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鼻のけもの バナナサンデー

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鼻のけもの バナナサンデー20話

鼻のけもの バナナサンデー20話

店主はひとり定休日の店の厨房に立っていた。妻とそれに連なる諸々の悪夢を見たせいで起きてからずっと現実感が、ない。
店主はバナナの皮を剥き、スライスし、サンデーグラスの底に緑色のシロップを垂らし、コーンフレークを匙でいれ、アイスを重ね、とバナナサンデーを作った。
よくサンデーはバナナとチョコレートシロップを合わせる。だが、これはチョコレートシロップは使わない。
息子は幼い頃、偏食だった。
バナナはか

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鼻のけもの バナナサンデー第19話

鼻のけもの バナナサンデー第19話

店主は嫌な汗をたっぷりかいて目が覚めた。
ひさしぶりの悪夢だった。
息子が死んで、嘆き悲しんだ妻を逆上させてしまい、殴られた。
途中までは現実にあった事だった。
しかし、妻に蹴りを入れられてから、店主は無抵抗だったわけではない。
実際は殴り返したのだ。
その時の事を考えると死にたくなる。
妻の十和子が馬鹿力だとしても所詮は女の力だ。店主は妻の腕を掴み、ぐいと引っ張りよろめいた妻の頬を張った。
十和

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鼻のけもの バナナサンデー第18話

鼻のけもの バナナサンデー第18話

店主はうつむきぼそぼそとサンドイッチを食べていた。
ふと気配を感じて何気なく振り向くと幽鬼のようになった妻が赤く泣き腫らした目で店主をじっと見ていた。
「うわっ」
思わず椅子から転げ落ちそうになる。
妻の十和子の頬はげっそり削げ、肌は死人のようだった。
髪は何日も梳かしておらずボサボサだった。
「あなた…何食べてるの?葉が死んだっていうのによくサンドイッチなんか食べられるわね」
店主はまじまじと妻

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鼻のけもの バナナサンデー第17話

鼻のけもの バナナサンデー第17話

店主がぐっすり眠っている夜中、鼻のけものは鼻から飛び出し布団のヘリに着地した。
店主の鼻の中はヤニ臭かった。
煙草をバカバカ吸うせいだ。
(だけどな、煙草バカバカ吸ってても必ず肺癌になれるわけじゃないだろ!)
鼻のけものは憤る。
別に店主は肺癌になろうとして煙草を吸っているわけではないだろうが、自暴自棄というか感じがぷんぷん匂うのだ。
確かに息子が死んでしまい、妻も出て行けば虚無的にもなろう。

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鼻のけもの バナナサンデー第17話

鼻のけもの バナナサンデー第17話

息子のことを思い出すとやるせなくなる。
胸か重苦しくなる。
自分がなんのために生きているのかわからなくなる。
それでも、生きていかなければならない。
意味などないのだ。生きることに。
意味がないならば、抜け殻だろうと廃人だろうと呼吸をし、飯を食い、眠り、まったく意味のない己を生きるしかない。
店主はまた煙草が吸いたくなった。
やるせなさが煙草を求める。
自分の無力さと浅はかさを眼前に突きつけられ目

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鼻のけもの バナナサンデー第16話

鼻のけもの バナナサンデー第16話

ひとの心の中は計り知れない。
親と子であっても、夫婦であっても。
それでも生きてさえいれば、いつかは心を打ち明け合う時が来るはずだ。
店主は自分が父親になった時、決して我が父のようにはならないと自分を戒めた。
店主の父は暴力を振るう男だった。
何度、殴られたかわからない。
それは店主の心の底に澱となり、成長してからも店主を苦しめた。
幼い時の痛みと恐怖。
生きる事は耐えがたい苦痛だった。
妻と出会

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鼻のけもの バナナサンデー第15話

鼻のけもの バナナサンデー第15話

(わあ、切り干し大根の匂いがぷんぷんするぞ!)
厨房のボウルの中で切り干し大根を戻している。そこからひなびた大根の匂いが空気中に漂ってくる。
鼻のけものが大根の匂いに気を取られているうちに店主はバナナの皮を剥き、スライスし、サンデーグラスの底に緑のシロップを入れ、コーンフレーク、バニラアイス、バナナと盛りつけ、仕上げにホイップクリームとバナナを飾り、カラフルなチョコスプレーを散りばめた。
バナナサ

