見出し画像

グーグルには絶対に載らないうどん屋六選

 私が無類のうどん好きである事は普段私の記事を読んでいる人ならとっくにご存知のはずだ。こどもの頃、親に連れられて初めてはなまるうどんに入ったあの夏の暑い日からだいぶ年月が経ったが、いまだにその時食べた天かす生姜醤油全部入りうどんの味が忘れられない。汁の海に漂うウミヘビのようなうどんに飛ぶ力を与えて竜へと変身させてしまう天かす。汁の海底からたち登る海の塩のような生姜。そして我々の世界に恵みをもたらしてくれる黒き雨の醤油。忘れようたって忘れられるはずがない。それから私はうどんとともに生きてきた。親よりもうどんが大事と思いたい。うどんをバカにするものは親でも〇〇す。そんな思いでずっとうどんと付き合ってきた。今回はそんな私が行きつけのグーグルには絶対に載らないうどん屋から徹底的に厳選した六店舗を紹介する。

 まず店の紹介の前に私が認めるうどん屋の判定基準を書くことにする。私の認めるうどん屋の絶対条件とは天かす生姜醤油全部入りうどんが食べられる事に尽きる。これが食べられぬうどん屋はうどん屋ではない。うどんもどきをうどんと称して食わせている詐欺店舗である。この間、うっかりそんなうどん屋に入ってしまった。その店は詐欺店舗である店にも関わらず高級うどん店と称しており、私はその看板に騙されてそのうどん屋に入ってしまったのである。私は当然うどん屋だと思っているから店に入るなり、かけうどんに天かすと生姜と醤油を用意してくれと頼んだ。しかしこのうどん屋はなんと私の注文に「うちはまともなうどん屋なんで天かすなんて用意できませんよ。天ぷらでよろしいですか?」と言って来たのだ。この男は唖然とする私に向かって「あの~、今日生きの良い伊勢海老が入りましてね。注文されるんでしたらすぐに揚げるんでいかがですか?」などと戯けるにも程がある事を聞いてきたのだ。なんという店であろうか。天かすをバカにし、さらにうどんを天ぷらのおつまみ扱いするとはなんと罰当たりな店であろうか。私は激怒のあまりどんぶりを叩きつけて店を出たが、その時詐欺うどん屋の主人を思いっきり怒鳴りつけてやった。

「馬鹿者め!天かす生姜醤油なきうどんなどうどんとは呼ばん!うどん屋を名乗るなら!天かす生姜醤油ぐらい満杯に用意しておけ!」


 私はあの時こんなふうに詐欺うどん屋の店主に向かって怒鳴りつけてやったのだが、今、店主は私のこの言葉を聞いて反省して天かす生姜醤油うどんを出しているだろうか。残念ながらそれは今確認は出来ないし、しようとも思わない。天かす生姜醤油全部入りうどんを作っていないであろうことが簡単に想像できるからだ。なぜなら本物の天かす生姜醤油うどんを作るより、高級うどんと偽って天ぷらのツマミとしてうどんもどきを出すほうが儲かるからだ。世の中にはこんな詐欺店舗が堂々と高級うどん店と称してうどん知らずの哀れな一般大衆に毎日詐欺行為を働いている。だが私は大衆がいつか真のうどんに目覚める日が来ると信じている。いや、日々必死で天かす生姜醤油うどんを作っているうどん職人のために一刻もその日が来なければならぬ。本物の天かす生姜醤油全部入りうどんを作るには徹底的に味覚を磨かねばならない。そうしないと麺とつゆと天かす生姜醤油の味のバランスが掴めないからだ。天かす生姜醤油全部入りうどんを作るには意外にも鍛錬が必要なのだ。私の認めるうどん職人は皆その技術を身につけている。しかし現在その彼らには本来あって然るべき評価が与えられず、詐欺うどん屋の偽りの人気に隠れてしまっている。私は日本国民が彼らうどん職人に願ってこうして天かす生姜醤油うどんを広める記事を日々書いている。

 これから紹介する六店舗は全て天かす生姜醤油全部入りうどんを出している本物のうどん屋だ。この六店舗の天かす生姜醤油全部入りうどんが広まったらそこら辺の偽物うどん家など即廃業であろう。では早速紹介する。

手打ちうどん 江戸前

 最初に紹介するのは東京の中心の神田にあるうどん屋『手打ちうどん 江戸前』である。このうどん屋はその名の通り創業は江戸時代という名門うどん屋であるが、その歴史に恥じぬ見事な天かす生姜醤油全部入りうどんを作っている。店は東京大空襲で一度木っ端微塵となったが、戦後店を惜しむ有志の協力によって復活したという。この伝統ある店構えの暖簾の奥には江戸前そのままのいなせな親父がいる。この店主のご先祖は讃岐出身のうどん職人であり、京の都で徳川家康に召し抱えられそのまま江戸に移住したという。そのこともあってかこの店の天かす生姜醤油全部入りうどんは醤油味が他の店より若干濃い。しかし讃岐の滑らかさと濃口醤油の味はミスマッチであるどころか、絶妙な対照効果を生み出し、うどんの味に濃い陰影をつけて味を引き立たせる。うどんを啜っていると、ふと家康の名文句である「人の一生は重い荷物を背負っていくものだ」とい言葉が浮かんできた。京から未開の江戸に下った家康もこの濃口醤油の効いた天かす生姜醤油全部入りうどんを食べて苦難の人生を思い起こしただろうか。天かすは天ぷら好きの家康が好んだであろうパリッとした歯応えのあるいかにも江戸前風の天かすだ。生姜は昔の汚れていなかった江戸前の海の塩を思い起こさせてピリッとした心地よい刺激を与えていた。ところで私はこの天かす生姜醤油全部入りうどんを食べいて重大な疑問に思い至った。この店は自分の店のうどんわ徳川家康も食べた天かす生姜醤油全部入りうどんと宣伝している。たしかにご先祖が家康の料理人らしいから信憑性もなくはない話である。しかし天かすがそんな昔からうどんに使われていたのだろうか。私はこの疑問を直接店主にぶつけてみた。すると店主は江戸仕込みの巻き舌で話してきた。

「いやぁ、旦那。もしかしてうちのうどんがパチモンだとお疑いですかい?そんなこと言われちゃあご先祖が泣きますぜえ。旦那は神君家康公が天かすうどんなんざ知るわけねえとおっしゃるんですかい?そりゃいくらなんでもひでえ話でさぁ!家康公とうちのご先祖が聞いたらアンタ即打首もんですぜえ。だって旦那、天かす生姜醤油全部入りうどんを最初に食べたのは神君家康公ですぜ。ご先祖がちゃんと日記に残してたんでさあ。その日記は関東大震災か東京大空襲で燃えちまったんだけど、あっしはじいさんから子守唄がわりに聞かされてるんでさあ。その記録によると大阪の陣が片付いて江戸城に戻った神君はさっそくご先祖様に鯛の天ぷらとうどん食べたいとご先祖に申し付けたんでさあ。だけどご先祖、いきなりの申し出に動揺して、思わず天ぷらの残り滓と生姜と醤油ぶちまけちまった。ご先祖はこりゃ行けねえ打首もんだと大慌てでさあ。でご先祖は慌ててうどんを作り直そうとしたんだが、神君は早くせいとせっついてきなさってそれでもうご先祖生きた心地もなく、天ぷらと天かす生姜醤油全部入りうどんを出したんでさあ。だけど旦那神君家康公は流石の天下人でさあ。傍に控えている家来衆が大御所様にこんなもの出し腐りおって今すぐ打首にしてくれるというのを宥めて、わしが引き立てた料理人がそのような無礼を働くはずはない。これはきっと美味なる品なるぞと家来衆を宥めてそのまま天かす生姜醤油全部入りうどんを召し上がったんだ。したら神君天かす生姜醤油全部入りうどんのあまりの美味にもっとくれなんてご先祖にせがむじゃねえか。それ以来神君は天かす生姜醤油全部入りうどんを食べ続けてな。それが家来衆から街中にも広まって江戸に天かす生姜醤油全部入りうどんありと言われるようになったんでい。わかったかい旦那?このうどんにはあっしらがご先祖から受け継いできたものが全部入っているんだい。決してパチモンじゃねえぜ」

 私はオヤジの話を興味深く聞いた。彼の先祖と徳川家康に実際に会ったどころかその先祖なる人物が実在するのかさえ確認出来ないし、彼の話自体信憑性は全くないが、このうどん屋が江戸の昔から現在にかけて続いてきたのは事実である。それゆえこのような伝承が生まれたのであろう。しかし徳川家康が料理人が天かすをこぼしたうどんを食べて感激したのが天かす生姜醤油全部入りうどんの始まりだなんてあまりに出来すぎた逸話だ。だがそれは実は真実かもしれない。私はうどんを食べ終って外に出て遠くに見えるかつて江戸城と呼ばれていた建物を見て、往時の天下人徳川家康が天かす生姜醤油全部入りうどんを食べている姿を思い浮かべた。

手打ちうどん 江戸前
営業時間11:00〜21:00
休日:水曜日

うどん屋安土城

 徳川家康のうどんに続いて織田信長絡みの店を紹介する。この『うどん屋安土城』は信長が琵琶湖に作った有名なあの城からとられているが、店があるのはこの日本最大の革命児と呼ばれる天下人の夢の跡である安土城跡ではなく、その信長が生まれた清州城のある清須市である。清州城直下にあるのだからうどん屋清州城とでも名乗っておけばよいではないかと思うが、実はこれには理由があり、店のHPにちゃんとその理由が書かれているのである。うどん屋の店主は毛筆でこんな事を書いている。『夢の途中に倒れし信長、今ここに甦る。うどんの天下統一を掲げて再びこの清須の地から安土を目指さん。』店主はこの勇ましい、まるで信長が取り憑いたような宣言文から出てきたような男だ。信長の寿命をとうに超えているにも関わらず未だ黒髪のこの南蛮衣装を着た店主は再びかの地に安土城を築きうどんの天下を統べらんとしているのだ。

