言葉がわからないからこそ全部お見通し

4月中旬に実家に戻ってきて、何よりよかったなぁと感じているのがペットのうさぎと一緒に暮らせるようになったということで、毎日夜に部屋に出して家族で遊んでいます。実家に帰ってきてからは毎日私が長時間なでなでしてやっていて、私がやめるまでずーっと気持ちよさそうになでられています。かわいいねーとか、うちに来てくれてありがとうーとか、大好きだよーと声かけもしてやっていて、そのおかげかはわかりませんが、私の部屋では粗相をしませんし、かじり癖も少しおさまったかな?と思っています。前は壁とかコードとかよくかじっていて、家族が困り果てるほどのやんちゃ坊主だったのですが…。

うさぎをなでている間は私も幸せですし、かわいいなー、うさぎはあったかいなーと感じてなんだかほっとします。うさぎもなでてもらえると「かわいがってもらえてるなー、愛されてるなー」と感じてすぐにふにゃーっと寝てしまうのだろうと思います。動物や植物など、言葉がわからないからといって雑に扱っていいということは全然なくて、言葉がわからないからこそ、その人がどんな気持ちでいるかとか、自分(動植物)に意識を向けてくれているかということを非常によく察知しているものだと思います。植物については『植物は気づいているーバクスター氏の不思議な実験』(クリ―ヴ・バクスター著)という本を読んだ時に、その生態に驚いた記憶があります。私たちの意識、感情、思考といったものは動植物(鉱物も)にはすべてお見通しで、わからないのはマインドが発達してしまった大人の人間だけということになりますね。

生まれたての赤ちゃんやまだしゃべれない乳幼児なども同様で、言葉がわからない(ように見える)からこそ、「わからないだろう」と思って接してしまうことも多々あるかもしれませんが、それは大きな誤りであることがわかります。大人以上に人の意識、感情、思考といったものを敏感に察知していて、身近な大人(特に親)の態度から「自分は愛されているのだろうか」ということを推し量っているものだと思います。自分でもふと、母が私を妊娠しているときにお腹をなでてくれていたようなイメージというかビジョンが浮かんで、涙ぐみそうになることがありますが、おそらく妊娠期間中から親の気持ちを察知しているのだろうと思いますね。うさぎをなでているときの自分とうさぎの関係性や、その時の幸福感や喜びから、そんなようなことも思い出しました。うさぎがなでられて愛を感じるように、自分もしゃべれない時から愛を感じて(感じようとして)いたんだなと感じたんですね。

ただ、ここで大事だなと思うのは、うさぎをなでるにしても、お腹の子をなでるにしても、その行為をただ行うのではなく、どんな意識や気持ちでやるのか、というところを見落としてはいけないということです。「こんなかわいくないうさぎ飼わなきゃよかった…」という意識でただなでてもダメということです、当たり前ですが。表面的な行為や言葉は見透かされてしまいます。私たちも日常生活の中で、言葉ではいいことを言っているのに全然心がこもってないし目が笑ってないじゃん、と思うことは多々あると思います(笑)。そして実際に私も心がこもってない言葉を発したことはあると思います(笑)。おそらく相手も見透かしていたと思いますが…。人間の大人はともかく、動植物や生まれたての乳幼児にはすべてがお見通しなので、本当にどんな意識でいるのかが大事だということを痛感させられます。

この話は保育園や子育ての話にもつながっていくことです。私が自分が待機児童の担当の職員だったとかそういったことを抜きにしても、あまり幼少期から保育園に預けない方が良いんじゃないかと思っているのはそのためです。言葉が話せないからわからないだろう、は大きな間違いだということを、もっと多くの人に知ってもらえると良いなと思っています。言葉がわからない時こそ肌と肌の触れ合いや、身体をなでてもらったりする時間が本当に大切なのだということです。今生きている大人の全員が昔は子どもであり、多くの方が親による「子育て」を受けています。今の社会がうまくまわっていないのは、「子育て」の時点でその原因のすべてが始まっているからかもしれません。資本主義システムにおける支配層の大きな目的、「家族、パートナーシップの破壊」が実にうまく成功しているものだなと感じます。

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