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鼻のけもの バナナサンデー第14話

鼻のけもの バナナサンデー第14話

店主は店の勝手口に座りマルボロをふかした。煙を胸いっぱいに吸い込むと頭が弛緩した。張り詰めていたものがほどける。
梅雨明けしたのか、陽射しが照りつけている。午後の暑い盛り。今年は暑くなると連日テレビのニュースで言っている。
毎年同じ事を言っているな。
結局、世の中は対して変わらない。
(喜びもなければ悲しみもない)とちぎり絵画家の山下清は書いていた。
写真の山下清をみると確かに表情がない。
喜びも

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鼻のけもの バナナサンデー第13話

鼻のけもの バナナサンデー第13話

鼻のけものは店主の鼻の中でむうっと身を縮めた。
店主の過去がどんどん見えてくる。
湿った空気の匂い。線香の匂い。
…死の匂い。無機質な壁。
どうして遺体安置所はこんなに寒いんだろう。…馬鹿だなぁ。遺体を腐らせないよう冷やしてるんだよ。
息を吸い込むのも躊躇する。
床に十和子が座り込んで泣いている。
自分はそれをぼんやり見下ろしている。
警察のひとが困った顔をしてこっちをみている。息子さんかどうか、

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鼻のけもの バナナサンデー第12話

鼻のけもの バナナサンデー第12話

店主はゆで卵の殻を剥きながら、やっぱりポテトサラダではなくてミモザサラダにしようと考えた。
ゆで卵を白身と黄身に分けて目の細かいザルでそぼろのようにする。
それをレタスの上に振りかける。
スライスした赤いパプリカを散らす。黄色がミモザの花のようにレタスの上に彩られる。色合いが優しい。
店主はうなずきながら仕込みを続けた。
鶏むね肉に薄く塩こしょうを振り、チキンカツの下準備をし、味噌汁用の出汁を大鍋

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鼻のけもの バナナサンデー第12話

鼻のけもの バナナサンデー第12話

あの地に打ちつけるような激しい雨。
不安をかき立てるような暗い空。
電話に出た十和子はまだ怪訝な顔をして、受け答えをしている。
「そうです。早瀬葉は息子です。…はい。私は葉の母ですが…。え?なんですか?葉が?……」
みるみる十和子の顔が変わる。
店主は葉に何かあったのだ、と動悸がしてくる。十和子が口を手で覆う。手の甲に小さなほくろがある。見慣れた妻のほくろ。耳朶を雨音が撃つ。十和子の青ざめた顔。

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鼻のけもの バナナサンデー第11話

鼻のけもの バナナサンデー第11話

その夜、店主は布団に入るとたちまち寝息を立てた。
鼻のけものは勇躍躍り上がって、しがみついていた肩からジャンプすると店主の鼻の穴に飛び込んだ。
鼻のけものは鼻の中に居てこそ本領を発揮できるのだ。
当たり前だが人間の鼻の中は湿っている。
鼻毛の隙間に身を落ち着かせると鼻のけものは精神統一しはじめた。
店主の心と一体化する為、じりじり集中した。
鼻のけものは店主の心に近づいた。
ひとの心は一瞬、一瞬で

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鼻のけもの バナナサンデー第10話

鼻のけもの バナナサンデー第10話

鼻のけものは煙草の煙を見つめた。
店主はつらい思い出を紛らわす為に煙草を吸っているのかもしれない。
ゲホッと時折咳をするが、店主が煙草を吸うのはニコチンに依存というより、まるで自分を罰しているようだった。
(さみしさ…。砂漠の中にひとりぼっちの、どこへも行きようのない果てのないさみしさ…)
さっきのお風呂の思い出はまるで幸せな父子の絵の中のひとつの欠けもない温かさだった。
それが、今はどうだ。

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鼻のけもの バナナサンデー第9話

鼻のけもの バナナサンデー第9話

店主はテーブルの椅子に深く腰かけ、扇風機の風にあたっている。
シャワーを浴びた短髪に水滴が残っていた。鼻のけものはミントの匂いのする店主の肩にじっとうずくまった。
ミントはシャンプーの匂いだろう。
じっとりした店主の身体に同化するように全身の感覚を研ぎ澄ませた。
すると遠くの方から微かに映像が見えてきた。
店主の記憶だ。
お風呂のじわっとする湯気。
笑い声。
おもちゃの黄色いあひる。
甘いフルーツ

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