 この店のおすすめメニューは当然天かす生姜醤油全部入りうどんであるが、さらにスペシャルメニューとして安土城うどんなるメニューがある。このメニューは天かす生姜醤油全部入りうどんをマシマシにしたものだが、これが恐ろしく美味い。安土城の如き天まで届かんとするほど積まれた天かすは琵琶湖に聳え立つ安土城の天守閣を思わせて、それがうどんを天下の高みにまで連れて行ってくれるし、生姜は琵琶のような厳しい音でうどんの旨みを覚醒してさせてくれるし、醤油は琵琶湖と安土城が透き通って輝くほどうどんを煌めかせてくれる。まさにこの尾張の地から再び安土を目指さんとする信長の野望を体言した味だ。先に紹介した江戸前うどんがそのシンプルさで舌を唸らせるなら安土城うどんはその壮大さで舌を圧倒する。我々はうどんを食べながら古の信長の野望の壮大さを思い、信長がなしえたであろう天下を夢見るのであった。

 私はうどんを食べ終わった後に店主と天かす生姜醤油全部入りうどんについて語りあった。店主は私が徳川家康が最初に天かす生姜醤油全部入りうどんを食べたという話をするとまるで在りし日の信長の如く包丁を振り回して憤激した。

「出鱈目を言うな!天かす生姜醤油全部入りうどんを最初に食べたのは信長公に決まっているだろうが!俺は信長公の家来だったご先祖様の日記帳に信長公が天かす生姜醤油全部入りうどんを食べたって書いてあるのを見たことがあるんだぞ!残念ながらその日記は間違って新聞と一緒にゴミに捨てちまったんだけどその記録にはな信長公が天かす生姜醤油全部入りうどんを食べたってことがしっかりと書かれてあったんだ!それによると信長公はあの忌まわしい本能寺の変の前に京に光秀と家康を招待したんだ。それでやってきた二人に天ぷらとうどんを出すために信長公は寵愛する森蘭丸とそのお付きだったご先祖様にうどんを作らせたんだ。だが、まだガキだった蘭丸とご先祖様は大役に緊張してなんと天かすと生姜と醤油を全部うどんにぶちまけてしまったんだ。蘭丸とご先祖様は当然後から作り直そうとしたが、信長ははようせいと催促してくる。こうなったらもう出すしかない。蘭丸は一人震えながらうどんを盆に乗せて信長公の所へ向かったよ。そして信長公の元にうどんを出したんだ。光秀は天かす生姜醤油全部入りうどんを見るなり刀を抜いて蘭丸に突きつけるじゃないか。「上様に向かってこのようなゲロの如き代物を出すとは無礼千万光秀上様の代わりにこの者を切って捨てて参りまする!」それを見たウンコちびりの家康はまたウンコ漏らしそうなほどビビりやがって震え上がりやがった。だが信長公は顔色一つ変えずにうどん箸をおつけになりそのままスルスルと召しあがった。そして目を輝かせながらこうおっしゃったんだ。「蘭丸、なんという美味なうどんであるか。まさかうどんに天かすと生姜と醤油を入れるだけでこれほど美味になるのか。蘭丸余は満足じゃ。家康も食べい」これを聞いて先ほどまでウンコ漏らしそうなほどビビっていた家康は命じられた通りうどんにかぶりついて同じように美味い美味いと言ってわざとらしく蘭丸を持ち上げた。一方早まって蘭丸に刀を突きつけちまった光秀はたまったもんじゃない。自分がゲロ扱いしたうどんを信長公や家康が美味いって褒めたんだからな。光秀はもう動揺し切って信長公に平伏し切っているじゃねえか。信長公はその光秀に天かす生姜醤油全部入りうどんを食わせたんだ。だけどこの京育ちのプライドの高い光秀は天かす生姜醤油全部入りうどんの美味さがわからなかった。光秀の味覚は天かす生姜醤油全部入りうどんを認めるには古すぎたんだ。光秀は結局天かす生姜醤油全部入りうどんを残してしまった。口を押さえながらもう食べられませぬと平伏してな。信長は激怒してその場で光秀を打擲した。光秀は叩かれながら思ったに違いない。こんなゲテモノうどんが世に広まったら日の本は終わりだと。光秀は天かす生姜醤油全部入りうどんを憎み、このゲテモノうどんを広めようとする信長は日の本の敵だと見做した。そうして奴は本能寺で信長公を打ったわけだが、奴を天下人と認める奴は誰もいなかった。光秀は天かす生姜醤油全部入りうどんを嫌うがあまり信長公に謀反を働いた愚か者。そんな人間の味方になる奴は誰もいないさ。その後俺たちの先祖はこの清洲に戻りうどんで信長公の遺志を果たさんとこうしてせっせと天かす生姜醤油全部入りうどん作りに勤しんでるわけさ」

 店主は言いたい事を言うといきなり包丁をかざして上を向いた。彼が見ていたのは歴史の彼方に聳え立つ安土城であったかもしれない。私はうどん屋の店長の話の真偽はともかくそれを話す彼の口ぶりに天下人織田信長の姿を感じた。私はおあいそをして店を出て清洲城の周りを散策した。この安土城のミニチュアみたいな城のふもとで再び天下を目指さんと天かす生姜醤油全部入りうどんを食べて名乗りをあげる信長。彼はいつか再び安土城を建て琵琶湖を肴にうどんを食べる日が来るのだろうか。

うどん屋安土城
営業時間:9:00〜21:00
休日:無休 年末年始は除く

手打ちうどん 太閤殿下

 三英傑の締めくくりとして三店目は豊臣秀吉ゆかりの店を紹介する。この店は太閤殿下と名乗るだけあって他のどこのうどん屋よりも遥かに豪奢な店構えである。店の屋根と柱は金が塗られ暖簾を潜るとまるで聚楽第を思わせる豪奢な店内が広がる。この店のある場所は天下茶屋である。天下茶屋といえば秀吉と千利休が初めてあったところとして知られ、言い伝えによるとこの地で千利休から茶を出された秀吉は茶の旨さに感激しそれから利休を茶人として召し抱えるようになったといわれている。現代ではこの地は西成地区に属しているが、秀吉を偲ばせるものはほとんど残っていない。今この地はドヤ街であり、隣の地にある高級住宅街と著しい対象を示している。その中にこの金で覆われた店がポツンと建っているのは明らかに異様である。しかし同時にこのドヤ街らしいとも感じる。この界隈はドヤ街と風俗街で分けられているが、それはまさに天国と地獄のような有様だ。日雇い労働者たちはただ食べるために、風俗街に行くものはことの下拵えか、あるいはこと済ませた帰りに締めるためにこの店に立ち寄る。この店の客は様々で、人間の有り様を否応もなく見せつけられる。その人間のいろんな欲を詰め込んだのが、この店の一押しメニューである天かす生姜醤油全部入りうどんだ。この店のうどんは太閤と名乗る店だけのことはあり、全てが黄金色に輝いているような感じだ。天かすはたっぷりの油を含んで輝き、生姜もまた水気を含んで店内の金箔に照らされて輝いている。そして関西風の薄口醤油は黄金色のうどんつゆと混じり合い金色を濃くしてうどんを下から照らし出す。

 この店の天かす生姜醤油全部入りうどんは日本で一番豪華なものだと言っていい。見た目も今説明した通りだが、味もまた壮麗を極めている。うどんに巻きついた天かすは淀殿のお召し物だ。私はうどんを食べる時、うどんがまるで淀殿その人に思え、天かすを剥ぎ取られ白き肌を晒す彼女の羞恥のそぶりを感じた。その白き女体のようなうどんを食べるのは何か背徳的なものを感じてどうしても躊躇いが生じる。このうどんを太閤秀吉の居間で食べて良いものか。下手したらあの世から太閤秀吉が飛び出して来たら私はどうすれば良いのか。しかしタブーによって恋が燃え上がるように食欲もまた盛り上がる。私は痛くないよとうどんに声をかけながら優しく彼女を摘んで舌で天かすを脱がせてうどんを食べた。何という極上の味であろう。まるでエレベーターで大坂城の天守閣に登りそうな味である。この天かすは油であり蜜でもある。私は蜜を啜るが如く必死にうどんを啜った。生姜はいわば換骨油だ。私とうどんの間を繋げ天国へと導くものだ。そして醤油は私たちの血だ。私は太閤の天かす生姜醤油全部入りうどんを食べながら天国的ともいえる恍惚を感じていた。私はこの太閤秀吉の居間で激しくうどんを貪り食べたのである。

 うどんを食べ終わった後の充実感と脱力感を同時に味わったような妙な感覚が通り過ぎて我に返った私はカウンターの向こうに立っている『手打ちうどん 太閤殿下』の主人の顔を見た。先ほど主人の紹介を忘れていたが、この主人も店に負けず劣らず強烈なインパクトがある。全身キンキラキンの衣装に身を包みまるで大福神のようにでっぷりと太っている親父は通天閣のビリケンさんを思わせる。というより我々が想像する大阪人をそっくりなぞったような男だ。私はこの親父と彼の太閤の名がついた店の名前を見て年来の疑問が頭をもたげてくるのを感じた。大阪人は何故こんなにも豊臣秀吉が好きなのだろうか。基本的によそ者が嫌いな大阪人はどこかの山猿の秀吉などよそ者は来たらあかんと忌み嫌うはず。なのによそ者の秀吉は今に至るまで大阪のシンボルであり、今なお太閤はんと親しまれているのだ。私はうどんを食べて少し興奮したのか気が大きくなって主人にその疑問をストレートにぶつけてみた。すると主人は福々しい笑い声をあげて答えた。

「アンタ何言うてはりまんねん。ワイら大阪のもんがなんで太閤はん好きやって?そりゃ大閤はんがビックよりヨドバシカメラな夢持ってたからに決まっとるやないか。太閤はんがくるまで大阪は京都のカスでできとる街やってバカにされとったんや。せやけど太閤はんは来ていくらもしないうちに大阪を夢と希望に溢れたビックよりヨドバシカメラな街に変えてくれたんや。しかも墨俣城みたいにたったの一晩でやで。太閤はんのおかげで大阪はかすうどんみたいなカスやない。カスはカスでも天かす生姜醤油全部入りうどんみたいな天国のカスやって自身がついたんや」

