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【読書コラム】保守的になったのは年齢のせいだと思ってたけど、実は死ぬのが怖いからだった - 『なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか』シェルドン・ソロモン、ジェフ・グリーンバーグ、トム・ピジンスキー(著), 大田直子(訳)

 いま、わたしは三十歳。ずっと新しいものが好きだと思っていた。でも、気づけば、なにをするのも定番ばかり。会う友だちも、食べるものも、見るものも、着るものも、出かける場所も……。すっかり保守的な人間になっていた。

 なるほど、着実に歳をとっているのだろう。そう思った。というのも、人は年齢を重ねるにつれて保守化するものだから。

 うちの親も他人の意見に耳を貸さなくなってきた。近所のスーパーではおばあちゃんがセルフレジに悪態をついていた。仕事で関わっていた九十代のおじいさんなんて、日本は戦争に負けていないと本気で言い張っていた。

 きっと、保守化とは認知機能の衰えなのだろう。漠然とそう思ってきたので、保守的になりつつある自分を感じ、少しばかり憂鬱だった。

 それで、なんとなく、どうすれば脳の衰えを防げるか気になって、Googleであれこれ調べていたら、『なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか』というちょうどいいタイトルの本を見つけた。

 これを読んで目から鱗が落ちた。保守化は脳がダメになっているのではなく、ひとつの機能である可能性が提示されていた。

 人は死を意識すると恐怖を覚える。死にたくないので死を否定しようとする。死は非日常の存在なので、日常が堅固であると信じたくなる。これがいわゆる保守化のメカニズムなんだとか。

 本文ではこのことを「恐怖管理理論」と呼び、根拠となる実験がいくつか紹介されていた。

 例えば、判事が軽い罪に対し、刑の判決を出すとする。普通だったら罰金50ドルを請求するのが妥当である。しかし、その直前に「自分自身の死について想像してください」「死後の世界はあるか?」と質問した場合、請求額が平均で450ドルに増えたらしい。

 要するに、死を意識したとき、判事の中で日常の社会を脅かす犯罪者を許せない気持ちが強くなってしまう。そして、過去の判例よりも重く罰したい衝動が高まるというのだ。

 この感覚はよくわかる。

 ニュースを見ていて、加害者と被害者の間になんらかのトラブルがあったと報じられた事件について、我々はあまり同情を寄せない。むしろ、被害者を責める理不尽なコメントがネット上にあふれかえることもある。

 一方、交通事故や通り魔、テロリズムなど被害者に落ち度がないと確信できるとき、加害者に強い怒りを覚える。SNSではいますぐ死刑にすべきなど、これまた過剰な意見が飛び交ってしまう。

 結局のところ、みんな、無意識のうちに自分が被害者になる可能性があるかないかに基づいて、罪の重さを判断している。

 すでにけっこうな発見があるのだけれど、この本が面白いのはむしろここから。「死を意識すると人は保守化する」なら、逆に「保守的な価値観を否定されたら人は死を意識する」のではないか。そんな仮説が見事に立証されていく。

 まず、死のイメージが人の考えに影響を与えるかの実験が行われる。道ゆく人を対象に、

 COFF〇〇
 SK〇〇L
 GR〇〇〇

 以上の〇部分を自由に埋め、存在する単語を作ってくださいという簡単な単語テストを実施する。

 スタバの前で行うと、

 COFFEE(コーヒー)
 SKILL(技術)
 GRIND(挽く)

 みたいに、スタバに関係する答えが大半を占める。ところが、葬儀屋の前で行うと、

 COFFIN(棺)
 SKULL(頭蓋骨)
 GRAVE(墓)

