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皇室と結婚を巡る「呪縛」のような報道

小室圭さんと眞子さんの結婚会見は、お詫びの言葉を二人が語らなければならない異様な様相だった。

圭さんの言葉をそのままお借りすれば、「母と元婚約者の方との金銭トラブルと言われている事柄」について、憶測や中傷が今も止まらない状況だ。

以前の記事にも書いたことではあるが、別人格であるはずの親と子を同列に語る報道は、「家」や「血筋」に人を縛ろうとする呪縛のようなものだと感じる。

また、会見で語られたように、小室さんのお母様の「元婚約者」の窓口が「週刊誌記者」なのだとしたら、それも歪んだ構造だと思う。

会見後、テレビではコメンテーターたちがこぞって、「もっと早く説明すれば」「もっと早く会見して誤解を解いていれば」と圭さんの態度の問題に矮小化するような言葉を放った。

では、「誤解」が広がったのはなぜなのか。誰がその「誤解」を広めたのか。その点を省みなければ、問題の本質には永遠にたどり着かないのではないだろうか。

私はこの状況が続く中で、圭さんが会見をしたところで、メディアのバッシングがぴたりと止まったとは思えない。むしろまた一部メディアが、新たな「ネタ」として消費していたのではないだろうか。

会見だけではない。既に「私人」であるはずの2人が都内のマンションに到着するまで追いかけていくことが果たして「報道」だろうか。

こうしてプライバシーにずかずかと踏み込み、答えることが義務であるかのような勘違いをして、ここに叩いていいターゲットがいると旗振りをしてきた報道のあり方こそ深く省みられるべきだと思う。

以前から指摘してきたことではあるが、「国民」として扱われていない皇室の人々には、様々な人権上の制約がある。

例えば「職業選択の自由」。生まれながらにしてその選択肢を狭められ、年齢を重ねて「退位したい」となっても、特例法まで作ってようやくそれが実現できるような状況だ。

女性が皇族から離れたいとき、その手段が「婚姻」しかないのだろうか。そもそも、皇族にセクシャルマイノリティーの方がいたら、その人の婚姻を含めた権利はどうなるのだろうか。議論しなければならない点は多々あり、「タブー視」してはならないところではないだろうか。

「税金で暮らしは保障されてるだろう」という乱暴な声も聞こえてくるが、衣食住が守られていれば人権が奪われていいことにはならないだろう。

ネット上で飛び交う過激な言葉を前に、「結婚はこうあるべき」「女性はこうあるべき」など、なぜここまで多くの人々が誰かの未来への選択まで、支配しコントロールできると思っているのか、様々な課題があぶり出されたと思う。また、その相手が自由にものを言えない立場にあること、女性であること、若いことなども関係してくるはずだ。

バッシングをするメディア側は時折「読者のニーズがあるから」とこうした声を利用する。

ニーズがあってもやってはらないことがあるのはもちろんのこと、「読者のニーズ」を言い訳にするのであれば、読者の側から「そんな報道は求めていない」と地道に働きかけることも、無駄ではないはずだ。

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