まなざしを受けることと、そのなかで自分を再構成すること

(今回の記事は「だ・である」調で書いてます。)
私は自分のことをとても自分中心的な人だとある時までは思っていた。本当にそれは自己中心的だというのは、内面の心が自己中心的で、その自己中心性ゆえに周囲と諍いになることも稀ではなかったのである。
それではいけないと思い始めたのはもう30代になってからでどうして自分は周囲と摩擦になることが多かったのだろうとその頃から反省し始めた。
私自身は自分のことについて何かしら変なことはあるのだろうと思っていたが、そのなかでも自分が本当は自分の心と呼べるものが分裂していることをその頃から感じ取っていた。
私は自分というもの、〈私〉と呼べるものが2つの中心を元に構成されていることを感じていたのである。
〈私〉は例えばアウターセルフとインナーセルフという形でその2つの中心を言語化することもできるのであるが、私自身、社会生活を送るうえでその2つの自我の構成について考えざるを得ないというように思い始めた。
私は自分のことについてまなざしを受ける時にそのまなざしが辛いということを思い始める時があった。
まなざしを受ける時にどうしてこの仕方でしかまなざしを受けないのだろうか。別の仕方でこのまなざしを自分に向けられる仕方を調節できないのかと思っていた。

私はこの点に関して『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のエピソードを引きたいと思う。

『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のなかで、「囚人と自動手記人形」というエピソードがある。そのなかで、ヴァイオレット・エヴァーガーデンはエドワード・ジョーンズという囚人に仕事を依頼されて彼に会いに行くのである。
私はそのなかでエドワードが特に囚人として、またサイコパスとして自分を見るまなざしに苦しんでいるように見える。
その点について引用しよう。

「やあ、ヴァイオレット・エヴァーガーデン」
椅子には一人の男が腰掛けていた。首と手首と足に黒い鉄の拘束具が嵌められている。
特徴的な声色をしたその男は清潔感溢れる優男だった。綺麗に整えられたフロスティンググレイの髪。陽にあたっていないせいか蝋のように白い肌。白のツナギを着ているので彼の白さが更に誇張されている。ヘイゼル色の狐目の下の泣きぼくろが特徴的だ。
温和に微笑む表情に暴力性は感じられず、これがアルタイル刑務所で最も厳しく管理されている囚人とは思えない。

暁佳奈 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 上』 KAエスマ文庫、2015、209-210頁

しかし、彼はやり取りのさなか自傷行為を始めてしまう。

声だけは笑っていない。
一度では気が済まなかったのか何度も、何度も自分が傷つくのも構わず手を机に打ち付ける。
〔…〕突然、エドワードが狼のごとく咆哮を上げた。部屋中反響してひどい騒音だ。〔…〕
「困るなぁ。……ねえ、ヴァイオレット。君はいいよね。同じことしても英雄扱い。話もちゃんと聞いてもらえるだろ。僕はダメさ。一度ダメと烙印を押されるともうダメなのさ」〔…〕
「なのに……裁判官も僕を悪い悪いって……。話をちゃんと聞いてほしいなあ。ああ、君が羨ましい。ヴァイオレット。君はどこまでもお綺麗だ。綺麗で、綺麗で、僕みたいに汚物扱いされない。お前はダメな奴だって。言われないだろ。」〔…〕
「……彼女と僕。何の違いが、あるのかなぁ」

同上、213-218頁

エドワードはヴァイオレットも自分と同じことをしたのに(少なくともエドワードはそう思っている)、罪人として扱われることなく、自分が罪人として刑務所に入れられていることに苛立ちを覚えていて、それをヴァイオレットにぶつけている。そのような描写がある。
実際にはエドワードはかなり残虐な行為をしているため、ヴァイオレットが兵士として人を殺したという経験とは質的に異なる意味で人の命を奪っている。質的にヴァイオレットとエドワードは異なっているが、エドワードはヴァイオレットも自分と同じく人殺しであると思っており、どうして自分はこんな場所で苦しまないといけないのかと怒りを覚えているように見える。

