不合理性こそ人間のアイデンティティ

最近「サピエンス全史」と「ホモデウス」という本の
上下巻を買おうと思っている。

皆様もどこかで聞いたことがあるかもしれない。

本の内容的には人類学に分類されるだろうか。

人を選びそうな内容ではあるが
概ね読者からの評価は高く、
少なくとも私の趣味趣向にドストライクだった。

値段は全て合わせて約1万円と決して安くはないが、
それでも気になってしまった以上買う気が失せることはない。

私の決意は総じて堅いものだといえよう。


そんな折、友人にその話をした。

ちなみに友人は既にそれらの本を読破しており、
私に 「サピエンス全史」の存在を教えてくれた張本人だ。

私の嬉々とした表情に水を差すが如く、
友人は残酷なまでの正論をぶつけてきた。

大まかな内容は
「確かに面白いが長くて挫折する人がほとんど」
「きっと挫折して積読本になるだろう」
という至極真っ当な指摘である。

私はふとその話を聞いてひどく理性的になった。

確かに面白いかもしれないが、
内容は重厚であり、上下巻なので4冊もある。

加えてその全てを読破するとなると
それにかかる労力・時間が膨大になるのは
想像に難くない。

すなわち友人が私に提言した通りのことが起きるだろう。


さらに友人は畳み掛けるようにこう助言してきた。

「サピエンス全史は要約した動画で済ませ、ホモデウスを読むのが一番いい」

私よりも遥かに明晰な頭脳、
既に読破している友人が言った助言だ。

少なくとも私の発言よりは
正しさが担保されている。

私の中でもそうした方がいいと
理性では結論づけている。

しかし問題なのは、
理性で止められない快楽・欲求であった。


私が現在抱いている快楽・欲求は
「合計4冊を揃えたいという収集欲」
「制止されるからこそやりたくなるという欲求」
の2つである。

これらの欲求はとても強く
友人の圧倒的な正論を前にしても堂々としていた。

私の中の理性では
友人の正論をしかと受け止め、
勢いで買うことは危険だと警告している。

私自身、先のない崖に向かっていることは
知っているのだ。

それにも関わらず、
私は欲望という歩みを止めない。

一見すると不合理に見えるし
間違いなく不合理である。

だが、この不合理こそが
人間を人間たらしめるものだと私は考える。


仮に理性で全てを判断する人間がいたとして、
その人間は果たして幸せだろうか。

ただ淡々と理性的に判断するその様は
機械に重なって見える。

人間が幸福だと思うには
少なくとも感情や不確実性が必要なのではないか。

わかりやすい例で言えばギャンブルがそれに相当するだろう。

恋愛だって不確実性の塊だ。

すなわち、
人間は不確実なものに一定の魅力を感じ、
どこかでそれに身を任せずにはいられない。

それこそが人間が機械などではなく、
人間としていられるアイデンティティの一つだと考えられる。


私が友人の否定しようがない正論を振り切ってでも
こうしてAmazonの購入画面に進もうとしているのは、
人間としてのアイデンティティなのか。

あるいは、
本を買いたいという欲求を制止できない
己の無力さ・無謀さなのか。

正確なことはわからないが、
少なくともこのnoteを書き終わる頃には
本を買い終わっているに違いない。

加えて言えば、
未来の私は本を買ってしまったことに
ひどく落胆するだろう。

「あの時友人の助言を聞いてさえいれば」

そこまで理性的に考え、想像できても
私は購入という歩みをやめない。


友人が私のこの光景をみて笑っている。

この先どうなるかが容易に想像がつくからだろう。

少なくとも来世では
正論を突きつける側にまわりたいものだ。

今日という日、あるいはこの人生に関しては
この不合理性に身を任せるとしよう。

仮に後悔しようとも、購入したという欲求と
ひょっとしたら自分は読破できるのではないか
というあまりにも淡い期待を胸に。

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