 ビックよりヨドバシカメラな夢か。いかにも大阪人らしい東京への対抗心むき出しの言葉だが、彼の言いたいことはなんとなくわかる。しかしこの主人は何故自分のうどん屋に太閤と名付けたのだろうか。単に秀吉のようにビックよりヨドバシカメラな夢を持とうという心意気のためか。それとも彼もまた神田と清洲のうどん屋がそうであったように秀吉と縁のある人間の末裔なのだろうか。私は勢い任せに尋ねてみた。すると主人は待ってましたとばかりにその福々しい太鼓腹を叩いて答えた。

「旦那はん、よう尋ねてくれはったな。何故にワイが太閤ってうどん屋やっとるか。それはワイが石田三成の寺の小僧時代の弟子仲間やったうどん職人の末裔やからや。アンタも三成の三度のお茶の話ぐらい知っとるな?太閤はんが三成の気遣いに感動して家来に取り立てやっちゅうええ話や。実はあの話には続きがあってな、三成はお茶の後で太閤はんにうどんを出したんや。太閤はんはこのうどんが大層お気に召してな。それでほんまに三成を家来にすることに決めたんや。考えてもみい。あの派手付きの太閤はんがお茶如きで三成を家来にしようと思うか?お茶じゃ太閤はん満足せんやろ。三成を家来にしたのはうどんや。だけどこのうどんを出すとき大変なことが起こってな」

 私はここまで話を聞いてオチがどうなるか完全に読めた。実際主人の話は私の予想したオチを忠実になぞった。

「三成とうちのご先祖様は太閤はんへの感謝を込めてうどんと天ぷらを出そうとしたんや。だけど天ぷら持ってたご先祖はんすっ転んで天ぷらの天かすと生姜と醤油を三成が持ってたうどんにこぼしてしもたんや。天ぷらの本体は床に落ちたんやけど、運の悪いことにご先祖はん慌てふためいて天ぷらみんな足で踏んでしもたんや。あかんどないしよって三成とご先祖はん悩んだんやけど結局どないしてもしょうがないやろって震えながら太閤はんに天かすと生姜と醤油が全部入ったうどん出したんや。太閤はん天かすと醤油と生姜が乗ったうどん見てびっくり仰天してこれはなんやって二人に聞いたんや。そのとき三成とご先祖はん生きた心地がしなかったと思うんや。だけど太閤はん、三成とご先祖はんにこりゃ金が浮いているようで美味そうやなって笑ってそのまま食べたんや。三成はこのうどんのおかげで出世して、一方うちのご先祖はんはこの黄金に輝く店を作ったんや」

 主人が笑いながらこう語り終えたので、私は神田と清洲でそれぞれ三英傑と深く関わったらしきものの末裔たちがやっているうどん屋で同じような話を聞かされた事を話し、彼らの話の落ちも同じだと教えた。太閤の主人は同じ天かすをこぼす落ちだとすると主人は私の言葉に苛立ったたしく露骨に不機嫌な顔をして私に食って掛かってきた。

「じゃあ旦那はんはワイがその家康とか信長の末裔とかいうパチモンみたいなホラ吹きやって言うんか?せやない、ワイは生まれてから一度も嘘なんかついた事ない。ワイは爺さんから毎日この話を聞かされてきたんや。昔は古い記録もあったんやけど何代目かのご先祖なんがその記録を便所の紙にして捨ててしもたらしいけどな。せやけどワイの話はホンマの話やで。大体その家康だか信長の付き人が天かす生姜醤油全部入りうどんの生みの親やってどういうことやねん。信長はんやったらまだわかる。信長はんは太閤はんの天かす生姜醤油全部入りうどん一緒に食った仲やさかいな。だけどあのうんこちびりのたぬき親父が天かす生姜醤油全部入りうどんの生みの親やってのはありえへん。ほなこと言ったら大阪人みんな腹抱えて笑うで。あんな下痢男に天かす生姜醤油全部入りうどん食わせたらお腹ピーピーで泣くってな。ええか、天かす生姜醤油全部入りうどんを最初に作ったのは太閤はんに仕えたうちのご先祖はんなんやぞ。きっとその家康の店も信長の店もうちの店の話パクったんや。天かす生姜醤油うどん最初に作ったのは太閤やおまへん、ウチやとか言ってな。アンタ今度家康と信長の店行ったら奴らにちゃんと言っとき。天かす生姜醤油全部入りうどん作ったのは太閤はんやって!」

 強烈なまでの太閤愛であった。私は彼の太閤愛に圧倒され言葉が出なかった。しばらくして落ち着くと私は主人にこの店はいつ開業したのか聞いた。すると彼は突然悲しそうな顔をしてまた話を始めた。

「アンタそんなに人に根掘り葉掘り聞いてどないすんねん。ひょっとしてまだワイの話疑っとるんかい。まあええわ、もう洗いざらい話したる。ワイのご先祖はんがここでうどん屋始めたのは安土桃山の昔や。ご先祖はんは太閤はんの茶室係として勤めとったんや、だけどあの事件が起こってしもた。アンタ歴史に詳しそうやからこの天下茶屋で太閤はんと千利休はんが初めて会ったの知っとるよな?昔この辺にあった茶室で利休はんに茶を振舞われた太閤はんがその茶のうまさに感激して利休はんを茶人として登用したんや。利休はんは太閤はんに茶とは何かを教え、太閤はんも真面目に学んどったんや。だけど太閤はんはすぐに茶を覚えてしもてだんだん利休はんの茶に満足できなくなったんや。利休の茶には何かがない。太閤はんはなんやろなって考えてすぐに答えが見つかった。それは三成とワイのご先祖様が太閤はんに出したあの天かす生姜醤油うどんや。そや茶会に天かす生姜醤油全部入りうどん出したらみんな喜ぶがなと太閤はんは考えた。利休に言ったろ。お前の茶つまらんからうどんつけたるわ。これで大阪のみんな喜ぶで、お茶とうどん案外ええな。うどんの後のお茶は飲んでスッキリするし、満腹にもなるなんて言うてな。だけど利休はんはそれ聞いて怒ってしもたんや。茶バカにしとるってな。だけど太閤はんはそれでも茶には天かす生姜醤油全部入りうどんを入れようと思て、利休にうどん食べさせようと茶室係のうちのご先祖はんに天かす生姜醤油全部入りうどん作らせたんや。だけど利休はんはそれでもうどんに箸さえつけようとしなかったんや。なんも言わんかったらしいけどきっと天かす生姜醤油全部入りうどんうどんなんて茶の道やないなんて思っどったんやろな。太閤はんはそれでなんとか食べさせようと箸で利休はんの口に天かすついたうどん押し付けたんやけど、それで利休はんブチ切れてしもたんや。利休はん我慢でけへん帰るわ言うて帰ってしもた。それから何が起こったかはアンタもよく知っとるやろ?太閤はんむっちゃ怒ってもう茶会なんてやめや!って利休はんは切腹。うちのご先祖はんは茶室係を首で大阪城から叩き出されたんや。それで無一文になったご先祖はんはしょうがないからここにうどん屋作ったんや。切ない話や。結局太閤はんと利休はんは求めるものが違いすぎたんや。ビックよりヨドバシカメラな大阪を日本中、いや世界中に広めようとした太閤はんと、己の茶を極めようとした利休はんは決別するべくして決別したんやな。この二人がもっと仲良うしたら今頃は大阪はカスうどんやのうて天かす生姜醤油全部入りうどんな町になっとたのにな。その後の歴史はごらんのとおりや。太閤はんはそれからいくらもしないうちに死んでしもて、たぬき親父にご先祖はんの友達の三成も殺されてな。三成が処刑された日ワイのご先祖はんは友達を思って泣きながらうどん捏ねたっていう。今の大阪はあのビックなヨドバシカメラな町やなくなってしもた。だけどワイがいつか太閤はんの代わりにこの天かす生姜醤油全部入りうどんでビックよりヨドバシカメラな大阪を取り戻して見せる!」

 主人は決然とした表情でそう言い終えると拳を自分の胸に当てた。私はその主人を見て心から彼を応援したくなった。主人が先ほど触れたように大阪では天かすうどんよりかすうどんのほうがはるかに食べられている。私にとってかすうどんはうどんではないのでこの事実は悲しい。しかしこの店の持つ不思議な活気はそんな事実を忘れさせてしまう。今もテーブル席で秘密の逢瀬を楽しむ男女。男は札束を握りしめて女にせっついている。主人は突然薄ら笑いを浮かべて私に尋ねてきた。

「アンタもこの後色街に行くんやろ?みんなうちの店で精つけてから色街に行くんや。アンタもそうなんやろ?」

「そ、そんなわけないだろ!」

 私は主人の思わぬ問いに慌ててしまった。主人はその私をせせら笑ってこう言った。

「ほぅ〜、ワイの勘違いか。アンタさっきうどんをまるで女体をしゃぶり尽くすように食っどったからてっきり色街に行くもんやと思っとったわ。すんまへんな」

 私は主人に先程夢中になってうどんを見られていたのを知って恥ずかしくなった。確かにあの時私は色めいたことを考えながらうどんを食べていたのだ。私は恥ずかしさに耐えきれずさっさと主人におあいそをすると、主人の揶揄うような顔に見送られて店を出た。

