「何も出来ない」のでは無く、「何もしない」を選んでいる
かつて幼い頃に責められて育った人は、自分で自分を責める人になります。
現れ方は人それぞれです。
いじめ問題を例に取るとすれば、
いじめる側もいじめられる側も表裏一体、同じコインの表と裏です。
いじめる人もいじめられる人も、心に強烈な無価値感を抱えています。
無価値感は数あるネガティブな感情の中でも、最も認めたく無い感情です。
どうしても認めたく無いので、無価値感を覆い隠す様に、怒りの感情が現れます。
無価値感は当人の意識するところでは、怒りに変換される事が常です。
いじめる人と、いじめられる人の違いは、
変換された怒りを他人に向けるか、自分に向けるかの違い、と言えます。
心に抱える無価値感は、かつて尊重される事無く、常に否定的に扱われる毎日を過ごすうちに、強く刻み込んでしまった思い込みです。
思い込みではあっても、それは、その人の人生に深い影を落とします。
影は、生きづらさです。
いじめる人は、無価値感から目を逸らす為に、他者をいじめることで、その場その時だけ、自分の価値が上がったかの様に錯覚します。
他者の価値を下げて、相対的に自分の価値が上がった様に錯覚するのです。
それは勿論、錯覚ですから効力は極めて短く、だからこそ、いじめは今日も明日も明後日も、執拗に飽くこと無く繰り返されます。
いじめられる人は、自分には価値が無い、という思い込みが、重すぎてうずくまってしまった人です。
その思い込みは自分に向けられます。
自分を責めてしまいます。
自分で自分を、価値が無い価値が無い、と繰り返し責めるのです。
いじめられる人は、いじめる人から責められ、心の中では自分自身にも責められ、傷だらけになって行きます。
先に述べました様に、無価値感が怒りに変換され、他者に向かえば、いじめる人に、
自分に向けられたら、いじめられる人になります。
どちらにしても、抱える無価値感に衝き動かされて、責めているのです。
どちらにしても、他人を責めながら自分を責めるか、自分をひたすら責めるか、という事になります。
現れ方は逆に見えても、無価値感を抱える人は傷だらけです。
傷だらけのまま人生を歩みます。
だから、心に強烈な無価値感を抱えた人は、人生の何処かで行き詰まります。
10代か、20代か、30代か、もっと後かも知れませんが、
何処かで行き詰まります。
動けなくなります。
世に言う、うつ状態などは、その典型例だと思っています。
無価値感を抱えた人は、行き詰まり、動けなくなって尚、自分を責めることを止めません。
行き詰まった自分は情け無い、
動けない自分には価値が無いと、
責めに責めます。
よく、頑張ることを止められない、などと聞きます。
無理に頑張ってしまう、と聞きます。
しかし、それは頑張っている、と言うよりも無価値感に追い立てられて、頑張らされている、のだと思います。
頑張る時には、自分の意思が原動力です。
頑張らされる時は、無価値感からの逃避です。
健康的な頑張り屋さんは、安全マージンを取った上で頑張ります。
行き詰まって、動けなくなるのは、追い立てられているからです。
安全マージンなど取り様がないのです。
動けなくなったなら、それは生き方を変える時が訪れた合図だと思います。
限界を迎えたのですから、色んな事情はさて置いて、先ずは休まなくてはなりません。
それには、自分が自分を責めに責めている、という事を知らなくてはなりません。
知らなくては、責めることを止めることは叶いません。
自分が自分を責めている、ということを見つけることが出来たなら、
その方向を掘り進めると、抱える無価値感に行き当たります。
無価値感を抱くに至ったかつての経緯が腑に落ちたなら、無価値感は取り払うことが出来ます。
長く苦しんで来たとしても、取り払えます。
なぜなら、無価値感は単なる思い込みに過ぎないから、です。
思い込みに実体は無く、幻の様なもの、と言えます。
だから、取り払えます。
動けなくなった人は、「自分は何も出来ない」と、自分を責めますが、
かつて、過酷な幼少期があり、
その為に思い込んでしまった無価値感があり、
それに衝き動かされる自分は、心の中で自分を責め続け、
そして、ついに動けなくなった、そのカラクリが腑に落ちたなら、
今、動けなくなった自分は、
「何も出来ない」のでは無く、
どうあっても休まねばならないから、
「何もしない」ことを選んでいる、と思えます。
そう思える様になったなら、
いつもいつも自分を責めていたけれど、
自分に優しく出来る様になった、ということだと思います。
思い込みなんて、払えます。
払えたサインは、
「何もしない」を選んでいる、と思えることです。
読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。
伴走者ノゾム
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