抑圧・締めつけは不正の温床

家庭であっても会社などの組織であっても、立場の低い人間に言うことをきかせようと、抑圧・締めつけ策に出ることは多々あります。家庭だったらゲーム禁止、学校だったらミニスカ・茶髪禁止、会社だったら各種規定や過度なノルマなどがそういった例かと思います。抑圧には過度なプレッシャーという意味もあるかと思うので、無理難題を突き付けて、できなければ罰といったやり方も抑圧・締めつけ策に含まれるでしょう。こういった恐怖政治的なやり方は内部に緊張を生みますし、「怒られまい」と不正を隠すようなことになりがちです。

親に隠れて宿題をしているふりをしてゲームをしたり、放課後にスカートを短くして遊びに行ったり(今は下火?)、ノルマ達成のためにグレーゾーンなことをしてみたりと、やっていることに違いはあれど、同じことの相似形のように見えます。何かを禁止されたり過度なプレッシャーに締めつけられたりすると、その反動が必ずあるし、それは必ず不健全な方向に向かっていくように思います。私がいつも問題視している性についてもそうですし、大学生が遊んでしまうのも受験のプレッシャーの反動だなと思うし、頑張りすぎてうつになってしまう人も、厳しいノルマのある会社の人が酒に溺れがち、みたいなことも同じ反応だろうと感じます。

心に「禁止・罰則・厳しい決まり・叱責・緊張感」といった「圧」「ストレス」が加えられると、その圧を跳ね返そうと反動・反発があるのは当たり前です。その反応が人によって反発・反抗として動的に現れる人もいれば、うつや涙のように静的に現れる人もいると思います。病気になってしまう人もいます。というか、多くの人が気づいていないだけで、そういった「圧」が病気の根本原因であることがほとんどだと思います。外部の圧やストレスだけでなく、「嘘・不正・隠し事」というのも、内部からじわじわと自分を痛めつけるもので、後ろめたい気持ちで生きているだけでどんなに自分の心の幸福度が下がるかというのは少し想像しただけでも明らかです。その話は嘘や不正は少しずつ心身を蝕んでいくという記事にも書きました。

私には人間がやっていること全てが反対に思えます。誰かに言うことを聞いてほしいと思うんだったら、抑圧・締めつけよりむしろ相手を信頼して自由にしてあげる必要があります。それをするには、信頼や忍耐が必要だと思います。親にも学校にも会社などの組織にも、相手に対する信頼や忍耐が欠けているのでしょうね。抑圧してくる相手に対して好感を抱いたり、言うことを聞こうという気持ちになることはありません。「やれやれ」とうるさく言われるほど、やる気がなくなるというのが人間というものです。私自身も親にやれやれと言われたものほど嫌いになりました。運動、英語、働くこと…親の価値観で過度にやれやれと言われてきたものですが、反発心からなのか、どれもあまり好きになれませんでした。勉強やれやれと言われていたら、今の勉強好きな私はいなかっただろうと思います。

エゴが強い人間、組織ほど、相手から自由を奪い、支配しようとしたり、傲慢で締めつけ・恐怖政治を行おうとしてくるものです。ものがわかっている愛にあふれた人は絶対にそんなことはしません。それが逆効果であることはちょっと考えればわかるからです。もっと言うと、厳しすぎる家庭で育った子どもは必ず反発、悪ければ非行に走り、その代償は親に返ってくるし、恐怖政治を行う組織なども結局不正などの不祥事に見舞われることになるので、したことの報いは全部自分に返ってくるということもわかります。抑圧・締めつけしたところで相手は嫌な思いをする上に反発するし、自分もカルマを積んでしまうので、誰も良い思いをしません。人間はもっと賢明に生きなければならないとつくづく思います。

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