見出し画像

短編小説:『Hero』ノトコレ・ブック

「いい事を教えてやろう」

父さんの物語はいつもこの言葉で始まった。


 病院の窓の外に立つ木の枝。葉無きそれは寒さに身を白く染め、零れ落ちずに固まった雨を纏いながら上下に揺れていた。父さんは目を細めながらじっと凍える枝を見つめ、ふと幼かった僕に振り返り、そっと物語を語り始めた。僕は父さんの語る話が大好きで、ベッドの上に両肘を立てながら目を輝かせて聞き入った。
それが、父さんの最後の物語となるとも知らずに。

 幾つもの仕事を掛け持ちしていた父さんと僕が共に過ごせる時間は、学校から帰宅後のほんの1時間程だったけれど、父さんは毎日必ず僕を膝の上に乗せ小さな物語を聞かせてくれた。巨大蛇に飲み込まれた時に、蛇の腹の中にいた小動物達と胃袋をくすぐり続け、蛇が笑い出した拍子に口から脱出した話。大波が父さんの船をさらい、船から投げ出された時に両手を筒状にして叫ぶと、ウミガメが集まり岸まで届けてくれた話。巨大魚との戦いに、森の奥に住む魔女の箒(ほうき)。台所に住む小さな妖精の囁きに、蟻の巣にすっぽりと入ってしまった時の話。
 そして夜勤の警備の仕事に出かける時には必ず、
「ヒーローの時間だ」
 そう僕に笑いかけながら呟き、胸ポケットにある名前のタグをポンと叩いたのだった。
 物語は父さんが病に倒れ場所を病院に移してからも続き、じっと父さんのベッドの上で冒険や魔法の様な話に耳を傾け、僕の空想世界は様々な色を帯びた。
 あれは寒い冬の日の午後だった。父さんはふと病室の窓の外でキラキラと氷に光る枝を見ながら、
「真冬のウエディングドレスみたいだな」
 そう呟いてそっと笑うと、
「いい事を教えてやろう……」
 僕に最後となる物語を語り出した。
 その物語の題名は今でも忘れない。
『ヒーローになる為に必要なもの』
 だが父さんは、必要なものが何なのか……教えてくれないままに天へと旅立って行った。
「いつか、また話してやるから……」
 そう、言い残して。


「要(かなめ)!ほら、早くしないと花嫁が一人で棒立ちよ!」
 母さんの声ではっと我に戻ると、窓の外には新緑がサラサラと揺れていた。
「まったく、自分の大切な日にまでボーっとしちゃって」
 僕は苦笑いをしながら、目の前に映る自分の姿を見つめた。父さんが逝ってから何度も反芻し続けた物語達。いつの頃からか僕はそれを疑い始め、口にする事もなくなり、そしてふと現実に手を伸ばす自分に後ろめたさを感じる事さえもなくなっていた。そう、大人への階段を一段ずつ上る度、あんなにも鮮やかだった父さんの物語が徐々に色褪せ、僕の空想世界は後ろへ後ろへと流されていったのだ。
 そして今、鏡に映る僕には父さんの物語がただの『膨らまされて弾けた風船の欠片』としてしか残ってはいない。
「真冬のウエディング……ドレスか……」
 無意識にふっと鼻を突いて出た笑いに、そっともう一度窓の外を覗いてみても、寄り添いながら踊る若葉にあの日父さんの瞳に描かれたウエディングドレスは映ってはいない。大人になった僕はただ、色を無くした父さんの作り話に背を向け、自ら遠ざかるように一歩一歩歩き出す。割れた風船の欠片を振り返りもせずに。
 その日、神父の前で誓いを交わし僕と舞は夫婦となった。魔法でも夢でもなく、現実世界を生きる者として。それは正義の味方でも、世界を救うヒーローでもない新しい僕の形。
「作り話はもういいよ父さん。もう、終わりだ」
 そう晴れ渡る空に向かって放った僕の心の声。宙を舞う花弁の中に、僕の瞳を覗き込む父さんの笑顔が少し寂し気に映った気がした。