 店を出てから私はしばらくこの天下茶屋近辺を回る事にした。近隣の地域には主人も言った有名な色街があり、その近くにはドヤ街がある。冒頭に記したようにここはある意味で大阪を象徴する街だ。しかし私は太閤殿下で天かす生姜醤油全部入りうどんを食べ店の主人の限りなく信憑性の薄い話を聞いた後であらためてこの歩くとこの欲望と絶望が詰まったこの街の至る所にかつて秀吉がこの地に築き上げようとした夢のかけらを見ることが出来るように思った。ここにもあそこにも秀吉が夢を実現しようとした欲望の跡が見える。秀吉はここにいかなる楽園を築き上げようとしたのだろうか。そんなことを考えながら私は夜の街を散策していたが、そうやって歩いているうちに意識ぐだんだん怪しくなり、足がほっとくと磁石のように勝手に色街の方へ進んでしまっていた。これは先ほど太閤で天かす生姜醤油全部入りうどんを食べたときに感じた妙なものは色街の匂いを嗅いで生まれた妄想のせいかもしれない。私はこのまま色街に行ってしまったらこの街から抜け出せなくなり、二度と全国天かす生姜醤油全部入りうどん行脚が出来なくなると恐れ早る体を抑えて強引にホテルへと戻った。

手打ちうどん 太閤殿下
営業時間 10:00〜21:00
休日 月・金

讃岐空海寺 食事処

 讃岐市の山奥にある空海寺で空海直伝の天かす生姜醤油全部入りうどんが食べられると知ったのはつい最近のことだ。私は讃岐に同じく天かす生姜醤油全部入りうどん好きの知り合いからそれを聞いていてもたってもいられなくなってすぐさま讃岐に旅立った。

 というわけで四店目の紹介となるわけだが、この『讃岐空海寺 食事処』はその名が示すようにうどん屋ではない。讃岐空海寺とは空海が生まれ故郷に建てたお寺であるが、その境内にある精進料理を提供している場所のことである。われらが天かす生姜醤油全部入りうどんは五のつく日に出されているという。弘法大師こと空海は中国のウントンといううどんの元になる料理を日本に伝えたと言われているが、この空海寺(以下空海寺と略す)ではその空海が生きていた頃に食べられていた生姜醤油全部入りうどんを出来るだけ忠実に再現されているそうだ。この寺で出されている天かす生姜醤油全部入りうどんはうどん好きの間で始原のうどん、あるいは紀元前のうどんと呼ばれているという。私はそれを聞いてますます空海寺の天かす生姜醤油全部入りうどんに興味を持った。

 讃岐市に来た私は町のうどん屋のつゆが放つ女郎のごとき香りの誘いを振り切ってgoogle mapを頼りにうどん仲間から教えてもらった店の場所へと向かった。空海寺は讃岐山の中にあるというが、そこまでの道のりはなかなかにきつい。高低の差が激しくいきなり坂があるので休みを入れなければ到底進めない。階段があったらからどうにか歩く事が出来たが、その階段も途中からなくなってしまった。山道はもはやただ木を伐採してとりあえず道を拵えたようなもので歩くにも非常に難儀する。途中僧侶らしき一団が歩いているのが遠くに見えたが、あれは空海寺の者たちなのだろうか。鬱蒼と茂る森の中、もはやGoogle Mapさえ役に立たぬ道なき道を私は寺の中にある天かす生姜醤油全部入りうどんを目指してただひたすら進んだ。とそこにいきなり陽が差してきて前方が明るくなったように見えた。私は顔を上げて前方を確認した。寺のようなものがそこにあった。空海寺である。

 喜び勇んで空海寺に入った私は早速境内を見渡して食事処を探した。空海寺は思ったより狭く人は少ない。寺のものと数人の参拝客が数人いるぐらいだ。特に催し物もない平日だから参拝客も少ないのであろうか。私のそばで旅の僧が何人かの寺の僧に詰められていた。

「こら、ここは天台宗のもんが来るところやない!貴様弘法大師のバチが当たるぞ!」

「……いやそこをなんとか。伝教大師と弘法大師が入滅されましてから千年の時が流れました。もう和解してもいい頃でしょう。この旅の僧にお恵みを」

「いや、あかん!弘法大師は入滅されるとき最澄なんか大嫌いよ。あの子の弟子は一歩たりとも門に入れないでって言うとったんや」

 この僧たちの会話を聞いて私は平安時代から続く歴史の重みをあらためて感じた。私は旅の僧を憐れんだが、所詮部外者にすぎないので関わらない事にし、僧侶たちの元から離れると、先程見つけた食事処らしき所まで歩いた。しかし食事処の前にきたところで、やはりうどんを食べる前に身を清めねばならぬだろうと思い直し、参拝をしてからうどんを食べる事にした。本堂に向かう途中参拝を済ませたらしき女の二人組とすれ違った。私は後ろを振り返って二人を見たが、どうやら食事処に向かうらしかった。彼女たちも空海直伝の天かす生姜醤油全部入りうどんを食べにきたのだろうか。

 本堂の前に立った途端急に体が震えてきた。まるで空海がそこにいるような威圧感がある。私は震える手で懐の財布から五円を抜き出してそれを賽銭箱に投げた。それから鈴を鳴らして目をつぶって手を合わせた。私は空海に向かって今からあなたの天かす生姜醤油全部入りうどんを食べさせていただきますと誓い、そしてこれからも未知なる天かす生姜醤油全部入りうどんに巡り会えるよう願をかけた。

 参拝を済ませて身を清めた私は空海直伝の天かす生姜醤油全部入りうどんを食べようと早速食事処へと向かった。食事処に入った私は席に座る前に中を見渡したが、誰もうどん食べている気配はない。これを見て私はもしかしたら日付を間違えたかと慌てた。しかし再三確認した通り本日は五のつく日にちである。だが私はもしかしたらうどんは私のような観光客には出さないのではないかとも考えた。私にここを紹介してくれたのは地元の人間だからである。しかしそれでも中に入ったのだから席に座って何かを食べねばなるまい。私はそう考えて空いている席に座ったが、すぐさま厳しい坊主の男が注文を取りに来た。私は男に向かって恐る恐る天かす生姜醤油全部入りうどんはあるかと聞いてみた。すると男はあっさり笑顔で「天かす生姜醤油全部入りうどんでよろしいですね」と確認をとるとすぐに厨房に向かった。どうやら私の心配は杞憂であったようだ。

 うどんが来るまでの間私はずっと今から食べるこの空海直伝といわれる天かす生姜醤油全部入りうどんについて考えていた。空海が中国からうどんを持ち帰って千年以上の時が経ち、うどんは彼の想像だにできないほどの変貌を遂げた。今のうどんを見たら空海はなんと思うだろうか。そして我々もまた空海直伝の天かす生姜醤油全部入りうどんを想像することすら出来ない。空海が食したといううどんはいかなるうどんなのか。いや、下手な期待はやめておこう。千年以上前のうどんは今のうどんとは全く別物であるはずだ。それにここのうどんは精進料理として出されている。我々一般人の食べるうどんとは全く違うのだ。だから変な期待を持つのはやめて今日はただうどんの歴史を味わうようにしよう。始原のうどん、紀元前のうどんがいかなるものかを舌で古のうどんがいかなるものであるか学ぼう。この空海直伝のうどんを食べることで我々は天かす生姜醤油全部入りうどんが巡ってきた歴史を舌で感じよう。そんな事を考えていたら男が脇からうどんを持ってきたと声をかけてきた。私は途端に我に返りすぐさま目の前に置かれたうどんを見た。しかし緊張のあまりなかなか視点が定まらなかった。やがて湯気の中から天かす生姜醤油全部入りうどんらしきものが見えてきた。

 それはやはり我々のよく知る天かす生姜醤油全部入りうどんとはまるで異なっていた。麺は平麺であり、つゆは出汁があるのかないのかわからないほど白かった。うどんにつまれた白っぽい天かすみたいなものはなんであろうか。その上に乗っているのは生姜であろうか。しかしどんぶりの隅のあたりに置かれている焦茶色の塊はなんなのだろうか。私がこのうどんに驚いて食べるのをためらっていると、脇から坊主の男が声をかけてきた。

「これが本寺が五に関係する日にだす弘法大師直伝の天かす生姜醤油全部入りうどんです。まず麺は平安の昔から受け継がれてきた平麺をご使用しております。次につゆですがこれも近海で取れたカツオから昔ながらの製法で取りました。天かすは小麦ではなく米を揚げたものです。その上に生姜を乗せています。最後に隅にある黒い塊のようなものですが、これは醤と呼ばれるものでして醤油の原型になったものです。当時はまだ醤油はありませんでした。この醤は大豆を発酵して作っていますのでお口に合うのではないかと思います。ではどうぞごゆっくり」

 坊主の男はそううどんについてひとしきり説明すると厨房に戻って行った。一人取り残された私は箸を手に取りまるで神璽にでも触れるような思いでうどんを掴み、そっと口の中に入れた。

 予想通りといえば予想通りであった。やはりこの平安時代の僧侶が食したうどんは現代人の口に合わない。麺のコシはほとんどなく、またつゆは舌を吸い上げてようやく味が感じられるほど薄く、米の天かすはすぐにつゆに溶けてしまい、ただ生姜と醤だけがようやくこのうどんが天かす生姜醤油全部入りうどんである事をアピールしていた。しかし私は自分でも不思議なくらい幻滅を感じなかった。食べる前に期待を押し殺したのが功を奏したのか。いや、そうではない。先ほど私はこの空海直伝のうどんを歴史を感じるために食べると書いた。だがこうしてそのうどん食べてみるとそう思うまでもなく勝手に舌が天かす生姜醤油全部入りうどんが辿ってきた千年にも渡る歴史を感じてしまうのだ。このあまりにも味のしないうどんから全てが始まったのかと思うと感動のあまり涙まで出てくる。平安時代の僧侶、鎌倉・室町時代の武士、戦国時代の三英傑、江戸時代の名もなき庶民たち。空海が中国からもたらしたうどんはこの人たちの手によって今の天かす生姜醤油全部入りうどんにまで育て上げられたのだ。

 私は舌が震えるほどの感動をもってうどんを食べ終えると我に返って周りを見渡した。客は私の一人しかいないようだ。坊主の男は厨房で掃除をしている。もう店じまいのようだ。しかし私はまだこの寺を去るわけにはいかない。まだやるべき事がある。私は衝動に突き動かされるがままに坊主の男にここのうどんについて聞きたい事があるのだが時間はあるかと尋ねた。男は意外にも快諾してくれた。私は早速この寺ではいつから天かす生姜醤油全部入りうどんを出しているのか聞いた。

