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「自分目線」で生きるとき、「今」を生きられる

心の中に、確かな【自分】という意識、が有る人は、生きていて取り立てて、
「私は心の中に【自分】があるなぁ」
などとは思いません。

その人にとっては、【自分】は当たり前にあるものだからです。

そういった健やかな心を持つ人が、【自分】を意識する場面が有るとしたら、

余程の窮地に陥った時や、人生を左右する様な決断を迫られた時ではないか、と思います。

窮地に立って、その状況に呑み込まれてしまいそうな時、心臓がバクバクしたり、呼吸が荒くなり、冷や汗油汗が出て、心の中で自分に「落ち着け」と声をかける様な時以外は、

特に【自分】を意識することは無いでしょう。

当たり前に【自分】がある、ということは、自分という存在に安心感があり、自分の価値に疑いが無い、ということだと思います。


返って【自分】を強く意識するのは、心の中に確かな【自分】という意識が育っていない人、だと思うんです。

正確には、意識しているのは、【自分】が無いことによる頼り無い感覚、と言った方が良いかも知れません。

そして、意識している、と言うよりも、執らわれている、と言った方が当たっている様に思います。

【自分】が無いのに、【自分】にしがみつこうとしている状態、です。

自分は周りからどう思われているだろうか?

自分は目の前の人から好かれているだろうか?

いつも不安です。

心の中の【自分】が育っておらず、その弱々しい【自分】には安心感など持てる筈も無く、

いつも、他人から見た自分、という視点に立ってしまいます。

よく自分を俯瞰して見ることが必要だ、などと言いますが、

自分を俯瞰して見る場合は、自分が在って、相手や周囲の他人が在って、第三者の様にフラットな視点に立って眺めることを指します。

他人から見た自分に執らわれる状態は、第三者的な視点では無く、相手や周囲の他人の視点から、自分を見ています。

いわば、相手や周囲の他人から呑み込まれた状態で自分を見ている、と言えます。

本人は、生まれた時から、呑み込まれた視点から自分を不安気に否定的に眺めていますから、

自分が自分の視点からでは無く、
ましてや、俯瞰してフラットに眺めるのでは無く、
相手や周囲に呑み込まれた視点から自分を眺めている、などとは思っていません。


心に確かな【自分】があって、「今」を生きるなら、
「今」の出来事は、【自分】の上に経験として積み上がりますが、

他者に呑み込まれた視点からの出来事は、積み上がることは無く、ただ時間と共に流れ去ります。

残るのは、その時自分は何を思い、どうしたか、という経験では無く、

その時自分は周囲からどう思われたか、ということです。

【自分】があっての出来事は、何もかも、些細な事であっても、経験となって積み上がりますが、

【自分】が無く、他者の視点に立って物事を見ると、大きな出来事であっても、それは出来事に過ぎず、経験に昇華することが、ほとんど有りません。

人生に於いて、自信を手にするプロセスは、出来事を経験に昇華すること、だと思っています。

そして経験の数だけ自信を獲得する、と思うのです。


自信、というものを分解してみたなら、その大部分は、生きる手応え、で出来ている様に思うんです。

幼い時から、教育熱心な母親と二人三脚で、3歳から英語を勉強し、受験を突破して、有名大学から、母子の希望する一流企業に就職したものの、

勉強は出来ても、職場でのコミュニケーションは全く取れず、孤立して、精神のバランスを崩し、退職してしまったその人は、

自分目線の人生を歩めず、親の顔色を伺い、【自分】は育たず、当然自分の視点を持つことも叶わず、

家では母親、学校では周囲から見た自分に執らわれ、

よって、経験は積み上がらず、「今」を生きる手応え、を感じることが出来なかったのだと思います。

ペーパーテストは満点でも、その人は自信がありません。

一人で立つ自信が無いのです。


生きる手応え、の無い人生は、他人事に思えます。

生きる手応えを得るには、自分が世の中を見る目線が必要です。

自分目線は、心に【自分】があることで、持つことが出来ます。


この人は自分をどう思っているだろう?
周りは自分をどう見ているだろう?

そんな他人に呑み込まれた視点から、世の中を見ていないでしょうか。

生き方に良し悪しは無い、と考えますが、

生きる手応え、が欲しいと思うのであれば、

自分の視点は何処にあり、

何を見つめているのか、

立ち止まり、考えてみることは、

大事なこと、だと思っています。



読んで頂いてありがとうございます。
感謝致します。

伴走者ノゾム



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