 それは、式が終わり数か月が経った頃だった。
「要、舞さん、これ……お父さんから」
 舞と二人で実家を訪ねると母さんが白い封筒を二通差し出した。
「父さん……から?」
 穏やかな笑顔でコクリと頷く。封筒には、よれた文字で『要へ』と書かれている。それは紛れもなく父さんの字。封筒を持つ手がかすかに震える僕の膝にそっと舞が手を乗せる。
「父さんが、要に残す最後の物語だって……」
 父さんの物語。あの日、舞の手を取った時にキッパリと背を向けたはずの風船の欠片が僕の後ろで吹く風にふわっと揺れる。
「一つは今開けて欲しいの」
 じっと封筒を見つめ続ける僕の手から、舞が一通そっと抜き取った。
「㈠って書いてあるこの封筒……ですか?」
 母さんは舞を優しく見つめながらゆっくりと睫毛を下ろす。
「私、開けるね」
 眉を優しく寄せながら僕の横顔にそっと呟き、舞はゆっくりと封筒を開けた。
 そこには航空券が二枚折り重なって入っていた。
「オーロラの……旅?」
「お父さんが亡くなる前に私にこれで航空券を買ってくれって。当時よりちょっと高値になっていたから、そこはお母さんが少し足しておいたわ」
 いたづらっぽく微笑み、愛おしそうに舞の手に握られたチケットに目を落とす。
 ーー今更になって父さんの物語だなんて。
「母さん、これ払戻してくれないか?」
 頑なに後ろを振り返りたくない僕に、母さんはゆっくりと目を閉じて首を横に振った。そっと自分の手をチケットが握られている舞の手の上に乗せ、
「お父さんの最後の物語を聞いてきて」
 振り絞るような声でそう言った。

 新婚旅行は自分達でお金を貯めてから、そう二人で決めていた。けれど、舞は僕の心にまだ薄く影の残る父さんの風船を見たのかもしれない。父さんの物語を聞いてみたいと航空券を僕の手の中にそっと握らせた。
 そして十月、僕たちはもう一つの封筒を胸にカナダ行きの飛行機に乗り込んだ。
「二つ目の封筒は、オーロラが空に描かれた時に見てくれって。そう伝えてくれとお父さんに言われたわ」
 母さんでさえこの封筒の中に書かれている物語を知らない。幼い僕の胸を躍らせる単なる『大袈裟な作り話』にすぎないと、母さんも呆れていたに違いないのに。大人になった僕に聞いてくれだなど、『騙されたふりをしてくれ』と言っているも同然のはず。それでも、舞の手を握りしめた母さんの顔は今は亡き父さんの物語の色に染まっている様で、僕は心の何処かから湧き上がる悔しさともどかしさで一杯になっていた。
 あの寒い冬の日に聞いた物語もきちんと終わっていないのに、最後だと思っていた父さんの話を僕は今、舞と共に聞きに行く。声の無い物語を。

 イエローナイフの十月はもう既に日本の師走の寒さだった。辺り一面が雪景色で、吐き出される息がすぐさま白く凍り付く。切れる様な空気が遥か彼方を見つめる僕達の視界に透明な道筋を切り開き、僕達の心の曇りをも晴らしてゆく気がした。時折吹き付ける風に雪の結晶がふわりと舞う。僕らの周りはもう薄暗いというのに、雪に反射した光がキラキラと僕達を包み込む。
「まるでスノーグローブの中にいるみたい」
 目を丸くして放った舞のこの表現は僕の心そのままだった。まるで地球というスノーグローブの中で思い切り揺れ動かされた様に、一面にきらめく光を呆然と見つめるしか僕にはできないでいた。
「ねぇ、要……お義父さんのプロポーズの言葉、知ってる?」
 不意の問いかけに振り向くと、ほんのり染めた頬を上げながら僕を覗き込んでいる舞がいた。ゆっくりと首を横に振る。
「冬のゲレンデでね、いきなりわぁーっと風が吹いた時にお義母さん、すごく気持ちよくって両手を広げたんだって。そのままお義父さんを振り返ったら、お義父さんがじっと見つめていて……そうしたらいきなり大声で
『私の真冬の花嫁になってください!』って、そう言ったんだって」
 ふふっと舞が嬉しそうに笑った。

 ーーあぁ、そうか……あの日父さんが窓の外に見た物。

 台所で、玄関で、歯磨きをもって洗面所から出てきた時だって。母さんを見つめる父さんの優しい瞳が一気に僕の中に流れ込んでくる。父さんの微笑みに答えるように母さんもまた、優しく目を細めていたんだ。
 雪が舞う中で両手を広げ微笑んでいた母さんに、父さんはきっと真っ白なウエディングドレスを纏った『自分の花嫁』を見たに違いない。それは二人が手を取り合ってからもずっと、父さんの中で輝き続けていた父さんの大切な物語。

