、ちょうど読み進めているある本とリンクしてしまったせいで、脳内が嬉しい悲鳴のプチ・カンブリア爆発中です。

フレッシュな考えが生まれると、脳内に野生馬がいるような感じで、その実感の強さに反比例するように、それを捕まえて筋の通ったひとまとまりの考えとして伝えることは難しく感じられます。でも、もはや表現しないと苦しいぐらい、アイディアの圧が高まってしまっているので、表現する。するとその表現では不十分だったりずれていたりするところが見つかるので、さらに考えを深め、改めて表現してみる。こういったことを繰り返せば、確かに本質的な力も成長することでしょう。

そしてこれをしている時間は、他の目的のために我慢する時間ではなく、創造のエネルギーに突き動かされてそれ自体に没入する、至福の時間、永遠の時間、コドモゴコロの時間。(余談ですが、聖書の有名な一節 "Let the little children come to me, and do not hinder them, for the kingdom of heaven belongs to such as these." を読むたびに、コドモゴコロを解き放って創造する時に人の心が至る至福の王国を思い出さずにはいられません。私はどんな組織化された宗教にも属さないので、これがいわゆる正しい解釈なのかは知りませんが。閑話休題)

このような時間のありがたみは、自分の勉強や好きなことを極めようとしていれば褒めてもらえたうちは、全く気づいてもいませんでした。そのような時間が当たり前だったからです。けれども育児という、24時間365日、今すぐの必要に迫られるマルチタスクを長年こなしていると、いつしかそうした自分の中のアイディアを見つけて育てるようなことの優先順位は下がりがちです。子供という究極の創造の天才がすぐ横にいるのに、です。いや、むしろそうだからこそ逆に、自分は親として、子供の集中や楽しみはそがないようにしつつ、共に楽しみつつも、今日の夕食やお風呂の時間もチラチラ気にし、明日の学校もねむくなく楽しく過ごせるように、策を練らねばならない。そうした中で、自分の脳内で無意識に酷使する部分と、逆に優先順位を下げざるを得ない部分があり、育児が一段落して余裕ができて初めてそれに気づく、ということは、親あるあるなのではないでしょうか。

こうして、コドモゴコロの優先順位を長年おさえた経験の後、再発見した表現と創造の喜び、、、大切な仕事がどうにか一段落して、ほっとしながら、素の自分を再開拓する喜び、、、それは他人には見えないけれど、自分の中ではちょっとした再生、ルネサンスのようなもの。それはもう、紙切れに書きたくなるかもしれません。

もちろん、これはE.フロムの本を読むことなく、抜粋された一文の記憶だけを頼りに書いているので、おそらく彼がその本で言いたかったことは全く別でしょう。ただ、自分が今、育児を経て人生のサイクルを一周し、父が当時いたであろう局面にさしかかるにあたって、もし父と似たようなことに感動を覚えているのだとしたら感慨深い、という思いでこれを書いています。

たぶん今も、実家の父の本棚にぶら下がっている「すべての本質的な力は、表現される過程において成長する」の紙切れ。お父さん、あれはどんな思いで書いたのですか?

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