エドワードは自分のことを「僕」と呼んでいるが、「僕」という一人称は未熟な印象を与えるため、大人の男性は基本的にするべきではないという内容を私の過去の指導教員はSNSで行っていた。
エドワードは「僕…」「僕…」という一人称を繰り返し用いる。それによって彼の未熟さが描写されることになっている。

エドワードとヴァイオレットには質的な差はあるが、エドワードはヴァイオレットは自分と同類だと思っている。
しかし、エドワードは刑務官に「サイコパス」だと言われて、かなり特異な存在としてのまなざしを受けている。
ただ、エドワードはこのようにまなざしを受けることには彼の行為の積み重ねがあったため、仕方ないとは言える。
しかし、このエドワードだが、もう一度『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のなかで登場するのである。

閉じたままだった馬車の扉が開く。中から黒髪の、どこか雰囲気のある優男が顔を出した。
「……君、僕が降りよう。代わりに彼女を乗せてやってくれ」〔…〕
男は爽やかに笑顔を振りまく。親切心あふれる姿に御者はいたく感動した。
接客業をしていると困った客に遭遇することのほうが多い。
こんな優しい客は彼の長い御者人生でも初めてだった。
〔…〕男は黒い外套を羽織って、夜の中に溶けるように歩いて去っていく。
「な、名前は! 名前、伝えとく!」
カトレアが言うと、男は振り向いて笑った。白い肌は、夜の道では亡霊のように映る。
「エドワード・ジョーンズ」
男が手を振ったので、カトレアも大きく笑顔で手を振った。
まさか彼が元死刑囚の脱獄犯であるとは、誰も気づいていない夜の出来事だった。

暁佳奈 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン 下』 KAエスマ文庫、2016、325-327頁

こういう風にしてエドワードはヴァイオレットに会いに来るという目的で街に来たのだが、そこでヴァイオレットの同僚の女性に馬車の席を譲るのである。その譲る行為には、彼のそれまでにはなかった利他性が示されているのかもしれない。
彼は刑務所のなかで「サイコパス」として見られていたまなざしとは異なるまなざしを次の場面を受けている。
人はまなざしに苦しむことがある。
例えば、『無知の涙』で知られている元死刑囚の永山則夫は都会に来てから彼に向けられるまなざしに耐えられなかったし、また『絶歌』の元少年Aも自分自身を透明人間であるかのように感じていたらしい。

人は自分に向けられるまなざしに苦しむことがあるのである。
そのまなざしのなかで自分の存在について「自分だけがこんな状態に陥っている」として苦しむことは例えば最近で言うとインセルがそうなのであろう。

でもそうした人たちを本質主義的に悪だと決めつけるのはまた彼らを特異な存在としてカテゴライズすることで、そうカテゴライズする側は安全圏に居て、ジャッジできる健全な市民という境界画定を行ってしまうことになるのだと思う。

私は自分に貼られたレッテルに苦しんだことはあった。もちろん面と向かって言われたことはないが、例えば「精神障害者」また「妄想を持ってしまった可哀想な人」また「もうダメになった人」といったレッテルなのだと思う。
私自身は自分自身に貼られたレッテルのなかで、自分のなかでどうにかできるものもあるとは思っているけれど、どうにもならないものもあると思っている。
私は自分の努力でなんとかできることはなんとかしたいけれど、努力をしてもなかなか周囲からのまなざしを変えることは難しい。

私自身、期待されていた頃もある。期待され、周囲からの承認もまた得られている時期があった。その時は特に自分の性格が仮に自己中心的なところがあったとしても、それはキャラとしてそれほど評価に対してマイナスに働いていなかったのだと思う。