「ははぁ、何を聞いてくるかと思えばうどんのことですか。あなたあのうどんがお気に決めしましたか?一般の方には非常にウケの悪いうどんであるからこうしてうどんに興味を持って下さるとは珍しいですな」

 そう言って男は少し間を置いてから話し始めた。

「この寺の言い伝えによると弘法大師が唐の国から真っ先にこの讃岐の寺に里帰りをした時うどんを手にしていたそうな。弘法大師は寺の衆をに向かって今からこのうどんを其方たちに作ってしんぜようと言った。しかし弘法大師は神の如き立派な方であるが、時たま大失敗を犯す事があってな。弘法大師は天かすと生姜と醤を脇に置いてうどんとつゆを作っていたんだが、いざ出来上がってどんぶりに移す時にな……」

「天かすと生姜と醤油をこぼしてしまったのですか?」

 私は口にした瞬間まずいと思って思わず口を塞いだ。しかしすでにおんなじ話を三回も聞いたので先読みしてしまってもしょうがないのだ。ああ!なんと言って誤魔化せばよいか。しかし坊主の男は顔色ひとつ変えずただ一言ぴしゃりと言った。

「これ、人の話に口を挟むものではない!」

 この一言に私はまるで空海自身から説教を喰らわされたような気分になった。そして坊主の男は再び話を始めた。

「お主の言う通り確かに弘法大師は天かすと生姜と醤油を全部どんぶりにぶちまけてしまった。これではとても皆に出せない。しかしもはやうどんは手元にない。だからしょうがなく弘法大師は寺の衆に天かすと生姜と醤油がぶっかけられたうどんをお出しになったのだ。寺のものはこの最初に見た天女の衣がまるで嘔吐物みたいな米の天かすと排泄物を思わせる白と黒の塊に変わってしまったのを見て思いっきり拒否反応を起こしたのだ。しかし弘法大師は自らの失敗を誤魔化すためにゲロのように見える天かすは雪山、白と黒の排泄物のように見えるものは仏陀のお印だと訳のわからない事を言って食べるように説得したのだ。寺の衆はは皆弘法大師の説得に負けてイヤイヤながら初めてのうどんを食べた。したらどうじゃ皆食べた途端目が輝き出したではないか。まるで極楽浄土じゃとも言ったものがいたそうだ。皆食べ終わるとどんぶりと弘法大師をそれぞれ拝んだという。弘法大師は皆の反応に驚き実は自分のために隠しておいたうどんと天かすと生姜と醤油を使ってさっき皆に振る舞ったうどんをもう自分のために作ったという。弘法大師がそのうどんに対してどんな感想を抱いたかそれは今も天かす生姜醤油全部入りうどんが残っている事で私はわかるであろう」

 よく考えてみるとかなり無茶苦茶な話のように思われるが、今までの自称三英傑の家来の末裔の話に比べたら遥かに信ぴょう性のある事を語っているように思われた。それにしてもまさかここで天かすをこぼした話を聞くとは思わなかった。偉大なる発明はひょんなきっかけ生まれるとよく言われる。もしかしたら天かす生姜醤油全部入りうどんもそんなきっかけで誕生したのかもしれない。私は最後になぜ五のつく日にうどんを提供しているのか聞いた。すると坊主の男は笑顔でこう言った。

「それはご縁がありますようにという願いからだよ」

 しばらくしてから一人の若い僧侶が入ってきた。彼は快活な声で男に向かって一礼し「住職掃除が終わりました」と言った。私はそれを聞いて驚きのあまり坊主の男を見た。なんと住職自ら天かす生姜醤油全部入りうどんを作っていたのか。

 別れ際に住職に挨拶をしてから町に戻ろうと足を進めた。しかし住職はそっちではないと私を呼び止める。私は住職に向かって自分はこの門の向こうにある山道からやっできたと話た。すると住職は唖然とした顔で私を見つめてこう言った。

「なんとあなた僧侶の修行道を通ってきたのか。よくここに来れましたな。一般の方があんな所を通ったら下手したらクマにでも食われる可能性があるのに。そっちは僧侶しか出入りできぬ脇門で正門はあちらからケーブルカーが出ているのでそれに乗って街に戻られたら宜かろう」

空海寺 食事処
営業時間 10:00〜17:00
休日 年末年始 寺の行事の日(天かす生姜醤油全部入りうどんは五のつく日のみ提供)

創作うどん 真の道

 今まで散々語ったように天かす生姜醤油全部入りうどんには長い歴史と伝統がある。空海から天かす伝来の戦国時代を経て明治から令和へと続いてきた道。現在の天かす生姜醤油全部入りうどんもその歴史上にある。だがそんな私のうどんに対する認識は玄界灘の荒波と拳の乱打によって一瞬にして消えてしまった。今回五店目に紹介するのは『創作うどん 真の道』である。なにやらどっかの気取ったラーメンみたいな店名だが安心して欲しい。この店もまた第一級の天かす生姜醤油全部入りうどんを作っているのだ。

 この『創作うどん 真の道』と名乗るうどん屋は九州一のめんたい爆裂都市福岡市博多区の中洲にあるが、私がこの店を知ったきっかけはちと特殊である。ここまで記事を読んでもらった方にはわかるように私は気を衒ったものは大嫌いである。特に創作なんとかと名のついた店には何があっても絶対に入らない。だから普通にこの店の看板を見ても目を背けて立ち去っていただろう。だがあの時はそんな余裕はなかった。刃物と銃で自分を追っかけてくるチンピラから逃げるだけで精一杯だったからである。チンピラたちから助けを求めてこの店に入ったのは明らかに幸運であった。私がこの店に入った時チンピラたちは何故か店に一歩も入ってこなかったらである。カウンターの向こうにいた大柄な男は入り口の向こうのチンピラを睨みつけるだけで退散させてしまった。それから傷だらけの私の顔を見てせせら笑いながらどうしたい?と聞いてきた。私がヤクザとは知らずにどこかに美味しいうどん屋がないか尋ねたら何故か殴られたと正直に話すと男は軽く笑いそして言った。

「そりゃ殴られるわな。この辺は最近荒れてるからな。大方あの連中はあんたを聞き込みの刑事かなんかだと勘違いしたかもしれないな。それで殺してやれと思ったのだろう。あんたこの街で迂闊に人にものを尋ねたらダメだぜ。答えの代わりに銃弾がヒットするからな」

 私は男の話を聞いてぞっとした。逃げなければ自分は確実に玄界灘の藻屑となっていたのだ。男は私に絆創膏をくれたが、その時ニヤつきながら私を見て「そういえばさっきアンタチンピラに美味いうどん屋があるかって聞いたって言ってたな。よかったらうちのうどん食っていかないか?」と聞いてきた。私は普段だったらこんなインチキうどん屋の代物なんぞ食わないがチンピラから私を助けてくれた礼のつもりで同意した。

 うどんが出来上がるのを待つ間私はぐるりと店内を見渡した。やはりただならぬ雰囲気を持った店である。内装はカジュアルな和風調といったものだが、至る所に刀傷らしきものと銃弾が貫通したらしき穴がある。全くゾッとさせられる。こんな所に長いは無用。うどんを食べたらさっさとこの店から、いやこのめんたい爆裂都市から逃げよう。こんな所にいたら命がいくつあっても足りない。

 そこに男がうどんを持って現れた。私は彼の持つどんぶりの中身を見て身体中の血管が沸騰するのを感じた。男が作っていたのは天かす生姜醤油全部入りうどんだったからである。私は目の前に置かれた天かす生姜醤油全部入りうどんを信じがたい思いで見つめた。うどんにまぶされた天かすはざっくりと大きめで、その上に生姜が無造作に乗っている。どうやら醤油もかけられているようだ。見た感じはそのまんま天かす生姜醤油全部入りうどんだ。しかしまだ油断は出来ない。どっかの名門店からがわだけをいただいて適当に拵えた可能性もあるからだ。私は箸でうどんを取り恐る恐る口の中に入れた。

 何と荒々しいうどんか。私はうどんを一口入れた途端うどんと天かすの味の荒波に飲まれてしまった。コシのあるうどんとつゆに玄界灘で育て上げられた魚介類のエキスをたっぷりと吸い込んだ大粒の天かすがまとわりついてどうしようもなく舌を刺激する。じつに美味い!生姜はその玄界灘の岩に貼りついた塩だ。幸にして私は玄界灘で塩漬けにされる事はなかったが、舌は完全に塩漬けにされてしまった。醤油は玄界灘の荒波を鎮めるために降り注ぐ恵みの雨だ。私は醤油のまろやかさに目頭が熱くなった。なんて美味しいのだ。私はあらゆる天かす生姜醤油全部入りうどんを食べたが、こんな荒々しい味の天かす生姜醤油全部入りうどんは初めてだ!私はうどんを食べ終えようやく味の荒波から逃れると顔を上げて店主にご馳走様と言った。店主はその凄みのある顔を綻ばせてありがとよと返事をくれた。

 私はこの店に俄然興味を持ち、屋号が真の道であるからもしかしたらこの大柄な男が学問の神様菅原道真の家来筋の末裔であり、自分のルーツを示そうと屋号に道真の名を逆にして入れたのではないかと思った。平安時代に右大臣であった菅原道真は藤原氏によって謀反の疑いをかけられ当時太宰府と呼ばれていたこの土地に流されている。今まで行ったうどん屋には誰それの家来の末裔を自称する店がやたら多かった。だからこの男の先祖も太宰府で道真に仕えて天かす生姜醤油全部入りうどんを作っていたのかもしれない。そう思って私は店主にあなたは菅原道真の家来の末裔ですかと聞いてみたのだ。しかし店主は鳩が鉄砲玉を食らったような顔をするといきなりガハハと笑いそして答えた。

「あんた殴られ過ぎて頭がおかしくなったのかい?どうしてこんな学のまるっきりない俺が学問の神様の家来の末裔になるんだよ!俺はこの通りただのうどん屋の店主に過ぎねえよ」

