魂の浮遊と身体の存在感

突然ですが、アヴァターについて考えている大黒さんという方の論考から少し引用します。黎明期のインターネットから今日のメタヴァースの前面化する世界のなかで何が変わったのかという点で、アヴァターについて触れています。

まず第一に、黎明期のインターネットにおいては、ネットワークの各ノードが専らテクストによって構成され、事後的にそれと認知される自然発生的な存在者であったのに対して、〈VR=メタヴァース〉においては、各ノードが意識的に構成された〈アヴァター〉というかたちで躯体を備えるに至っているということ。これは、ネットワークを織り成す、ないしネットワークの結節に当たる、謂わば”点”的な存在に過ぎなかったノードが、たんに有形的な擬似的”身体”を備えるに至ったというだけの話には留まらない。それは同時に、人為的に構成された疑似”身体”にその操作者の”魂”が吹き込まれることを意味する。謂うところの”魂”を通じて操作者とアヴァターが繋がると同時に、この繋がりを利用して操作者はアヴァターによって表現される〈自己〉イメージを自らのコントロール下に置くことが出来る。つまり、ノードの躯体化とは、操作者の〈自己分裂化的自己統一〉の実現、あるいは、新たな〈自己〉の創出の事態に他ならない。

大黒岳彦 「メタヴァースとヴァーチャル社会」『現代思想 2022年9月号 特集=メタバース』 青土社、99頁、太字強調はnote記事作成者による

第二に、ということで、〈サイバースペース〉の複数性と多様性が操作者に与える影響についても触れられていますが、ここでは省略します。

以下に少し考察しておきます。

魂というものを現実に表すものとして、このネットワークにおけるアヴァターの存在があるのなら、私たちが実際にアヴァターを通じて〈もう一人の自己〉を実現化することも可能であるでしょう。
ただ、アヴァターを通じて実現する〈もう一人の自己〉について、それが何らかの不誠実を行うこともあるのではないでしょうか。
実際には、自分自身の感じている内面にシャープがついた、つまり半音上がったような心の内面になっているのではないでしょうか。

「存在者としての私」と「眼差しとしての私」という区別をこの前、私は柴山雅俊さんの記述として引用しました。

この「存在者としての私」は(現実に周囲とコミュニケーションを取って出来上がった人格という意味で)私にとって主人格のようなものでしょう。その主人格の思考が〈もう一人の自己〉つまり「眼差しとしての私」の思考によってかなり影響を受けてしまうということがあるけれど、それはそれで大丈夫、自分をつまり「男性の意識」「存在者としての私」〈自己〉の存在を保つことができれば大きな問題が生じてくることはないでしょう。
私は確かに「女性の意識」「眼差しとしての私」〈もう一人の自己〉の存在から感知しなければならないことはあるが、私の「男性の意識」「存在者としての私」〈自己〉の側のつまり身体と結びついた自分の方を現実生活のなかで保っていかないといけないので、その〈自己〉の感覚がなくならないように、たとえそれが周囲の期待に沿うものではなかったとしても、(私の尊敬するある哲学者はある幼児虐待をした母親に対して周囲の期待に答えようとしないことが彼女には大事だったと言っていた)その〈自己〉感の保持に努めていかねばらないと思います。

というわけで、今回は「男性の意識」「存在者としての私」〈自己〉の観点から書きました。この意識の二重性の問題について少しでも多くの人に理解してくださったら幸いです。
ただ、もし理解が難しいものであったとしても、直感的には受け入れ難いものであったとしても大丈夫です。
自分自身の心の整理のためのものと言ってしまえばあれなのですが、もともとは覚書のようなものですから。

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