精神疾患をその後悪化させてしまい、周囲とのコミュニケーションも歪んでしまった頃になってはじめて、自分の性格を見直そうと思った。

私は自分のことについて反省せねばと思っていることもある。その反省しなければならないことは自分の精神不安定が原因になっているものが多いが、その精神不安定はどこから来ているのか。
その原因は未だにはっきりしていないが、私は昔から運動神経が悪く、手先も不器用でとても弱い男性だったと言うことは言えると思う。それで周りが苦もなくできているように見えることができず、幼稚園や小学生の頃から苦しむことは多かった。例えば、幼稚園の頃は毬がつけなかったことがあった、また小学生の頃は様々なドジなことをしてしまい、また長縄が自分ひとりのせいでクラス全員が飛べないことがあった。

そのなかでジェンダーについて悩むこともある。

私はトランスジェンダーに対する差別については正されるべきだと思っています。(注、ここからまた「ですます」調が出てきます。)

私は「一般化された他者」という社会学のなかで言われている概念について、その「一般化された他者」を自分のなかに内面化することを通じて、人は自分の行為を制御できるようになるということを聞いている。

解離的な感覚について今回は少し書いたけれど、まなざしという問題についてきちんと見ないといけないと思って、こうして書いています。

なかなか一度「特異な存在」として周囲からまなざされてしまうと、それを回復するのはかなり難しいです。

私は30代で、また既婚の男性ですが、実は自分のジェンダーについては悩んでいます。男性の服を着ていても、自分の心は実はトランスジェンダーではないかと思っています。それはなぜそう思うかというと、私は男性としては男性の振る舞いをして男性の語りをする存在としては「社会的な存在」になれないというその一点にありました。
「社会的な存在」になる時に、私はいわゆる「男」としての役割を諦めねばならなかったのかもしれません。
「男」としての役割と社会的な存在としての役割の間に葛藤が生まれてしまうのです。

昔見た記事(今はリンクが消えています)のなかで、齋藤学さんという精神科医の人が女性性に富んでいた男性が男性を演じようとすると行き過ぎてしまうということについて言及していました。
それは実際に事件になったことについての言及なのですが、私も自分のことを100%男性だとは思わずに自分のなかにアニマ(ユング心理学における男性の女性性のこと)を大事にするか、もしくは自分自身もしくは女性性がかなり強いタイプの人なのかなと思うことにしたいとは思っています。

なので、強く男性を演じようとすると、自分も「僕は…」と言ってしまう、その時の自分を反省的に捉えなければと思っています。

私は自分のことを反省的に捉えたうえで、自分の状態について少しでも苦なく振る舞えるようになりたいとは思っているのですが、まだ自分自身、十分に成熟した人としては振る舞えていないかもしれません。

少しでもそうしたところを良くしなくてはと思っています。

ただ社会の構造的問題はあると思っています。私自身、構造的に有徴化された存在であるとは思っています。
有徴/無徴についてはここでは展開はしませんが、たとえば「女性弁護士」「女医」という言葉はあるのに「男性弁護士」「男医」という言葉はないという時に女性は有徴化された存在だということ、つまりマークのつけられた存在としてあるのだということを大学の先生に教えてもらったことがありました。
私は精神障害者として「障害者採用」という枠のなかに入れられています。
私自身、スティグマがつけられた、マーキングのされた存在です。

それを、どう今後の人生で改善していけるか。
その問題について、もちろん解離という問題もあるし、統合失調症系の問題もあるけれど、自分自身、自分に向けられるまなざしのなかで自暴自棄にならないように、たとえ周囲から十分に承認されていない時でも、自分のことを信じて、文章を書けるように努力していきたいと思います。

精神障害者が置かれている状況に対して彼ら/彼女らが、あるいは彼ら/彼女らの病気が良くないという障害の個人モデルではなく、社会モデルで考えていけるように自分も働きかけられる機会があれば働きかけたいです。

桜はだいぶ散りました。もう4月の上旬も終わり、春もたけなわになってきました。
少しでも穏やかにこ季節を過ごしたいです。

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