 私はやはり違うのかと何故か軽い失望を感じたが、思い直して笑っている店主に自分が天かす生姜醤油全部入りうどんが好きで、うどん好きが高じて全国うどん行脚をしている事とその今まで行ったうどん屋の店主にはそういう人間が多かった事を話した。すると店主は時々感嘆の声を上げながら私の話を聞き、そして聞き終えると私に言った。

「へぇ〜!あんた面白いな。俺は長年うどん屋をやっているけどあんたみたいなうどん好きは初めて見た。あんた気にいったよ。もう少し時間あるかい?よかったら俺の話も聞いて行ってくれよ」

 それはこちらも望む事。私は店主に是非聞かせてくれと頼んだ。すると店主は早速話を始めた。

「俺はうどん屋になる前は極道だったんだ。自慢にもならないが人殺し以外のことはなんでもやった。相手の指を丸ごと叩っ斬ったこともある。まぁ俺の顔見りゃみんな逃げるそんな札付きの極道だったのさ。だけどあまりにやり過ぎてムショにぶち込まれて、それでやっとこさ出た途端組から破門だって電話がきたんだ。俺は頭に来てマシンガンを手に組長以下全員殺してやろうと思って事務所に向かったんだ。だけどその途中でうどんのいいつゆの香りが漂ってきたんだ。俺はその匂いを嗅いでムショでうどんを作っていたことを思い出したんだよ。ムショにいたころ俺は極道を引退したらうどん屋やりたいななんて思いながら毎日うどんを捏ねていたんだ。それを思い出したら組のことなんてどうでもよくなった。奴らを全員並べてランニングしながらマシンガンぶっ放してやろうと考えていたことなんかバカバカしくなったのさ。俺は一瞬にして悟ったんだ。うどん作りこその俺の真の道だって。俺は街中で空に向かってマシンガンを弾が空になるまでぶっ放すと家に帰って早速うどん屋を開店するために資金集めを始めたのさ。まあ組にいたころ金貸してた連中から強引にふんだくってやったんだけどな。とにかく金をいたるところからかき集めてこの『創作うどん 真の道』ってうどん屋をひらいたんだが、これが大成功だった。俺の捏ねるうどんは第一級品だからだよ。だがこんな土地だ。当然毎日分単位で揉め事が起こった。あんた店の中にたくさん傷があるの見たかい?」

 私は店主に向かって頷いた。

「あれは抗争の跡だ。この土地の極道は我が強い連中でな、組同士だけじゃなくて組の仲間でもドンパチおっ始める。ある時なんかお奢った奢らないでいきなり刃物と拳銃取り出してドンパチしやがった。まぁ、俺が連中を全員ボコボコにして事を収めたんだけどな。だがある時だ。いつものようにどっかの組のチンピラがおっ始めた時……」

 店主の話をここまで聞いて私はまさかここもそうなのかと思った。私は無意識に店主の話に割って入った。

「そのチンピラさんたちが転んだりして天かすと生姜と醤油をこぼしたのですか?」

 この私の言葉を聞いた店主は足元に置いていたらしいマシンガンをいきなり天井にぶっ放した。私はあまりの出来事に腰を抜かした。まさか堅気になってもまだマシンガンを所持していたとは。

「このガキ!人の話に口を挟むな!」 

 殺されなくてよかった。もしこの男がまだ現役であったら私は確実にマシンガンをぶっ放されていただろう。店主は怒りが静まったのかしばらくしてから再び話し始めた。

「確かにアンタの言うとおりドンパチの最中にチンピラの一人がつんのめって床に倒れた拍子に天かすと生姜と醤油を全部うどんにぶちまけた。俺は頭に来てチンピラを正座させてマシンガンを口の中にぶち込んでこのゴミゲロうどん全部食わなかったら今すぐぶっ放してやるって脅しつけたんだ。奴らは泣きながらうどんを頬張ったよ。だけど奴らはうどんを頬張った瞬間突然顔が明るくなったんだ。目を輝かせてうめえなんて喚きやがる。俺マシンガンで脅されて気でも狂っちまったんじゃねえかと思った。だけど奴らの瞳の輝きを見ているとそうしゃねえような気がしてきた。だから俺は奴らがまだ手をつけてないどんぶりからうどんを引っ張りだして啜ってみたんだ。そしたらこれがとんでもなくうめえじゃねえか!ムショ時代から十年以上うどんを作っていたがこれほどうめえもんは初めてだ。俺は人生って何が起こるからわからねえなって改めて思ったよ。よりにもよってチンピラたちがドンパチ始めたおかげで最高のうどんができたわけだからな。そんなわけで俺の発明した天かす生姜醤油全部入りうどんは今はうちの人気メニューなんだ。逆には無理やり食わせまくってるぜ」

 店主はここまで語り終えると深く息を吐いた。私は彼に他の天かす生姜醤油全部入りうどんを作っているうどん屋からも同じようなエピソードを聞いた事を教えようとしたが、またマシンガンをぶっ放されるのが怖いので流石にやめておくことにした。私は店主の調理服の胸元や袖の中から覗く唐草模様を見て思わず唾を飲み込んだ。彼の送ってきた人生は私の何倍も濃い。その人生の重みを全て託したうどんが美味くないはずがないと思った。

 それからしばらく店主と雑談していたが頃合いを見て私は店主にまた来ると別れを告げて店を出た。とその途端先程私を殴ってきたチンピラたちが待ち換えていたのかすぐに周りを取り囲まれてしまった。しかしチンピラたちは先程と偉く態度が違い背筋を伸ばし緊張した面持ちで私の前に立っている。すると彼らは一斉に土下座をして謝ってきた。そして私に向かって何者なのか聞いてきた。彼らの言うことによるとあのうどん屋の店主は昔この街で散々暴力を働いた伝説中の伝説と言われる男でその筋の人間でない限り対等に話すことなど不可能だという。私はチンピラたちの問いにただ一言こう答えた。

「私は名もないただの天かす生姜醤油全部入りうどん好きですよ」

創作うどん 真の道
営業時間 11:00〜22:00
休日 土日祝日

武蔵うどん つくし

 さてグーグルには絶対に載らないうどん屋の紹介もあと一店残すのみとなった。この最後に紹介する店『武蔵うどん つくし』の場所は九州からUターンして関東に戻った埼玉の秩父市にある。先に言っておくがこの店の店主は女性である。女性であるから女将と呼んだ方がいいであろう。昔読んだ漫画にも最後の将が女だったというものがある。この記事もそれに倣って六店目のこの女将の店で締めることにしよう。

 この『武蔵うどん つくし』に入ったのはほんのちょっとしたことがきっかけだ。私は先日埼玉の秩父温泉に小旅行に行ったのだが、そこの温泉に浸かった後でふと天かす生姜醤油全部入りうどんが食べたくなった。それで夜の温泉街を歩いて探したのだが、しかしうどん屋こそあるにはあったものの、天かす生姜醤油全部入りうどんを出しているところはなかなか見つからなかった。そうして探し回っているうちにいつの間にか繁華街から離れてしまったのだ。あたりは暗くなりそこかしこに店の明かりがついているだけになった。しかしここにはうどん屋すらない。もう少し歩いていくと明かりすら見えなくなった。私はこの先はもう店などなかろうと思い旅館に引き返そうとした。しかし遠くのほうに一軒だけ店らしきものの明かりが見えるではないか。私はここまで来たなら行ってみよう。もしかしたらうどん屋がそこにあるかもしれない。私はこういう時に妙に勘が働く。店に近づくごとにうどん屋ではないかと確信が芽生えてきた。そして完全に店の看板が見えて私の勘が完全に正しいことが証明された。『武蔵うどん つくし』である。武蔵うどんと聞いて私は同じような名前の田舎うどんの事を思い出した。私は東京の人間だからローカルのうどんには興味がない。私にとって全国区でないものはうどんではないのだ。だがここまで歩いてきてしまったのだ。腹も空いてきたしとにかく何かを腹には詰め込もう。私はそう考えて店の暖簾を潜った。店に入ると突然あたりが眩しくなった。それは店の明かりが眩しかったからではない。カウンターの向こうに割烹着を着た妙齢の美しい女性が立っていたからである。

 女性は暖簾を潜ってきた私をカウンターへと呼んだ。どうやら客は私一人のようだ。女性の声はまるで鶯のように透明でまるでここだけが春めいているように思えた。私は幾分照れながらカウンターに座ると女性に声をかけまだ注文大丈夫かい?と先ほど呼ばれたのにも関わらず尋ねた。女性は大丈夫ですよと笑顔で答える。私はうどんのこと以外まるで喋れぬ人間なので女性と二人っきりの時はどうにも話が進まない。それで時々女性と二人っきりの時は度々気まずい沈黙が起こってしまうのだが、今回もそうなりそうで不安であった。しかし私はキャバクラに来たわけではなく、あくまでここにうどんを食べに来たのだ。私は気を引き締めてとりあえずメニュー表を見た。かけうどんがまず最初にあり、それからわかめとか肉とか通常のうどんのメニューが続いて、その次に武蔵野うどんという田舎うどんのメニューがあった。私はかけうどんがあったのでもしかしたらと大して期待はしていなかったが、とりあえず天かす生姜醤油全部入りうどんを頼むことにした。女性は私の注文を聞いて聞いて驚くような態度を見せたが、すぐに作ることはできますがよろしいのでしょうかと聞いてきた。勿論ダメなわけがない。まさかこんな山奥で天かす生姜醤油全部入りうどんに出会えるとは。私が大丈夫だと返事をすると女性はすぐにいお作りしますと言って厨房にいると思わる店主に注文を伝えに行った。

