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津軽散文【太宰治『津軽』引用】

「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ。」
 「あなたの苦しいは、おきまりで、ちっとも信用できません。」
「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斎藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚 節 三十七、芥川龍之介三十六、嘉村礒多三十七。」
「それは、何の事なの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。」

太宰治「津軽」一 巡礼


太宰が好きだ。
彼の文章を読んでいると、その孤独と繊細さがありありと伝わってきて、くるしい。
まるでわたしじゃないか。
人を訪ねて、誰かの機嫌がわるいと、いつも自分のせいかと思う、と何度も書いている。


最近、再編された彼の私小説をいくつか連続して読んだ。
『思い出』『冨嶽百景』『帰去来』『故郷』と『津軽』

孤独な人だと思う。

幼少期の環境か、もともとの性格かは今となっては分からぬが、彼は彼という存在の、" 根底にある安心感" を持ち合わせていなかった。

そしてその安心感をいつも手に入れようと、もがく。
ついには手に入れられずに、この地を去る。



自分は、わたしは、根底となる安心感を持っているだろうか。

物心ついたときから、いつも不安。
幸せなときほど、不安になる。

心地よい夜に頭をよぎる。
目の前にいてくれるこの人は、なにかわたしに不満があって、言いたいことがあるんじゃないかと。
わたしがなにか悪いことを言ったりやったりして、傷つけたのではないかと。
昔の喧嘩を思い出す。あのときは怖かった。

いつかは終わる。
永遠は永遠ではない。
終わらなくとも、いつかは死ぬ。

それは今日ではなくても、それが分かっているから不安なのだ。
終わると分かっているのに、そのことを曖昧にして、のほほんと生きれる人が、分からない。
白黒つけて、はっきりさせたい。
世界は白黒つけれないことのほうが多いのに。
理不尽である。


自分が存在していることに対して" 根底の安心感" を持ち合わせているひとは、物事を曖昧にできる能力が高いんだろうな、とぼんやり思う。



わたしは昨日死にたいと願い、今日は終わりが今日でないことを願う。

そのうちにこれがいつまで続くんだろうと思い、また終わりに思いを馳せる。

きっとこれが、死ぬまで続く。



それにしてもたった100年しか変わらない、日本の情景は、あたたかい。
戦争がある。政治活動がある。人は簡単にばたばた死ぬ。
だけど、何度人を裏切っても、堕落しても、近所のひとや遠い親戚の誰かが手を貸してくれたりする。

太宰治も芥川龍之介も、正岡子規も宮沢賢治も孤独なひとだなだと思う。

だけどその孤独の質はどこかすこし、鷺沢萠や二階堂奥歯のそれとは違うだろう。
わたしたちは隣人の顔も知らないし、気にかけておせっかいをしてくれる近所のおばちゃんも、親族もいない。

みんなが同じ小説を読んで、同じ新聞に目を通し、政治的意見を食い交わす時代には生きていないのだ。



本を読むと孤独が紛れる。
だけどそれは、現実逃避で、離人しているような感覚でもある。
その証拠にわたしは、現実感のある、「現代の日常が舞台の小説」が大嫌いである。

安心感を求める人は少なからず、そうした分離の感覚を持っているように思う。

太宰の幼少期の演技のさま。
なにが自分だろう。


私は真理と愛情の乞食だ、白米の乞食ではない。

太宰治「津軽」



どうでも良いけど、サマータイムが終わり、昨日は一日が25時間だった。
よく寝たのにまだ朝で、不思議だった。

半年前、一日が23時間だったあの雨の日を思い出して。
時が流れるのが早くなっていて、怖い。



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