「あっ! 要あれっ!」
 いつの間にか暗くなっていた空に舞がすっと人差し指を掲げその指先を目で追う。一筋の緑光の帯が深藍色の空に筆で引かれるように流れ出す。
「オーロラ!」
 その光は空を這いながら枝を伸ばし、光の帯を水に溶けた絵具のように滲(にじ)ませる。まるで夏の窓辺に揺れるカーテンのように、音も立てずに風なき夜空を泳ぎ染めてゆく。緑を後追いしながら紫のベールが靡(なび)き、やがて空一面が光の洪水となり溢れ出した。
 声にならない自然の神秘を僕たち二人は、瞬きする余裕も無くすくらいに鼻を高くして見上げる。
「きっ、綺麗……」
 目の前に繰り広げられた光景に左胸がにわかに暖かくなり、ふと右手を胸に当てるとジャケットの中でカサっと音が鳴った。
 ーー父さんの……物語……。
 僕はポケットに入っていた二通目の封筒から三つ折りになった二枚の便箋を取り出した。
 一つ目の折をゆっくりと開く。

『要へ

 いい事を教えてやろう。

 これは、父さんの最後の物語だ。伝えきれなかった【ヒーローになる為に必要なもの】』

 あの時の「いつかまた」が今この瞬間であることを、小刻みに震える唇は分かっていた。
 ゆっくりと二つ目の折り目を開いてゆく。

『それは今この瞬間に、お前のもう片方の手に

 しっかりと握られているはずだ。』

 恐るおそる左手にキュッと力を込める。
 キュッと握り返された僕の左手。
 僕の手の中にあったもの。それは目を輝かせながら、真っすぐに光を見つめる舞だった。
 はらりと雪の地面に落ちた一枚目の便箋。そして現れた、もう一枚の父さんの物語。

『守るべき者を手に入れた今、お前はれっきとしたヒーローだ。

 おめでとう、そして

 父さんをヒーローにしてくれた母さんと要に

 心から

 ありがとう。

  父より。』

 父さんの最後の物語。
 空に流れるオーロラが、色を失い大人になった僕を染めて行った。

 月日が経ち、僕の守るべき者は一人から二人に、そして二人から三人になった。

「雪の女王が空を思い切り駆けだすと、暗い夜空に光がすぅーっと……って、今朝はここまでだ! 続きはまた明日だ!」
「えー! パパもう少しだけ!」
「お前らも用意しないと遅刻だぞ」
「パパも、お仕事?」
 しゅんとする子供達の頭を撫でながら立ち上がり、すっと背広を肩にかけた。

「あぁ、パパのヒーローの時間だ」

 ーー父さん、僕も父さんと肩を並べられるくらいのヒーローになるよ。



おわり(4300文字)


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ミムコさんの企画【ノトコレ】への応募作品用です:)

今もう出しちゃって…いいのか?!?分からなかったけれど、23日に応募サイトにノート記事をペタリという事で、私うっかりものなので埋もれちゃったら大変だと、今出しちゃうことにしたのですが…間違っていたらミムコさん教えてください。

そして、これを書くにあたってはDekoさんのこの記事を参考にさせて頂きました:)

企画はもう11名の方が決まっていて、残り9名は抽選になるみたいなのですが、是非皆様も応募してください:)
制作は全てミムコさんがお一人でされている事もあって、書き方は出来るだけDekoさんの記事にある様にしていただければ、ミムコさんが少しでも楽になるのでよろしくお願いします。また決まった方は500円のサポートでミムコさんの作成をお手伝いいただくことになっております:)
(私、まだサポートできない身なので、もし通ったら…その時にはPaypal、銀行口座送金、もしくは現金郵送になってしまうので、もしお手数な場合は無理せずに応募から外してくださいねミムコさん:))

という事です:)

それと実は、この物語…私の中でモデルがいるんです:)
そのモデルは…このお方!

↑私の大好きな記事。(笑)子供達の、そして奥様のHeroとして笑顔で空を仰ぐShinさんです:)

世の中の旦那様そしてパパ達が、これからもHeroとして、片手を腰に…そしてもう片手を空高く翳せます様に。


お読みいただきありがとうございました。


七田 苗子



 
 

 
 

この記事が参加している募集

つくってみた

文学フリマ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?