「運」すらも自分で選んでいる
生きづらさを抱えて苦しむ人は、
その殆どが、過酷な幼少期を過ごし、
傷だらけになって生きた人です。
その人は、思った筈です。
あの時、親があんな酷い事を言わなければ、
あの時、親があんな仕打ちをしなければ、
あんな親の下に生まれなければ、
自分にはもっと違った人生が有った。
あんな親の下に生まれた自分は、
なんて運が悪いんだろう。
おそらく生きづらさに気がついた人は、ひとり残らず、そう思ったことでしょう。
測り知れない苦しみをまとって生きて、
生きづらさに気がついて、
自分と向き合い、自分の過去を見つめ、
手繰って、辿り着いたら、
原因は親子関係だったのです。
生きづらさを抱える人の大半は、
自分は人並み以上に愛されて育った、と信じています。
生きづらさを抱える人の殆どは、
親の愛に応えることが出来ない、と自分を責めています。
気づいて、向き合って、辿って初めて、親は自分の生きづらさを、子供を使って紛らわせていた、という真実を知ります。
騙された、と悔やみます。
利用された、と怒ります。
よくもこれまで、と恨みます。
これまで苦しみながら、愛を注いでくれた親に応えられない自分を、自分で責めながら生きて来たのですから、悔やみも、怒りも、恨みも、湧き上がるのは当然です。
偽りが綻ぶと、次々に真実が見えて来ます。
あの時、こんな酷い事を言われた、
あの時の酷い仕打ちは許せない、
いつしかフォーカスは、酷い事を言われた「出来事」や、
酷い仕打ちをされた、という「出来事」を離れ、
酷い事を言った、酷い仕打ちをした、親に向けられます。
フォーカスは「出来事」ではなく、「人」に向けられています。
フォーカスが自分の親、という「人」に向いている限り、人生は親という「人」に支配され続けます。
しかし、これまでを悔やむのも、騙されたと怒るのも、親を恨むのも、フォーカスが親を捉えて離れないのも、
当たり前の感情の揺らぎだし、生きづらさを手放す過程で必要なこと、です。
感情の揺らぎを余すこと無く感じ切った時、親を捉えて離さなかったフォーカスが、「出来事」に移ります。
あんな酷い事を言われた、そんな事があった、
あんな酷い仕打ちをされた、そんな事もあった、と、
フォーカスが「人」から「出来事」に移ると、恨みの感情は霧散します。
そんな事もあった、と思っている自分に気がつく時が来ます。
恨みは霧散し、「出来事」として、そんな事もあった、という事実がそこに残ります。
残った事実は最初、この親の下に生まれ、こんな事があったから、自分は運が悪い、ということの根拠になります。
私の場合の話しを挟ませてもらうと、ある時ふと、自分は運がいい、と思っていることに気がつきました。
仕事でプレッシャーの掛かる局面で、ごく自然に、「自分は運がいいんだから大丈夫」と思っていることに気がついたのです。
あんな環境に育って、あんなこともあって、それでもこうして生き抜いた自分は、
運がいい、
と思っていることに気がつきました。
これまで、この親の下に生まれ、あんな酷い仕打ちをされた、という不運を裏付けるエビデンスだったのに、
自然に、この親の下に生まれ、あんな酷い仕打ちをされても生き抜いた自分は運がいい、と思っていることに驚きました。
そして、今、自分は幸せな景色を見て、生きている、と確信しました。
あんな事があった「から」、こうなった、
では無く、
あんなことがあった「にも拘わらず」、こうなった、
と自然に思えた時が、不幸を選ぶ事をやめた時、だと思うんです。
私達は、次々と起きる出来事を解釈して、感情を選択して生きています。
どう捉えるか、によって、見る景色は180度違ったものになります。
不遇な生い立ちを不運のエビデンスにするのも、
幸運の根拠に変えるのも、
自分の選択、自分がどう捉えるか、だと思うんです。
かつての不遇な環境は、幸運のより強い根拠になり得ます。
運さえも選ぶのは自分自身、
幸せを選ぶ権利は私達が握っています。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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