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腑に落ちないこと、が多すぎるから

時折、お叱りを受けます。

「過去を振り返ったって何にもならない、今を懸命に生きたら未来は明るくなるんだ」

その様な趣旨のお叱りを受けます。

過去をわざわざ掘り返すことは、過去に執らわれること、とのご指摘だと理解しています。

意味は良くわかっているつもりですし、私も生きる、ということを考える時、全く異論は無いのです。

しかし一つだけ、但し書きが付きます。

『唯一の例外、とも言えるタイミングを除いては』という、
但し書きの一文が付くのです。

そして、私がいつもお話ししている内容の殆どは、
その唯一の、例外のタイミングに在る人、に向けてのお話しです。

唯一例外のタイミングとは、
生きづらさを手放すタイミング、です。


「今を懸命に生きれば、未来は明るい」

広く多くの人に、投げかけて良い言葉だと思いますし、真理だと思います。

広く多くの人が当てはまる事なだけに、生きづらい人が、その様に生きよう、とすると、生きづらさを手放すことから、離れてしまうのです。

生きづらい人は、今を生きられないから苦しいのです。

生きづらい人が、今を生きられない原因は、自分の過去に、あまりにも腑に落ちないことが沢山あり過ぎるから、です。

意識の下では腑に落ちないことだらけなのに、

意識の上では、
見て見ぬフリをしたり、
腑に落ちた風を装ったり、

言わば、本当の自分を意識の下に封印して、意識の上では、別の自分として生きているから、生きづらいのです。

本人に自覚はありませんが、自分が二つに裂けてしまっているから、苦しいのです。

自分の過去、つまり、
自分の成り立ち、もっと言うなら、
自分の存在、が腑に落ちないのに、
今を生きることは出来ません。


そして、生きづらい人は既に、いつも懸命に生き抜いた人です。

ただ、生きづらさを背負ってしまった環境に、安全や安心は無かったのです。

あるのは、危険と不安、だったのです。

だから、懸命というよりも、必死に生き抜いた訳です。

「今を懸命に生きれば…」が当てはまる人は、生きづらさを背負っている訳では無く、心の中に、確かな【自分】という意識が、しっかりと有ります。

【自分】は安全、安心が有って初めて育ちます。
【自分】は人生の主体です。
【自分】が感じ【自分】が生きます。


生きづらい人は、危険と不安に晒されて生きたので、心の中の【自分】は満足に育っていません。

【自分】は小さく縮こまって、うまく機能しません。

人生の主体が機能しないので、人生はまるで他人事の様に思え、
感じる主体が機能していないから、感情が鈍麻した状態です。

心に【自分】がある人は、感情が活発に動きますから、
懸命になる時には、自己実現を目指しますし、そこには喜びや、楽しさが付随します。

しかし、生きづらい人が懸命になる時は、【自分】が無いから、自己実現は目指し様が無く、

主体が無く、感情が鈍麻しているので、楽しさも喜びも無いのです。

生きづらい人の、懸命、は必死であり、決死であり、何かからの逃避です。


心に【自分】がある人にとって、
今を懸命に生きることは、自己実現の喜びをもたらしますが、

心に【自分】が無く、生きづらい人にとっては、
今を生きることは難しく、懸命、は苦痛を運んで来るのです。


生きづらい人は、心が裂け、【自分】が縮こまり、感情が鈍麻して、

とにかく、心はぐちゃぐちゃに絡まり合っている状態です。

絡まり合った糸は、辿って、絡まりを少しづつ解いて行かなくてはなりません。

無理に引っ張っても、絡まりは固くなるばかりです。


だから、生きづらさを手放すタイミングは、唯一の例外です。

過去を辿る必要があります。

辿って、腑に落とすことが、絡まった糸を解く唯一の方法と考えます。


長く苦しんだ、生きづらい人が、絡まった糸を無理に引っ張って、どんどん絡まりを固くしてしまうことが少なく無い、と感じています。

だから、唯一の例外である、生きづらさを手放すタイミングに在る人、に語りかけています。


固く絡まった糸は、解けそうも無く思えます。

でも、少しづつ、丁寧に解き進み、

難所を越えれば、一気に糸は解かれます。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム






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