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書店の扉を開いたら、仕事終わりの心が5センチ跳ねた

数ヶ月ぶりに「町の本屋さん」を訪れた。年齢の数だけ本を買うと決めていたのに、引っ越しやらなんやらですっかり1ヶ月以上経ってしまっていた。それがなんとなく引っかかっていて、スーパーに行く途中でふらりと寄ってみることにしたのだ。特に買う本も決めていないけれど、この町の本屋さんがどんなものか見てみたいと思った。

駅の近くにあるそこは、モールの一角かと思っていたのにかなり広かった。広いとわかった途端、連れのことなど忘れておすすめの棚をまずは舐めるようにみる。そして棚の間をするすると進むと、なんと、分野ごとの本がやたらと充実している。みたことない本が並んでいる。どうやら本屋さんに行っていなかったここ数ヶ月のせいじゃなく、書店のラインナップがいいようだ。興味のあるタイトルや表紙のものをとりあえず抱え込み、歩き回ること10分。両手で抱えきれないほどの量になっていた。

久しぶりにアドレナリンが出ているのを感じる。もっとじっくり棚を見て回りたいのに、スーパーに行って夕飯を作る予定があるからそうもいかない。また来るから、と切り上げて14冊をレジに運ぶ。27歳だから本がたくさん買える、と思うと歳をとって良かったなと思えるから、この企画には感謝である。店員さんがとても丁寧に文庫にカバーをかけてくれて、それを静かに眺める時間がとても幸せだった。

学生時代、父親と本の買い方で喧嘩をしたことがある。その時はバイト代で自分の本が買えることが嬉しくて、Amazonでどんどん注文していた。一方で父親は、市内に仲の良い書店の経営者さんがいて、「お前もそこで買えよ!」というのだった。父の取引先でもあったし、そこはいわゆる町の本屋さんだったし、父が応援したい言い分もわかる。けれども、その時の私はがっつりと親の脛を齧りながら、それでも本の買い方にまで口を出されるのは不満だった。なにより、その本屋さんは市内とはいえ私の行動圏内にない。お互いになんで相手がキレてくるのが分からず、テンパってさらに怒鳴り返すような無様な喧嘩だった。

最近、「売れる書店」という言葉を目にした。売れているビジネス書や映画化された小説なんかが大量に平積みされ、カフェが併設しているような場所を思い浮かべる。はて、それでいいんだっけ。たとえば、神保町の書店で出会った短歌の歌集や、むかし渋谷の丸善で買った好きな小説家のエッセイ本。それらとはこれからどこで出会えばいいんだろう。背表紙だけで食いつける、あの掘り出し物を探すときめきは、短期スパンの人気を狙った本棚には無いと思う。

だから、本屋さんを応援しなくてはと思った。オアシスである書店が消え、ぜんぶAmazonになったら悲しいから。Amazonは便利だけれど、選択肢がなくなり独占状態が起こるのは結果として読める本の多様さを失う。あるいは、いつかみたものの焼き増しのような自己啓発本が並ぶブックカフェを求めているわけではないから。そうして、父さんと喧嘩したことを思い出したのだった。あの時、父が言っていたことは全然間違いじゃなかった。当時もきっとそれはわかっていたのに、私が本を読むのを否定されたかのような口調に腹を立てて、喧嘩になってしまったのだった。幸いなことに、コロナ禍を経てもその書店は続いているし、まだ父とも仲はいいらしい。よかった。後悔するところだった。

これからは、本はなるべく町の書店で買おうと思う。丁寧にカバーをつけてくれたあの店員さんが、いつまでもいてくれるといいな。今日からはどれから読もうか迷えるという、至福の日々が始まる。

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