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大人の影響力は不要

 私は先生だけど、子どもたちの様子を眺めていることが多い。でも、これは誰にでも許されることではなくて、私の場合は自分が責任を持って管理している場所だから、出来ていることなのかも知れない。

 実際日本で教育を受けていると「大人がなんとかしなくちゃ」って気になってしまうし、「徹底的に管理しなさい」と言う先輩教育者もいる。それに囚われたら、子どもたちの一挙手一投足を管理したくなる。管理出来ちゃうから、尚更調子に乗っちゃう。そして自分の作品出来上がり!みたいな気分になるから怖い。ご多分に漏れず私もそういう経験がある。その時の悦に入る感じもよく知ってるから、余計に今は気をつける。良くも悪くもまだ幼くて自分では生きていけない子どもたちは、大人に従い守られて生きていこうとするからだ。それを独り立ち出来る様に十分な愛情や温かさ、学ぶことの楽しさや生きることへの希望を注いで見送るのが大人の仕事だと言うのに。逆に自分たちの思う様に動かしたり、考え方や感じ方まで押し付けたり、違和感だらけのルールを押し付けたり。この国の「教育」の目的ってなんなんだろう。疲弊する大人たちを見ながら、本気でそんなことを考えている。

 海外の先生方と話した時に「先生はね、出来るだけ楽をしなくちゃ。楽をすれば生徒が自分で考えるんだから」って言葉を聞いた時に雷が落ちた。ストンと来た。私は元々人の指示に従うのが嫌いな性分。学校生活の中で私がずっと抱いていた違和感が、いとも簡単に解消された瞬間だ。先生たちがひたすら命令してくることや叱ってくることが、唯一の正しい方法ではないのだ、と知ったのだ。
 子どもの頃の私はとにかく自分で味見をしてみたかった。いろいろ発見したかった。考えたことを聞いて欲しかった。だから、自分で見つけてきたことや考えたことを聞いてくれる両親が大好きだったし、いつも危なっかしい私の冒険を見守ってくれたことには今でも感謝している。心と体の安全管理だけ遠目でしっかりしてくれていた大人がそばにいたことで、私は安心して冒険出来た。そして私の尊厳は傷つかなかった。でも学校では自由は面倒への第一歩。先生に叱られたりする面倒が嫌で、私は言われたことだけちゃんとやろう、って思った。学校では。でも気がついたら学校が自分の1日の大部分を占めていた。
 
 そんな違和感だらけの子ども時代を過ごしたにも関わらず、大人になった私は、子どもたちにより多くの情報を与えて近道を教えることこそ大人に出来ること、それが愛だと思い込んでしまっていた。PTAの親向けの研修会や、他の子育て中の人との関わりの中で、私は自ら「子どもをいかに管理して良い方向に導くか」と考え、勝手に大きなものを背負ってしまっていた。
 でもその後機会に恵まれ海外の先生方と話したり、海外の教育に関するドキュメンタリーを観ている間に、その思い込みがポロポロと私から剥がれ落ちていった。「良きファシリテーターでいよう。」仮に授業中一言も私が発することがなくても、私がそこにいる意味がある場を作ってみよう。そう思った。
 子どもたちが何かで混乱している時、例えばものすごく揉めていて「男が悪いんだ!」「いや女が!」と言っている時などは「詳しく知りたい」旨伝えてあとは眺める。フランスのある小さなクラスのドキュメンタリー映画「バベルの学校」を観た時に、グッと来た。子どもたちが昂って相手の尊厳を傷つけることを言っても差別的なことを言っても宗教的なことを言っても、先生は黙って観ている。私の知る教育現場では、そんなNGワードが出る前に火消しが行われる。本音で話せと言われながら、かなりいろいろなルールや制御が先に入る。この範囲内で話し合いなさい、の範囲がとても小さい。トラブルに発展させたら大変だからだ。その気持ちもよくわかる。

 でも私はこの「バベルの学校」に強烈に憧れてしまった。生徒たちはとにかく何を言っても良い状態にいた。そして思いっきり傷ついたり傷つけたりする。でも、傷つくことで傷つけたことを知り、傷つけたことで傷つくことを知る。たかが子どもの会話だけれど、とことん話す場がそこにあった。

 英語の授業中に、ある生徒が「韓国人、嫌い」と言った。「何か嫌なことがあったの」と聞くと、一般的な話だった。どこかのニュースで聞いてきたのか誰かが言っているのをそのまま言っているのか。すると他の生徒が「え、そうなん。私韓国人の友達おるけど、めっちゃ良い子だよ」と言った。そしてそこで「私もね、昔はこの国嫌だなって国があったけど、知ってみたら悪くなかった」と何か良いことを発見したかの様に言った。
 それで話は終わった。私の出る幕は全く無い。子ども同士の会話の中だから「こう思いなさい」「そんなこと言うもんじゃありません」という決めつけや押さえつけではなく、ただ一つの意見として情報として心に残る。会話の中だからこそ気付くこととか刺激し合えることとかあると思う。素敵だな、って思った。こうして人は対話の中から自分の軸を見つけて育てていくんだと思う。

 奇しくもその翌日、大人が「反対意見は責められたと感じる」「反対意見を言う人は敵」という話をしていた。自分は常に正しくありたいのだろう。でも人が完全に正しくあることは難しい。そんなこと、人生経験上で言えば子どもより大人の方がわかっているはずなのにね。反対意見に慣れていない大人は、本音で話しにくい。いつも正しくいないといけない、と言われ続けて人の意見が聞けなくなってしまったのだ。怖くて、自分が正しくなくなりそうで。正しくあれ、と成長過程で言われ過ぎた結果だと私は思っている。

 もったいない。自分が不完全だと自覚して初めて、私たちは吸収出来る。伸びていける。成長出来る。不確定だが自分は完全で人の意見を聞きたく無いというのなら、成長は望めない。
 この子たちが大人になるまでには、もっと世の中は変わっているだろう。「無知の無知」「無知を見て見ぬふり」よりも、「無知」を自覚して本当の意味で自己を成長させていく人が大人になっている未来があったらいい。

 「常に完全でありたい」と、希望のないことを願っている視野の狭い大人には、もう出る幕はないのだ。子どもたちを見ながら謙虚な気持ちで一生語り合い、学び続けていたい。

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