 私はうどんを待つ間誰もいない店内を眺めていた。誰もいない山奥にあるうどん屋だから古そうに思われるが、意外にも店は新しそうだ。柱などもまだピカピカに光っている。外はどうやら風が強くなってきたようで窓に風の当たる音がかすかに聞こえる。しかし厨房からは店主らしきものの喋り声は全く聞こえない。厨房から聞こえるのはうどんを茹でる鍋の沸騰する音と、天かすを揚げる油の音だけだ。一体店主はどこにいるのだろうか。実に不思議だ。お化け屋敷に入ったわけでもあるまいにこの不気味な沈黙はなんだ。と思っていたら、厨房から先ほどの女性がうどんと天かすを乗せた盆を両手に抱えてこちらにやってきた。女性は例の鶯のような透き通る声で「天かす生姜醤油全部入りうどんお持ちしました」と言いながら私の前にうどんを置いた。私はどうしても店主の事が気になり、彼女に向かって店主は無口な人なのかと聞いた。

「声も何もしないからいるのかいないのかわからなくてね。どうしても気になってしまうのだよ」

 すると女性は困ったような顔をしてこう言った。

「あら、お客さん。この店の店主は私ですよ。店は私一人でやっているんです」

 この女性の話に私は自分でも驚くほど動揺した。まさかこんな若い女性がうどん屋の店主であったとは。という事はこの天かす生姜醤油全部入りうどんも彼女が作ったものなのか。私はこの事実に喜びと失望が入り混じった妙な感覚を覚えた。久しぶりの女性の手料理を食べられる懐かしさからくる喜びと、まさか女ごときが作った天かす生姜醤油全部入りうどんを食べなければならぬという軽蔑からくる失望がないまぜになった奇妙な感情に激しく混乱した。私は古い人間であるから女ごときが厨房に入るなどというのは言語道断だと思っている。女の作ったうどんなど食べずともどんな味かわかるというものだ。コシのなさすぎるうどん。ふわふわしすぎな天かす。スイーツなほどに弱められた生姜の刺激。団子のたれのごとき甘ったるい醤油。ああ!すべてが少女漫画のごときあまあまの天かす生姜醤油全部入りうどん!そんなうどんをうどん好きの私に食わせるというのか!勿論この自分の苛立ちが子供じみたものであることは十分にわかっている。だがどうしても納得がいかぬのだ。だがここで食べずに帰ったら大恥のバカ者である。だから私はせめてもの反抗としてもはや幼児のふてくされに等しいが、この女の前でわざと天かす生姜醤油全部入りうどんを乱暴に食い尽くしてやろうと考えた。そうしなければ私の気が収まらない。私は早速力を込めて箸を割り、その勢いでうどんにがっついた。

 うどんを口に入れた瞬間自分の行動がいかに愚かであったか身に染みて感じた。麺は確かに柔らかい。しかしその柔らかさは母の乳房のこどき柔らかさだったのだ。柔らかいが弾力がある。そんなうどんであった。天かすは全てを包み込む母の愛情だ。生姜の刺激は私を幼き日に戻す。醤油はさらに私が生まれる以前にまで私を還す。この醤油の深みは母の子宮だ。私は天かす生姜醤油全部入りうどんに自分が丸裸にされたような気分になった。うどんを食べてこんな気持ちになったのは初めてのことであった。うどんを食べてこんな懐かしいような、自分の過去を巡っていくような感情を覚えた事はなかった。私はこの母の温もりのような天かす生姜醤油全部入りうどんを全て平らげると今感じたこの感覚を忘れぬように目を閉じた。美味しいうどんであった。確かに今まで食べた天かす生姜醤油全部入りうどんとはまるで違ういかにも女の作ったうどんである。だがそれゆえに感じるものがあった。私がそうしてうどんについて考えていると、向かい側から女将の声が聞こえてきた。どうやら先程から声をかけていたらしい。

「あの、お客さん大丈夫でしょうか?うどんでご気分を悪くされたとかないですか?」

 私は女将が心配そうな顔でこう問うてくるのでとりあえず彼女を安心させようとした。

「いや、別に私はなんともない。ただうどんがあまりに美味しかったのでしばし呆然としてしまったのだ」

 女将は私の言葉を聞いて安心したのか大きく安堵の息をついた。よほど私の反応が気になっていたらしい。

「ああよかった!安心しましたよ!お客さんいきなり天かす生姜醤油全部入りうどんなんて注文してきたからまずいなぁって思いながら作ってたんですけど、いざ出したらお客さんの顔が物凄いこわばって無理矢理食べてたみたいなんで途中で倒れたらどうしようなんてハラハラドキドキしながら見守ってました!」

 私は女将の言葉に先程の稚気な振る舞いを改めて恥じた。あれはうどんに対して取るべき態度ではなかった。しかし女将の手作りの天かす生姜醤油全部入りうどんはその私を一瞬にして改心させてしまった。まだ若いのにこれほどのうどんを作るこの女将は一体何者なのだろうか。本来女性に喋りかけるのは苦手だが、やはりうどんについて聞かねばならない。私はとりあえず女将にいつからうどん屋をやっているのか聞いた。すると女将はびっくりして私を見た。私は再び女将に喋りかけた。

「いや、この天かす生姜醤油全部入りうどんを食べてしまったからには、それを作っている人間のことを知らねば帰るに帰れないよ」

 自分でも驚くほど大胆な物言いである。普段の私は女性と二人きりになると遠慮がちになってしまい、二の句が継げなくなる。だがこの女将には普段通り話せる。これはやはり彼女のうどんを食べたからだろうか。

「まぁ、そんなにあの天かす生姜醤油全部入りうどんがお気に召したんですか?そう褒めてくださる方って滅多にいないんですよ。お客さんの中にはたまに注文してくださる方もいるんですが、みんなうどん見るだけでいらないって食べようともしないんです。おまけにうどんを出したお客さんがあの店はゲロうどん出してるとか出鱈目な噂まで流して……。それで天かす生姜醤油全部入りうどんをメニューから外したんですよ……」

「こんな美味しいものを何故……」

 女将が天かすをメニューから外したと話したのを聞いて思わずこう口に出してしまった。ゲロうどん。確かに天かす生姜醤油全部入りうどんに偏見を持つ人はよくそう口にする。見てくれがあまり良くないからだ。だがしかし一度天かす生姜醤油全部入りうどんを食べると皆その美味しさに夢中になってしまうのだ。女将は私に無言で頷き再び話を始めた。

「そうなんです。ゲロうどんの噂が広まってから、ふざけて注文してまるまる残す人まで出てきてそれじゃやっていけないって思って仕方がないのでメニューから外したんです。勿論天かす生姜醤油全部入りうどんを好きなお客さんたちはいて、その人たちのためには裏メニュー的なもので作っているんですけど……」

 なるほどそういう事であったか。バカバカしい話だ。本物のうどんである天かす生姜醤油全部入りうどんがここまでバカにされるとは。私は天かす生姜醤油全部入りうどんがここまで不当に虐げられているのを聞いて激しい憤りを感じた。女将は私に尋ねてきた。

「ところでお客さんはどうやってうちの天かす生姜醤油全部入りうどんを知ったんですか?うちはホームページなんか作っていないし、食べログにも載っていないはずですが」

「私はうどんは天かす生姜醤油全部入りうどんしか食べないのだ。もしこの店に天かす生姜醤油全部入りうどんがなかったら、すぐに飛び出していたさ」

 女将は私の冗談に笑った。しかし女性に向かって冗談を言えるなんて自分でも意外だ。普段生真面目な奴が酒の席でフランクななる事はよくあるが、私にとってそれがうどんであるということか。

「じゃあ、この店に来たのはただの偶然って事ですか?」

「偶然さ。この温泉街でうどんを求めてここに辿り着いたのだ.。きっとここなら美味しい天かす生姜醤油全部入りうどんが食べられるんじゃないかって気がしてね」

「まぁ」

 私のトークは女将のお気に召したようだ。女将は度々相槌を入れ頷く。私は話の流れからそろそろ本題に入って頃合いだと思った。

「ところであなたはこの天かす生姜醤油全部入りうどんの作り方をどこで習ったのかね?よかったら聞かせてくれないか?」

 こう聞いた途端女将は驚きの目で私を見た。そしてしばらくしてから口を開いた。

「お客さんって本当にうどん好きなんですね。うどんについてここまで聞かれたのは初めてですよ。少し長くなるけどよろしいですか?天かす生姜醤油全部入りうどんについて話すには、まずうどん屋を開店した頃から話さなくちゃいけないので」

「よかろう」

 私はそう答えて頷いた。長い夜になりそうだと思った。どこか色めいたものさえ浮かんでくる。女将は緊張した面持ちで口を開いた。

「天かす生姜醤油全部入りうどんの事を話す前に、私がうどん屋を始めるきっかけから話しますが、私昔からうどんが好きでずっと食べてきたんですが、私自身は東京のうどん屋とはまるで縁のない商社マンの家に生まれたんです。私も両親に言われるがままにずっと勉強して同じように商社に入ったんですけど、お話できないことがいろいろありまして……。それでもう何もかも嫌になって商社もやめて住んでいたマンションの引き払ってこの温泉街に彷徨ってきたんです。そこでただ彷徨っていたらとある店からうどんのふんわりとした香りが漂ってきたんです。私は香りに誘われるがままにその店に入ったんです。普通にかけうどんを注文したんですが、それを食べた瞬間いきなり涙が出てきてそのまま大泣きしてしまったんです。何か懐かしい故郷に帰ってきたような気分になって。私何故かわからないけど突然うどん職人になろうって思ったんです。これからはうどんと共に生きていこうって。それで早速街で一番美味しいっていううどん屋さんに弟子入りついでに賄いさんとして住み込みで働く事になったんですが、やがて師匠にうどん職人として認められてここに店を持つことが出来ました。それが三年前の話です」

 私は女将の口ぶりから彼女が商社時代にどれほど辛い体験をしてきたかを思い胸が痛くなった。彼女の表情からその辛い出来事がプライベートなものであることが想像できたが、それを聞くのはやはりいかぬだろう。女将はうどん屋を開店してからの出来事を語り始めた。

