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【顔への責任】

博心堂鍼灸院の、いんちょです。

40歳。
不惑の年、なんていいます。
出展は論語ですね。
40歳になれば、迷わず、惑わされず、っていうところでしょうか。

ちなみに15歳にして、学を志す。
30歳にして、立つ。
くわえて、50歳にして、天命を知る、とあります。


己の人生に迷いがなくなる40歳。

このころには、親とのかかわりがすっかり離れます。
べつに親子仲の断絶とか、そういうことではなく。


また、人の人相も40歳ころまで、親の影響を受けています。
親からどのように接されて、どのように教育をされ、どのように影響を受けてきたか、なんていうことが人の顔には刻まれているというわけです。

40歳までは、自分の顔には子供のころからのしがらみや、幼少時からの生活環境の影響が、強く刻まれているというわけです。

子供が何かを失敗して「親の顔が見たい」なんていいますが、親のことはその子の顔に現れている。


早い人は20歳前から自立心が芽生え、顔から幼さが消えます。
30歳を前にして、自ら立つことをおぼえるわけですね。

逆に、40歳になっても顔に幼さが残る人もいる。
これは実社会で「もまれて」こなかった証です。


幼さと若々しさは別物で、幼さ、あどけなさとは別に、顔や姿がとても若々しく、年相応に見えない人もいます。

これはココロとカラダの風水がかなった生活をしてきたことを示します。

中国の仙人の姿が童子として描かれていることがあります。
長いひげと頭で杖をついている仙人の姿は、たくさんの知恵を宿していることを意味し、童子の姿の仙人は不老長寿の姿を意味しています。


東洋医学の見立て方に「顔貌診」というのがあり、文字通り患者さんの顔を見て、体調や症状の具合を判断するもの。

顔貌診は顔の骨格や肉の付き具合などで、そのひとがどんな風に生きてきたかを推し量るものです。

苦労して根気よく我慢強く生きてきた人は、下あごが発達して印象的に見えます。
そんな苦労がカラダやココロに無理を与えていると、立派な下あごが左右どちらかに偏って、ひしゃげて見えたりします。

また、しゃくれたあごは、他人への依存が強く、一人では頑張れない心理状態が長らく続いてきたことを示唆します。
立派なしゃくれ顎は、誰かに支えてもらいながら長らく苦労を重ねてきたあかしなのかもしれません。


目元は人間関係や精力と関係があり、どのように人とかかわりあってきたかが示される場所です。

目元に生気がなかったり、落ちくぼんでいるのは、人間関係がもとになっている精神的ストレスが慢性的にたまっていることを示します。

目元に左右さがあるのは、本音と建前に差があるということ。

目の前で話してくれていることに、もしかしたら裏があるかもと感じるとき、そんな目元を見ると、相手の腹の底に何があるのか感じ取ることができるかもしれませんね。

目は口程に物を言うといいますが、顔全体にはその人の本音の部分や本質が表されている。

40歳ともなれば、親からのしがらみがなくなるころでもある。

だからこそ、どんな風に生きてきたかが素直に顔に表現されているので、普段の暮らし方やものの考え方を大事にして、人に見られちゃう顔を大切に養っていったらいいのだろうなぁと。

体調も顔にはしっかり反映されます。
自分の体がちゃんと丈夫に養われているかも、顔にはちゃんとちゃんと現れる。
人と比べる必要はないけれど、自分の顔がいつも若々しく鏡に映っているように暮らすことは、健康管理の大きな助けになるんじゃないかな。

そんなわけで、僕はいつもデスクに自分の顔を映せる鏡を置いて過ごしています。

最後までお読みいただきありがとうございます。



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