 と、死のニュアンスが答えに反映される。

 次に、この実験を踏まえ、その人の大切にしている価値観を否定した後、単語テストの穴埋めがどのような答えになるかをチェックする。

 キリスト教保守派の人に対し、進化論がいかに正しいか説明した後、同じ単語テストを行ったところ、結果は葬儀屋の前で行ったものと一緒になった。

 また、回答者の母国を否定した場合も、同じく、答えに死を連想させる単語が並んだそうだ。

 どうやら、自分が正しいと思っている価値観を否定されたとき、人は目の前に死が迫っていると錯覚してしまう傾向にあるらしい。

 どんな人にとっても死は未経験。故に、死はいつだって革新の形で現れる。少なくとも、そう予感されるわけで、新しいものは死が変装した姿なのかもしれず、いつだって恐ろしい。

 生まれてからいまに至るまで、とりあえず、なんとかやってこれたのに、わざわざ変わる勇気を持てないのはそのためだろう。

 親や周りの大人に守られ育てば、好むと好まざるとに関わらず、言う通りにしておけば安心という意識が心に根ざしてしまう。やがて、親や周りの大人の意見を否定すれば、危険な目に遭うだろうと錯覚するようにもなる。

 そういう錯覚は、ある意味、昔ながらの共同体においては有効だった。生き延びることが目標だった時代において、新しいチャレンジはリスク以外のなにものでもないから。

 しかし、社会が成熟してくると、それだけでは立ち行かなくなる。他の部族や国家など、そうじゃない価値観の人たちと関わる必要が生じる以上、お互いが保守的だと対立は避けられない。

 もし、それで戦争が起きるのだとしたら、ひょっとしたら保守化は人類のエラーなのかもしれない。

 また、情報化社会が進み、日々、商業的に価値観がアップデートされていく現代社会で保守化するのは生きづらさの原因にもなる。

 いまや、我々は身近な人たちの価値観に触れるより、本来なら遠い場所にいるはずの成功者たちの価値観に晒されまくっている。

 スポーツ選手やスーパーモデル、ロックスター、IT企業の社長、ハーバード大学卒のエリートなどなど。

 そういう凡人には実現不可能なレベルの生活を送る人たちの価値観は、宣伝・広告を通し、素敵な夢をばら撒きまくる。まるで基準であるかのように。そして、それを真に受けた凡人は己の自尊心を知らず知らずにすり減らす。

 もし、村社会で生まれ死んでいくだけの人生だったら、その存在を知ることもなかったはずの天才たちと比較して、「わたしはなんてダメなんだろう……」と落ち込むことに、果たして合理性はあるのだろうか?

 いや、そんな風に落ち込めるだけ、まだ健全なのかもしれない。「恐怖管理理論」によれば、保守化はより感情的な暴力へ発展。テロリズムとして顕在化し得る。

 メディアを通し、才能ある人たちの偉業を見せつけられた凡人は自分の価値観を否定されたと感じ、死を錯覚してしまう。この恐怖に打ち勝つため、凡人は自分の価値観が正しいと必要以上に信じ込み、いつしか、「俺は天才である」と自認し始める。そして、自分の才能を認めない世間に捨て身の攻撃を仕掛けるだろう。

 これを防ぐ方法はあるのだろうか。たぶん、難しいけど、あるにはある。思うに、各自、天才と自分の違いを意識することが大切なのだ。

 天才は天才である。凡人と別の世界で生きている。あくまで別の生き物なので、凡人は天才になろうとしてはいけない。凄いなぁと尊敬してしまうけれど、そのやり方を参考にしてはいけない。だいたい、天才と呼ばれている人たちが巧みな情報戦略で作り出されたフィクションでない証拠はどこにもないのだし。

 もちろん、わたしだって、自分が天才だったらよかったのになぁと憧れてしまう。サクッと芥川賞でも取れたらなぁ、って。ただ、なれないものになろうとするのは等身大の自分を否定することであり、本当のところ、とても悲しい。

 保守化が脳の衰えでなかったとしても、そのままにはしたくない。これまでの自分を否定し、新しい価値観に触れている自分の方がよっぽど自分らしいはず。

 そのため、繰り返されたルーティーンを打ち破るように、今日は新しい本を読み始めることにした。





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