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ぐっちがいる、「いつもの」神宮で 【5/17横浜戦⚫️】

神宮に、「your turn」が流れる。そうだよ、ぐっちの番だ。と、私は思う。空気が変わる。みんな待ってたんだな、と思う。言葉にならず、隣の息子の背中をガシガシ叩く。息子は苦笑いをして「はいはいよかったね」と言う。

「ぐっちの登場のこれ流れるの初めて見るんだねそういえば!」と、あのワードアート(懐かしい)で作ったような例の登場動画を見ながら息子が言う。私はもう一度息子の背中をガシガシ叩く。

ぐっちがいない神宮へ通い始めて、一ヶ月半が過ぎた。私はそこで、いつもと変わらずヤクルトを応援し続けた。ぐっちがいなくても、ヤクルトが勝つともちろんうれしかった。ぐっちがいても、いなくても、このチームが好きなんだなあと、私は心底思った。

でもぐっちがいる神宮は、それは格別だった。42の後ろ姿を見るだけで、そうだよ神宮にはこれが必要だよ!と、思った。そしてぐっちは、こちらがいろんな感情でしんみりしている暇もないくらいに、いきいきと走り回っていた。

それは特別な景色のような気がしていた。ぐっちが戻ってきた神宮は、すごくキラキラした夢のような場所になる気がしていた。

だけど昨日、ぐっちが戻ってきた神宮で見たのは、「いつもの景色」だった。いつものようにぐっちがいて、いつものように打席に立って、いつものように激走する。それは私がいつも見ていた、当たり前で、そしてとてもとても大切な景色だった。

たぶん、当たり前のものこそが、一番贅沢で、何より大切なのだ。

その試合で、ヤクルトはいつものように負けた。ミスがあり、先発ライアンはここぞで踏ん張れず、チャンスで1本が出なかった。振り返ってみれば、5月は現時点で5勝8敗1分という、いかにもヤクルトらしい勝敗になっていた。そうそれは、いつものヤクルトだ。そう、当たり前のものこそが、一番贅沢で何より大切なのだ。なんか違うけど。

でもそこには、エイオキの通算100本塁打があった。ぐっちの気迫が相手のミスを呼び寄せた。(あれは相手が悪いんじゃない、ぐっちの力によるものである。断言。)ココちゃんのおかえりマルチがあり、てっぱちはひたすら歩き続けた。

そして神宮の風は、少しずつ、寒さを和らげ始めていた。そこは、やっぱり、特別な場所だ。

ぐっちが帰ってきた日に、エイオキの100本塁打があった日に、逆転勝ちをしちゃうような、そんなドラマがあればそりゃもちろんよかった。そういう物語をもちろん願った。でも現実はそう、うまくいくものじゃない。今日、喜びの物語が生まれたのは、相手のチームだった。でもそれが、野球だ。勝ち負けのあるスポーツだ。いつも誰かが泣き、誰かが笑うのだ。

でもその泣いた側のすべてが、絶望で覆われるわけじゃない。ヤクルトがいつものように負けたとしても、連敗したとしても、例えば神宮にぐっちがいること、それだけで何杯でもビールは進むのだから。

・・・と、いう、この、去年前半の心持ちを私はすっかり取り戻しつつある。いいのだ、強がりでも、こうして私はこのなんともいえず愛らしいチームを、応援してゆくのだ。


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