それ、躾じゃなくて調教です
大昔、迫り来る外敵から我が子を守るために、親がその身を投げ出す場面は、あったのかも知れません。
しかし現代社会では、強盗に押し入られるとか、通り魔的な暴漢に運悪く遭遇するとか、
余程不幸な運命の悪戯が無い限り、親が身を挺して子供を守るシチュエーションはありません。
とはいえ時が経ち、時代が変わり、直接的、物理的な脅威に晒される機会が少なくなっても、
今も昔も、幼い子供は無力です。
その事は変わりません。
だから、今日も無力な子供は親を慕い、親は無条件の愛情を以って子供を守ります。
子供は親を慕いたい、親は子供を守りたい、迫り来る脅威の多少に拘わらず、それが親子の心情であると私は思いたいのです。
迫り来る脅威は、大昔は直接的で物理的な外敵だったかも知れません。
安全は保障されたものでは無く、治安は悪く、賊の類から我が子を守る必要があったかも知れません。
更に昔に遡れば、迫り来る脅威は、獣だったのかも知れません。
賊や獣と遭遇しない現代に於いて、親は子供を守る必要は無くなったのでしょうか。
勿論、そうではありません。
今も昔も、子供は無条件に親を慕う、無力な存在です。
健気で儚い存在であることは、いつの世も変わりません。
賊の刃からも、獣の牙からも子供を守る必要はありませんが、
直接的、物理的な脅威の代わりに、子供にとっての新たな脅威は沢山あります。
それは、間接的で目につきにくく、とても複雑です。
たとえば、賊の刃に代わる学校生活でのいじめ、獣の牙に代わるSNS上での誹謗中傷。
昭和生まれの私の子供時代にも、いじめはありましたが、
直接危害を加えないでターゲットの子供にダメージを与える陰湿さや、
アシがつかない様にする狡猾さは、今の時代の方がずっと始末が悪い様に感じるのは、私だけでは無いと思っています。
時代が変わり、脅威の種類や質が変容しても、幼い子供が健気で儚い存在であることには変わりがありません。
その健気で儚い存在を守るのは、今も昔も親なのです。
もしも、お子さんを持つ親であるならば、自分は、この子の一番の味方なのか、という事を問うて欲しいと思うのです。
私は機能不全家庭に生まれ育ち、残念ながら家庭内に味方はいませんでした。
親が裁き、私は裁かれる役割でした。
「親にも言えない」という言いまわしが有りますが、
私の場合は、「親にこそ言えない」「親だけには言えない」という心持ちでした。
裁かれるからです。
その裁判は、私が有罪になることが、予め決まっている裁判です。
何故決まっているか、というと、
何があっても、無力な子供である私が悪い、という判決を下せば、丸く収まるからです。
無力な子供は、たとえ下された判決が冤罪であっても、異を唱える術を持たず、言い包めたら「自分が悪い」と思い込むから、です。
たとえば、学校で友達と揉めて、親にその事を洩らすと、即座に有罪判決が下ります。
そして、その友人宅に謝りに向かいます。
菓子折り持参です。
親は、友人宅につくと、私を怒鳴りつけます。
その剣幕に驚いて、友人の親が「まあまあ」となだめます。
親は私の頭を掴んで、下げさせ、「◯◯君、ごめんなさい、もうしません、て言いなさいっ!」と更に怒鳴り、
何度も何度も親子で頭を下げ、菓子折りを渡し、友人宅の玄関から退出します。
今思い起こすと、その時代の、子供の小競り合いで、菓子折りを持って謝りに行くのも、とても不自然だと感じますが、
母の独特の感性では、「子供はけしからんが、親はきちんとした人だ」と思われると信じて疑わなかった様なのです。
これは、何十年も経ってから、私が自分の心の傷を見つめることで、わかって来た母独特の心情です。
私が学校で小競り合いが多かったのも、親に対する抑圧した怒りが、暴発した結果だったのですが、
完全に親のコントロール下にあった私は、「隠し事は許さない、見つけたらタダでは置かない」と言われるままに、トラブルを報告しては、有罪判決を下され、菓子折り持参で謝りに行き、友人親子の前で怒鳴られる、という一連のセレモニーで、
心は傷だらけになった様に思います。
私の母は、生涯を通じて心は不安定で、独特の偏った心情を持つ人なので、極端な例ですが、
親は子供を一個の人間として尊重する事が大切だと感じています。
子供だから、こういう風に扱っても良い、という感覚を持ってはいないでしょうか。
大人と相対する時よりも、楽に、雑に、扱っても良いと感じていないでしょうか。
その様な感覚が有るならば、その時点で親子の役割が逆転している可能性が有ります。
親が楽になる為に、子供を雑に扱う、ということは、親が子供を犠牲にしています。
親が子供に甘えている状態です。
本来、子を守る役割の親が、子を裁く状態は、親が子に自分を無条件に受け容れさせる究極の甘えの現れです。
そこには、尊重の欠片も無く、自分が決めた通りに子供を動かす、親自身の幼児的万能感を満たす為だけの体勢なのです。
子供の心を塞ぎ、自分の思いを押し付ける事を、
躾だと言う親は少なくありません。
それは、躾では無く、調教であり、
動物相手では無く、人間に調教をする事は虐待です。
それが虐待だと知ったなら、いつも自分が裁いている子供に問題が有るのでは無く、
親自身の心に問題が有る、ということに気がつく場合も有ると思います。
もしも、子を持つ親であるならば、
自分は子供の一番の味方に相応しいか、
自分は子供を裁いていないか、
注意深く、見て欲しく思います。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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