「うどん屋の名前は土筆ん坊と尽くすをかけてつくしにしました。このうどん屋が春に生える土筆ん坊のように繁盛すればいいなという願いと、師匠がよく言っていたお客さんに尽くすという言葉をかけたんです。そう名付けて店を開店したんですが、最初は全然ダメでしたね。やっぱりこんな繁華街から離れたところまで誰も来ないんです。一日二人くればいい方でそれが毎日続いたのでやはり店を閉めて東京に帰ろうとさえ思っていた頃でした。その日もやはりお客さんが全然来なくて早めに店じまいしようとしたんです。とりあえず暖簾を外しに戸を開けようとしたんですが、その時店に入ってきた人にばったり出くわしてしまったんです。その人は私の顔を見てまだ店はやっていると聞いてきたんです」

 私は話から女将はこの男から天かす生姜醤油全部入りうどんを伝授されたと読んだ。たまたま店に入ってきた観光中のどこかの名の知れた店のうどん職人。ひょっとしたら歴史上の人物の家来衆の末裔かもしれぬ男。その彼がたまたま寄ったうどん屋の女将が客が入らないと嘆いているのを聞いて彼女のために同情して天かす生姜醤油全部入りうどんの作り方を教えた。ありがちな話ではないが、ないとは言えないだろう。しかし私のこの想像は見事に外れた。いや、逆にある意味見事に的中したと言い換えてもいい。彼女は話を続ける。

「私はそのお客さんの厳しい顔に思わずたじろいでしまいました。入ってきた瞬間背筋が自然にピンと立つのを感じました。私は震える声でそのお客さんをカウンターに案内したんです。お客さんはカウンターに座るなりかけうどんはあるかいと聞いてきました。私はその時凄いあがってしまったんです。客のなさに廃業を考えていた時に突然現れたお客さん。しかも厳しい顔の、こちらがちょっとミスをしたら大激怒しそうな人。この人を怒らせたらもう確実に店は終わりだ。私は絶対に失敗しないように気をつけなきゃって気が張ってたんでしょうね。だけど人間ってそういう時に限ってとんでもない大失敗をしてしまうんです」

 ここまで聞いて私は彼女が何をしでかしたか完全にわかった。

「茹で上がったうどんをどんぶりに入れてお客さんに持って行こうとした時です。私は勢い余って……」

「棚かどっかに乗せていた天かすと生姜と醤油を全部うどんにこぼしてしまったのかい?」

 私のこの言葉を聞いた女将は目を剥いて信じがたいと言った顔で私を見た。

「な、何故わかったんです。た、確かにそうですけど……」

「いや、僕がよく食べに行く天かす生姜醤油全部うどんの店の主人は皆そういう話をするんだよ」

 あまりに驚く女将を見て私は余計な事を言ってしまったと反省した。私は女将に話に割り込んですまないと謝った。

「いや、別に大丈夫です。お客さんがあまりにもズバリと言い当てられたので驚いてしまったんです。それじゃ話を続けますが、確かにお客さんの言う通り私うどんに天かすと生姜と醤油を全部こぼしてしまったんです。どんぶりみると口の悪いお客さんたちがよくいうようにまるで嘔吐物のように天かすがうどんに降りかかっているじゃないですか。さらに生姜はその上に道端の犬のフンみたいに乗っかっている。その天かすと生姜の周りにはこれも犬のおしっこみたいに醤油がかけられている。こんなものお客さんに出せるわけがない。私はお客さんにもう一度うどんを作り直しますって言ったんです。私はもうこの時点で諦めていたんです。多分このお客さん、怒って店から出ていくだろうなって。だけどあの人は店から出て行かずに、それどころかうどんを作り直さなくていいからその天かすこぼしたうどんを持ってこいと言ってくれたんです。私それ聞いて涙が出そうでした。私は丁寧にどんぶりを拭いてその天かすと生姜と醤油をこぼしたうどんを持って行きました。お客さん、うどん見ると眉間に皺を寄せて厳しい顔をさらに厳しくしたんです。私は無理はしないでくださいと声をかけようとしたその時でした。お客さん、いきなり箸を取り出してうどんを啜ったんです。私はうどんを食べた瞬間のお客さんの姿を今でも覚えています。あの人はうどんを啜った瞬間目を輝かせてこう言ったんです。『なんて素晴らしいうどんだ!天かすはまるでうどんという泉から湧き出て川となったうどんに乗って泳ぐ川魚だ。生姜は川底に生えた新鮮な水草じゃないか。そして醤油はその川や魚や水草に命を与える天の恵みの雨だ。ああ!こんなうどんは初めてだ!勝手にしたが進んでしまう!』あの人は天かすと生姜と醤油が入ったうどんを全部食べ終えてから私にこのうどんは絶対にメニューに載せるべきだと熱く語り始めたんです。それからあの人はずっと天かす生姜醤油全部入りうどんを食べにきてくれました。それだけじゃなくてあの人自分の友達まで店に呼んでくれたんです。そのうちに噂を聞いてか他のお客さんもだんだん来るようになってどうにか廃業だけは免れました。でも私はもうあの人のためだけにずっと天かす生姜醤油全部入りうどんを作っていたんです。あの人の天かす生姜醤油全部入りうどんを食べた時に見せる笑顔かただ見たくて……」

 私は女将とこの客に恋愛めいたものがあったかも知れぬと懸想した。しかし女将はそれを見とってか笑ってこう言添えた。

「あの、一応誤解のないように言っておきますが、その人おじいちゃんなんですよ。厳しい顔の人なんですが、話してみると意外にチャーミングな人で。時折奥さんやご家族の方を連れてきたりしていたんですが、去年亡くなってしまいまして……。奥さんはあの人が亡くなる前によく私のうどんが食べたいなって言っていた事を教えてくれました。だから私この天かす生姜醤油全部入りうどんがゲロうどんだってバカにされてもやめるつもりはないんですよ。この天かす生姜醤油全部入りうどんを食べてくれる人がいる限りは」

 こう清々しく言い切る女将は凛々しく見えた。私は女将の話に心を動かされ是非とも彼女を助けてやりたいと思った。こんな人里離れた山深くてたった一人客に尽くしに春につくしが出るのを待つのは辛いし大変だろう。外はまだ冷たい夜風が吹いている。予報によるとこの辺りは深夜に雪が降るらしい。せめて温もりでも与えなきゃと私は思う。

「女将さん……」

 その時である。女将が急にもう店じまいだと言ってきた。確かにもう時間だ。私は長い間時間をとらせてすまないと謝った。すると女将も私こそ話に付き合ってくださってありがとうございますと言って軽くお辞儀をした。夜風が窓に当たって大きな音を立てる。私は勘定を払うと女将に後ろ髪引かれる思いを感じながら店を出た。女将は店の前で私を見送ってくれていたが、私が離れたのをみると店を閉め、それから店に入って戸を閉めそして何度も大きな音を立てて念入りに戸が閉まっているか確かめていた。

武蔵うどん つくし
営業時間 10:00〜20:00
休日 月曜日 年末年始

歿

 さてこれでグーグルに絶対載らないうどん屋六店の紹介は全て終わった。一部主観に走りすぎ、また個人的な事を書きすぎた面はあるがそれぞれのうどん屋の魅力はうまく語ることは出来たと思う。しかしそうは言っても天かす生姜醤油全部入りうどんはやはり自分で店に行って味合わなければわからないものだ。どれほど語ろうがやはり味わってモラはなければ仕方がない。だから私は皆さんがこれら六店舗に興味を持ってもらうよう苦心して記事を書いたつもりだ。私としては皆さんがこの記事を読んでもらいこの六店舗のうどん屋に行ってもらう事を期待するしかない。

 私はこれら六店舗のうどん屋やその他ここでは書ききれないほどの美味しいうどん屋さんを巡っているうちに、各店舗のある店やその店のある土地についての歴史を知ったが、それはやはり店や土地ごとにさまざまな歴史があり、人間ドラマがあった。各店舗ごとに違う天かす生姜醤油全部入りうどんの発祥の秘密。その虚実入り混じった偽りも含めた歴史の重み。そして天かす生姜醤油全部入りうどんにまつわる人間ドラマ。私はうどん屋の主人からそれらの話を聞いていくうちに彼らの話に一つの共通がある事に気づいた。と、ここまで読んだ方はその共通点が何かとっくにご存知であろう。それは皆天かす生姜醤油全部入りうどんが、偶然天かすと生姜と醤油をこぼしてしまったことで出来たと証言していることだ。事実がどうであるかはわからないが、各店舗のうどん屋が揃ってこう証言しているのだからこの話にはやはり真実味があるのではないかと思う。誰が最初にそれをやったのかは残念ながら断言はできない。うどんを日本に伝えた空海であるかもしれないし、恐らく日本で最初に天ぷらを食べた一人である信長であるかもしれないし、また秀吉や家康であるかもしれない。あるいはそうではなく実は現代のうどん職人であるかもしれない。もしかしたら現代のうどん職人が自分の天かす生姜醤油全部入りうどんに箔をつけるために空海や信長や秀吉や家康の名を持ち出したのかもしれない。

 しかしいずれにせよ天かす生姜醤油全部入りうどんが、誰がうどんに天かすと生姜と醤油をこぼしてしまった事によって出来上がったのはやはり真実であるのだと私は思う。私はこの奇跡に深く感謝したい。もしどこぞの誰かがうどんに天かすと生姜と醤油をこぼさなかったら今頃うどんは無味乾燥としたつまらない麺ものとしてとっくに廃れ文献だけで確認できるだけの代物になっていたのは確実だからだ。天かす生姜醤油全部入りうどんが生まれなければ私は今こうして天かす生姜醤油全部入りうどんを巡って全国を行脚することはなかっただろうし、うどんを巡ってさまざまな貴重な出会いもなかっただろう。

 私は最初にうどんに天かすと生姜と醤油をこぼした人間に深く感謝したい。あなたが私たちに天かす生姜醤油全部入りうどんという奇跡をくれた。あなたがいなかったら天かす生姜醤油全部入りうどんはなかったのだ。

 私はこの奇跡を抱きしめ今日も天かす生姜醤油全部入りうどんを食べる。

この記事が参加している募集

おいしいお店

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?