何か失敗してしまった時、ケロッとしている人もいれば、ズドーンと落ち込む人もいます。
事の大小や内容にもよるでしょうが、その当事者のパーソナリティによるところが、大きい様に思います。
つまり、事の大小や内容に拘わらず、それはそれ、これはこれ、と割り切れる人は、大抵の場合割り切れるし、
後まで引きずる人は、如何なる場合も、引きずりがち、な気がします。
割り切れる人は、失敗したという事実と、自分の価値は無関係と感じていて、
引きずる人は、失敗したという事実が、自分の価値に直結して感じられるのだと思います。
割り切れる人は、自分という存在に安心感を持っています。
取り組む事が、成功しても、失敗に終わっても、
自分には価値が有る、という感覚は揺らがない訳です。
引きずる人は、自分という存在に懐疑的、もっと言うと否定的なのです。
自分には価値が無い、と思い込んでいます。
自分には価値が無い、と思い込んでいるのですから、
自分の価値を証明し続けなければなりません。
人は無価値であるという感覚を何より恐れます。
無価値感は数ある人の感情の中で、最も感じたく無い感情です。
だから、無価値感に捕まらない様に、取り組む事に成功を求めます。
無価値であるという感覚を、成功という結果で、覆い隠すのです。
失敗は許されません。
結果が全て、になってしまいます。
表に出すかどうかは、別として、心の中では、ヒリヒリとした悲壮感に追い立てられています。
心に安心感があって、自分の価値は事の成否に左右されない人とは、
対局の心境で物事に取り組みます。
結果として、失敗してしまったら、自分に価値が無いことを証明した様な気持ちになります。
引きずってしまうのは無理もない事なのです。
人の心の有り様を、安易に分け隔てる事は避けたいのですが、
生きづらさを手放すことを願うなら、先ず、自分が生きづらいという事をはっきりと自覚する必要が有ります。
生まれた時から、ずっと生きづらい人は、生きづらい景色しか見たことが無いので、
自分が生きづらさを抱えていることに、気が付く事が難しいのです。
ただ、苦しさは感じています。
心は重苦しいのです。
その長く苦しんだ人が、自分が生きづらさを抱えていることに気が付く、ヒントのひとつが、
先に触れた、失敗した時に、
自分という存在の価値と、失敗したという事実を分けて捉える事が出来るか、
それとも、
失敗したら、自分の存在を否定された様に感じてしまうか、
という事だと思っています。
自分の価値と失敗を分けて捉える人は、自分を肯定的に扱う親に恵まれ、自分という存在に対する安心感が育まれています。
そんな健やかな環境に育っても、心に傷は持っています。
愛情豊かな親であっても間違う事もあれば、親子と言えども、人間同士ですから、ぶつかる事も、すれ違う事も有ります。
そうした、関係性の中で、小さな傷や浅い傷を負います。
しかし、根本には愛情が有り、尊重する気持ちが有る為に、
小傷は小傷として残っても、揺るぎ無い自分の存在に対する安心感は、育まれます。
小傷はその人の個性になります。
健やかだけれども、少し怖がり、
健やかだけれども、少し怒りん坊、
健やかだけれども、少しそそっかしい、
といった個性になります。
自分には価値が無いと感じていて、失敗が自分の価値を脅かす様に思える人は、
生まれてからずっと尊重された事がありません。
常に否定的に接する親の元に育つうちに、自分には価値が無い、という思い込みを心に刻み込んでしまいます。
生まれてからずっと尊重された事が無いので、虐げられるのが当たり前です。
日々、否定的に扱われ続けたので、自分には価値が無いと思い込んでいますが、
その思い込んだ状態にしか、なった事が無いので、自分が価値が無いと思い込んでいる、という事がわかりません。
生きづらい人は、自分の生きづらさに、なかなか気が付く事が出来ません。
それでも、苦しさは感じます。
苦しみの正体がわからないだけです。
述べました様に、事の成否に自分という存在の価値が左右されるか、されないか、
具体的には、失敗しても、それはそれ、と割り切れるか、
打ちひしがれて、いつまでも引きずるか、という事が、
自分に対する安心感の有無を知るヒントになる気がしています。
安易な区別は避けるべき、ですが、
生きづらさを手放すことを願う時、
心の傷が、その人の生きづらさになったのか、
それとも、個性を形造ったのか、
その人の心に安心感が有るのか、
無価値感に満たされているのか、
それを知ることは、解放に向かう入り口の様な気がします。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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