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他者の反応から生じる「分かる」

 私は自分の心に浮かぶ思考・想念・感情を言語化することで、自分を知るための一助としていますが、それ以外でも、自分の思いに対する他者の反応を見ることで自分を知ることもあるのだな、と最近思いました。
 まあ具体的には、先日上げた有料記事への反応を見て思ったのですが。

 私にとって非常にデリケートな内容であったため、公開するのはためらわれましたが、それでもこの私の感情や思考についてみなさんがどう思うのかも知りたくて公開しました。でも誰彼かまわず読まれたい文章ではないので、読むためのハードルを上げるために有料記事としました。
 購入して読んでいただいたのは、私の普段の記事を読んでくださっている方々で、いただいたコメントも好意的な内容が多くホッとしました。気を遣って好意的なコメントをしてくださった可能性もありますが、純粋に好意的に受け止めてくださったのだろうと信じることにします。

 

 私自身が嫌悪している心について、しかも私が「悪い」と断じているような内容について書いたつもりだったのですが、それが私が予想した反応とは違う受け入れられ方をされていたのが、私にとって意外であり不思議でした。かなり緊張して、不安に思いながら公開したのですが、そこまで固くなることは無かったのかな、と力が抜けた思いです。
 

 他者からの反応は自分の考えの範疇を超えたところに目を向けさせてくれます。
 自分で自分の思考などを言語化して観ることは確かに自分のことを理解する一助になりますが、言語化したものを解釈する物差しは自分のものです。自分の物の見方でしか見ることはできません。
 しかし、人からの反応というのは、見る人それぞれの物差しで見るわけで、見る人の数だけ解釈が異なります。解釈が変われば評価も変わります。その中には当然「その考えは私には無かったな」という解釈や評価もあるわけで、そういう他者の見方によって自分の新しい側面が見えたりします。


 「分かる」の語源は「分ける」だと言います。
 私は心に生じる思考や感情を言語化することで内容を腑分けしている感覚があります。それはいろいろな思考や感情が絡み合った状態を一つ一つ「分ける」行為で、その結果「分かる」という状態が私に生じています。

 他者からの反応を受けることは、自分で自分の思考の内容を腑分けするのとはまた違った「分ける」効果があると感じます。この場合は「差異を明らかにする」という意味の「分ける」でしょうか。
 私が思っていなかった方向からの評価や、自分が見ていなかった物事の側面を示してもらうことで、「なるほど、これにはそういう意味付けができるのか」と新しい面を知ることができます。そうすることで、その思考の輪郭がより明瞭になり、他の事象との差異が明らかになります。つまり「分ける」ことができます。
 私の分け方とは違う「分ける」が行われることによって、私だけの理解とは違う「分かる」が生じます。


 思えば、私は長い間自分の頭だけで物を考えていました。
 noteで書いているようなことを雑記帳や日記に書いてはいましたが、それは自分だけが読むもので人に読んでもらって反応をもらうことはありませんでした。そもそも人に読んでもらうことを想定して書いていたものではありませんでした。でも人に読ませていなかった一番の理由は、たぶん怖かったのだと思います。自分の考えが否定されたり「変だ」と言われたりするのが。

 noteで記事を上げるようになり、人から反応をもらうことが増え、それによって変化している自分がいることを感じます。それは、読んでくださる方からの反応によって自分の思考や感情を「分ける」ことができているからだと思います。
 共感してくださる方、自分の感想を書いてくださる方、自分の経験を書いてくださる方、様々な反応をいただいていますが、自分一人で考えているだけでは決して得られない「分かる」が生じます。

 自分を他者の前に投げ打つことで得られる「分かる」をこのnoteで味わっています。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!