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《連載小説》おじいちゃんはパンクロッカー 第五回:母の死

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 翌日勤務中の露都の元に電話があった。彼はすぐにスマホを確認して相手が病院なのにゾッとした。アイツに何か異常でもあったのか。もしなんかあったとしたら。露都は文書作成中のPCの蓋を閉じて駆け足で事務室を出た。

 病院からの電話は垂蔵が昼間に咽んで嘔吐したことの報告と、これからの入院費についての相談だった。看護師は体調の方はすぐに落ち着いて問題ないようだが、入院費の方は垂蔵に全く金がないということなので息子さんに支払ってもらえないかとの事だった。露都はこれを聞いて急に垂蔵への怒りが湧き、思わず奴の肩代わりなどしないと断ろうとしたが、喉元まで出かかったところで飲み込んだ。続けて病院は彼に改めて垂蔵の体調の報告と入院費の相談がしたいと言い、今日時間が取れるかと聞いてきた。露都はそれに対して18時から19時の間にはそちらに行けると答えた。

 病院の相談室で露都は看護師に垂蔵の体調と入院費について説明と受けた。露都は看護師の話をほとんど聞き流しながら自分の意思の足りなさをひたすら責めていた。なんで電話で払うつもりなんてないって言わなかったんだ。あんな奴病院から叩き出されて野垂れ死すればいいんだって。だけど俺はそう思いながらも実際に奴がそうなった時の事を想像して怯えている。もう正直に認めざるを得ない。俺は垂蔵が死ぬことに怯えているんだ。それに奴を見捨てたら母さんは絶対に俺を責めるだろう。そして俺自身が俺を一番責めるんだ。こんなクズでもお前の父親だろ?なんで助けなかったんだって。その時看護師がいつの間にか話を終えたらしく入院費の支払いの同意書を差し出してきた。露都は深いため息をついてからそれを一通り読んでサインと印をした。

 露都は看護師と共に相談室を出た時、看護師にお父様には会いに行かないのかと聞かれた。露都はこのまま帰ると言おうとしたが、ふと気が変わって、やはり見舞いに行く事にした。さっきの想像がふと頭をよぎったからだ。別に顔見せに行ったってどうせ入院費は自分が肩代わりするって報告するだけだ。起きていたらそれだけ言って帰ればいいし、寝ていたら顔だけ見て帰ればいい。ただそれだけのことだ。

 看護師は垂蔵のいる病室の前に着くと、消灯は九時だからそれまでに退出して欲しいと伝えて去って行った。あたりは薄暗い闇だった。奥の方にいくつか影で黒くなっているドアがあるが、廊下を歩いているときに看護師から聞いた話では、あの辺りは全て個室だという。看護師は垂蔵も近々個室に移動になると言っていた。露都は影に隠れたドアを見て垂蔵が母親の末期を忠実になぞっているような気がして気分が悪くなった。彼は嫌なものを追い出そうと舌打ちして病室のドアを開けた。

 病室は異様にシンとしていた。部屋の患者は皆寝ているようであちこちからかすかないびきだけが聞こえていた。垂蔵もまたベッドでぐっすりと寝ていた。露都はこの六十を超えているのに相変わらず髪を染めてイキがっている父を見て思いっきり舌打ちした。ったく地毛はもうほとんど白髪で禿げ上がってるのに相変わらずバカな事しやがって!その赤白緑黄色の髪の色ってパレスチナと連帯するって事なのか?ダサいんだよアンタは。アンタのその幼稚な反体制気取りのために母さんは犠牲になったんだぞ。わかってるのか?いや、アンタは絶対にわかってないんだ。今に至るまでずっと!アンタは母さんが死んだ時でさえ何も変わらなかったんだから! 露都はベッドのそばにあった丸椅子に座った。そして寝ている垂蔵の顔を見ていると母の亡くなった夜の事が思い浮かんできた。


 あの日露都は深夜に病院から電話で母親が危篤だと告げられてすぐさまタクシーを呼んで病院へと向かった。彼は数時間前に見舞いに行き、元気な母を見たばっかりだったから、この危篤の知らせはショックだった。露都はタクシーで病院へと向かっている最中何度も垂蔵に電話をかけたが、垂蔵は全く出なかった。病室に着くと沈痛な顔をした看護師と医師がそれぞれベッドを挟んで立っていた。二人の間のベッドには母親はすでになく、そこにはただの人の形をした殻が横たわっているだけだった。

「申し訳ありません。もう少し早く患者様の異変に気付いてあげればよかったのに……」

 露都にはそんなことどうでもいい事だった。母の最期の言葉を聞こうが母は蘇ったりしないのだから。母が死んではそんなものは全く意味をなさないのだから。露都は母の命が体のどっかにまだ残っているんじゃないかと思って遺体の手を握ったがそれはゾッとするほど冷たかった。その手の冷たさに体が震えたまらず膝から崩れ落ちて泣き叫んだ。

 それから一時間程経って垂蔵は現れた。垂蔵は明らかに酔っていた。彼は顔を真っ赤にして体をふらふらさせていた。だが、目の前の妻を見て思いっきり目を剥いてベッドに駆け寄った。

「おい!どうなってんだこりゃ!全く動いてねえじゃねえか!おい!お前寝てんのか?ふざけて寝てんのか?起きろよ!起きろよ!」

 垂蔵はベッドに横たわる妻を揺さぶった。看護師はすかさず彼の前に立って止めようとしたが、垂蔵はその看護師を振り切って妻にしがみついた。

「どけよバカヤロウ!この能無し野郎が!コイツが動かねえってのになんで何もしねえんだ!まったく、こんなに冷たくなっちまって!今すぐ温めてやるからな!」

 その時病室に鋭い音が鳴った。露都が踵で床を思いっきり蹴ったからだ。露都は激しい憎悪を込めて垂蔵に向かって叫んだ。

「やめろ!みっともねえな!こんな時まで恥をかかすなよ!お前の奥さんはさっき死んだんだよ!誰にも看取られないで死んだんだよ!他ならぬお前のせいでな!」

 病室に長い沈黙が流れた。しばらくして医師が垂蔵と露都に向かって患者の死亡を告げた。

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