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『東京モンタナ急行』は永遠に

図書館よ、ありがとう!

古本屋さんに行く度に探していたけれど見つからなかった、リチャード・ブローティガンの『東京モンタナ急行』
そうだ、見つからない本があるときは図書館に行けばよいのだったと思い出し、予約しました。他館の書庫にあったのを取り寄せてもらいました。

そうそう、図書館ってこういうときのためにあったんだ。本屋さんに並んでいない本も、絶版の本も、インターネットの古本屋さんでは価格が高騰している本も、図書館は保存してくれていて、誰でも借りることができる。本は書庫で静かに並んで出番を待っている。ありがたいなあ。
お陰で良い本を読むことができました。


『東京モンタナ急行』には、当時モンタナの山中に住み、たびたび東京を訪れていたブローティガンによる131の短編が収められています。

心象風景を写すスナップ写真のようなわずか数行のエピソードもあれば、どこに着地するのかワクワクしながら筋を追う、数ページ続く物語もあります。

ブローティガンの日記のようなものもあれば、フィクションに見えるものもあります。
果たしてこれは実話か、それとも虚構なのか。

でもそうやって事実と作り物に分けたくなるのはナンセンスなのかもしれません。そもそも事実とは、自分の外で起こることなのか、それとも内で起こることなのでしょうか。


131のどのエピソードにもカラッと抜けの良いユーモアがあって、すごく好きです。
なかでも特に印象的だったのは、

史上最小の吹雪
ハーモニカ中学校
蜘蛛たちは家の中
太平洋
見知らぬ友の死
ベッドを売る男
桃の魔術
モンタナのタイムズ・スクエア
老いたる作家の自画像

と、あげていたら全てのタイトルを書いてしまいそう。
一見飛躍した、大袈裟だけど愛着の湧く比喩。生き生きと動き出す擬人法。子どもが初めて世界に対峙するような驚きに満ちたささやかな日常。世界中の誰も気に留めていない末節の事柄にどうしようもなく惹かれてしまう視点。予想外の着地。果てしない余韻を残す物語の最後の一文。どれもこれも読み出すとクセになる味わいです。


味わいというと、藤本和子さんによる食べものの日本語訳も好き。

”かえでシロップ”と書いてあると、メープルシロップより色鮮やかな感じがします。

”ベーコンとかき卵”は、今ならベーコンとスクランブルエッグと訳しそうだけど、かき卵の方が食欲をそそります。

”酢漬け牛の蒸し煮”ってどんな味がするのだろう。

”ファリナ”って、なんだろう。聞いたことのない食べものです。
ときには分からないことのある方が、豊かに感じます。

食べものから時を越えて想像が広がっていきます。


最近なんにでも乱用されている”やさしい”という形容詞はあまり好きではないのですが(天然素材でやさしいとか、無添加でやさしいとか、本当に?)、ブローティガンの文章には優しさが隠れています。心地よい、想像力があるからこその優しさです。

世の中には自分の目に見えていること以上に見えていない、込み入った事情が存在する可能性への想像力。

自身を道端の隅の方に置いて人々を眺めるブローティガンだけど、自分よりもさらに日の当たらない場所に住む人がいることへ思いを馳せる想像力。

自分が誰かを見ているとき、相手も自分を見ているのだと感じ取ることのできる想像力。

今まさに観察している対象が、翻って自分自身なのかもしれないと視点を転換することのできる想像力。

ブローティガンにはそんな想像力の生み出す優しさと、ユニークな着眼点に執着する最高のユーモアがあります。哀しいのに、どうしようもなく笑えます。『東京モンタナ急行』は落ち込んでいるときなんかに手に取るとバッチリの一冊だと思います。

例えば、納屋の電球を換えるだけでタイムズ・スクエアにひとっ飛びする話。
電球の交換だけで、こんなに楽しめる人がいるなんて。
人生って退屈なはずがない、と嬉しくなります。


それでも、それなのに、ブローティガンは自分で自分の人生を終わらせてしまったのでした。
どうしてなのか。
それは誰にもわかりません。


彼女はぼくにこういった ──
「ほんとうにもったいないことをしたと思うのよ。なぜ死ぬことを選ばなければならなかったのかしら? 人間は片腕でも生きていけるものなのに」

だが、彼の場合は、できなかったのだ。

リチャード・ブローティガン『東京モンタナ急行』より「東京で燃える片腕」からの引用


世の中には、誰かの人生には、説明されない込み入った事情があって、私たちには想像することしかできないのです。


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