見出し画像

最もむごい虐待は、過保護・過干渉かも知れない

我が子に暴力を振るう親もいます。

子供を一個の人間と認めず、人格を尊重することが無いから、暴力を振るいます。

周囲から見ても、はっきりとわかり易く現れるのが、この肉体的な虐待です。

虐待という言葉を知らない人は、今の世の中には、ほとんど居ない訳で、人前で子供をぶったりする親は、昔に比べると随分少なくなっていると思います。

虐待は、少なくなったのでしょうか?


虐待が少なくなったのでは無く、ぶたなくなったということ、なのであり、虐待が減った訳では無い、と思っています。

往来で子供にゲンコツをしたら、親は白い目で見られるでしょうし、手を出さないまでも、ひどく怒鳴りつけたりしても批難は親に集まるでしょう。

虐待はそういった分かり易いものばかりではありません。

未だにはびこっているのは、肉体的に傷つけるのでは無い、心理的な虐待だと思っています。

肉体的な虐待も、親は子供を人として認めていないから、手を上げる訳ですが、

心理的虐待も、子供を一人の人間として認めていないから、起こります。

肉体的な痛みが有るか、無いかの違いだけで、根本は同じです。

根本原因は親が抱える、自分は無価値な人間である、という思い込みから目を逸らす道具、として子供を使うこと、にあります。

道具、なのですから親子関係で最も大切と思われる、尊重、とはかけ離れており、

子供は親に、所有、されます。

虐待する親に、それが虐待だ、という認識は無い場合がほとんどです。

認識の無いまま、子供を使って、自分が抱える無価値な思い込みから目を逸らし続けます。

自分は子供を虐待している、という認識が無いばかりか、

子供の為を思って、教育している、
子供の為を思えばこその、躾けである、と思っています。

この親が思い込んでいる、教育、は、親が描く理想の子供像に、我が子をはめ込むこと、なのです。

親が算数が得意な子供であって欲しい、と望めば、
そこに子供の興味、関心、適正の有無は何の意味も持ちません。

その子が国語や社会科に興味があっても、
その子がスポーツに適性があっても、

親が描いた、算数が飛び抜けて得意な子供像、に当てはめられます。

子供の自発的な興味、関心、好奇心、や、適性は、そこでポッキリと折られます。

自然に湧き上がる純粋なその子の、これがしたい、という気持ちを折って、
親の望む形にはめ込むことが出来るのは、その子を人として尊重していないから、です。

その子の感情よりも、親の感情を優先させることが出来るのは、その子の人格を尊重していないから、です。

その親が、教育とか躾けだとか思っていることの大半は、押し付けであり、人権無視であり、紛れも無く心理的虐待です。

その子の人生なのに、その子に好きでも無いことを選ばせるのは、その子を道具として使って、親が満足しようとしています。

けれども大義名分は、教育であり躾け、です。


肉体的虐待よりも、心理的虐待は周囲に見え辛いのですが、

心理的虐待の中でも、前述した押し付け、よりも分かり辛いものがあります。

過保護、過干渉、です。

それこそ傍目には、子供が可愛くて仕方が無いのだ、と思われがちです。

しかし、徹底した過保護、過干渉で育った人は、心に確かな自分という意識が育たず、自他を分ける感情の境界線が曖昧な人になります。

自分が無く、感情の境界線が曖昧な人で、人生を軽やかに歩む人を、私は知りません。

徹底した過保護、過干渉の環境で育った人は、ほとんどが、生きづらさ、を抱えることになります。

そして、肉体的虐待を受けた人よりも、
同じ精神的な虐待の、直接的な感情の押し付けよりも、

過保護、過干渉の環境で育った人は、自分の、生きづらさ、に気がつくことが難しい傾向、にある様に思います。

どの様な現れ方をしようとも、虐待の根っこは、親が抱える、自分は無価値だ、という思い込みに伸びています。

根は同じでも、思うに、

肉体的な虐待や、押し付け型の心理的虐待は、

奪う、側面が強く、

過保護、過干渉型の心理的虐待は、

騙す、側面が強い様に思います。


過保護、過干渉な親は、その子が生まれた時からその子のことを、

その子が生まれる前から自分のことを、

徹頭徹尾、騙します。

その親は、その子はおろか、自分のことまでも騙しているので、

子供に先んじて、何でもかんでもやってあげることで、
自分は子供思いの愛情深い人だと思い込んでいます。

何も出来ない無力な子供に代わってやってあげる優しい親だと、悦に入ってさえいます。

本当は、子供の為ではなく、優しい自分を演出する為の道具として我が子を使い、

我が子を、尊重する、などという事には遠く及ばず、所有、します。

「私の物」として、所有、するのです。

親が、優しい自分、に酔いしれる程に、子供は生きる力を失います。

世に言うエネルギーバンパイアの典型だと思います。

その子は人なのに、物として育ちます。

その子は、尊重、されるべき存在なのに、所有、されます。

親の感情を押し付けられるカタチの心理的虐待は、

子供には、自分の感情を抑え込んで親の感情を優先させなければならない、無念、の感覚が残りますが、

過保護、過干渉は、親が先回りして、その子に感情が湧き上がる暇を与えません。

その意味に於いて、最もむごたらしい虐待は、感情の発露を根こそぎかっさらう過保護、過干渉かも知れない、と思うのです。

過保護、過干渉に晒されて育った人は、生きづらさに気がついた時、

二手に分かれます。

気がついて尚、愛されて育った、と信じて生きるか、

親子関係の欺瞞から目を逸らさず、真実と対峙するか、です。

どう選択しても、その人の自由であり、

どちらが正解、ということもありません。

自分で決めることを禁じられて生きたのですから、

生きづらさに気がついた今、

選択権はその人にあります。

信じて進んで欲しく思います。

自分、を優先して欲しく思います。

心はきっと、知っていますから。


読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。


伴走者ノゾム















この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?