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A' 【32】

 夏樹は毎日のように七海を訪ねて来るようになった。七海は帰宅部で、放課後は真っ直ぐ家に帰る。自宅ではいつも祖父母と一緒に、近所に住む亜紀ちゃんが待っていた。亜紀ちゃんは母子家庭で、母親は一日じゅう働きづめだが幼稚園には通っていない。事情はなんとなく分かっていた。七海にも両親がなく、祖父母と三人で暮らしてきたから亜紀ちゃんの気持ちも分かるつもりだし、祖父母のほうも、すっかり大きくなってしまった孫の他に小さな女の子が舞い込んできたことを、心底楽しんでいるようだった。葉っぱや折り紙を使ったままごと遊びが大好きな、素直な子供。亜紀ちゃんはそういう子だった。
「ねえ、七海のおうち、託児所にされているんじゃないの?」
 夏樹がそう言ってきたのは夏休みのある日のことだった。
「いいじゃん、託児所。あたし子供好きだし、じいじとばあばのボケ防止にもなるし」
 七海はわざと、きょとんとした顔つきを作って答えた。嘘は言っていない。けれど、夏樹が亜紀ちゃんのことを良く思っていないことは、だいぶ前から気付いていた。夏樹と出会ってもうじき一年になる。この一年弱で夏樹は変わった。いや、夏樹という人間の深い部分を、じわじわと知ることになったのだ。夏樹は独占欲が強い。その嫉妬深さを向ける相手がたとえ子供であっても、言葉や態度に加減がなかった。
 深くため息を吐きそうになるのを大袈裟な背伸びでごまかして、七海は夏樹を連れたまま帰宅した。
「おかえりなさい、七海さん」
 変わってしまったのはむしろ亜紀ちゃんのほうだ。
「ただいま。小町だな?」
 名前を呼ばれて頭を下げたのは、亜紀ちゃんの姿をした別人格だった。
「今日もありがとうね。じいじもばあばも、困ったことはなかったかな?」
「はい。いつも通りに昼食後のお薬を服用しています」
「サンキュ」
 夏樹は託児所だと言ったが、むしろこの小さな介護士が祖父母の相手をしながら留守番をしてくれている。この半年ほどで祖母は急激に物忘れが激しくなり、祖父は足元がおぼつかなくなった。亜紀ちゃんは本当にしっかりしているねえ、と祖父母は目を細めて言う。見た目が幼い子供である「小町」にこんなことを任せているとは、亜紀ちゃんの母親には口が裂けても言えなかった。利用している――そんな自分を責める気持ちも当然あるが、亜紀ちゃんがこんなふうになってしまって以来、彼女の母親は少し心を病んでいるように見えるし、正直言って向こうも助かっているに違いない。やっぱり託児所だ。それでいい。
「また来てねえ、亜紀ちゃん。ありがとうねえ」
 しわしわの手が抱き寄せ、頬や頭を撫でる。小町は「はい」と小さく返事をしたあと、大人のような口調で「では、帰ります」と言って立ち上がる。
 と、祖母が呼び止めた。
「忘れ物、亜紀ちゃん」
 座椅子に座ったままで祖母が揺らしているビニール袋を、七海が代わりに受け取った。コンビニのロゴが入ったその袋に入っていたのはお菓子ではない。
「ばあば、これ……」
「最近、針に糸が通らなくてねえ」
 それは作りかけのつるし雛だった。七海も作ってもらったことがある。幼い子供の幸せと健康を願い、ちりめんなどで縁起の良いモチーフを作って繋ぎ、ぶら下げて飾るものだ。
 袋に入っていたのは達磨と招き猫、ふくろうのモチーフだった。祖母は昔から裁縫が上手で、ひ孫のような亜紀ちゃんにも作ってあげようと思ったのだろう。最近、針に糸が通らない。切ない言葉だった。
「ありがとうございます。大切にします」
 受け取り、小町は丁寧なお辞儀をした。送っていかなくていいのかと祖父が言う。亜紀ちゃん―――小町が一人で帰ってゆくのはこれが初めてではない。しかし別人格の事情など思いもしない祖父にそう言われては「いいの、いいの」なんて言う訳にはいかなかった。
「私が送って行くわ」
 夏樹だった。
 その横顔と声に冷たさを感じ、七海は引き留めようとする。が、振り向いた夏樹はにっこりと微笑んで言うのだった。
「七海はおじい様とおばあ様についていてちょうだい。心配いらないわ」
 頬さえ色づいて見えたその愛らしさを、七海は信用した。
 
 
 夏樹と小町は無言で歩いた。もうじき角を曲がれば三島亜紀の自宅に着く。ここまで来れば大丈夫だろう。ちらりと後ろを確認して、夏樹は小町の肩に手を置いた。
「ねえ、あなた。あまりでしゃばらないことね」
 小町の目が見上げてくる。驚きも見せないその表情に苛立った。
「あなた、分かっていないようだから教えてあげるわ」
 なんのこと? なにを? 少しくらい動揺したらどうだ。しかし都合がいいのも確かだ。小町が三島亜紀の中に覚醒して以来、夏樹はひそかに観察してきた。彼女は白紙のような存在だ。どうとでも塗り替えられる。
「もう小学生よね? 学校は? 亜紀ちゃんのお母様が病んでいるのも、あなたのせいよ。あなた、気持ち悪いのよ。子供の顔をして大人みたいな態度でいるから」
 小町は黙って聞いていた。
「そんなんじゃ、亜紀ちゃんは孤立する。いつまでも七海の傍にいられるわけでもないの」
 亜紀の孤立、というキーワードに、僅かに眉が動いた気がした。しめた、見つけた。夏樹は内心ほくそ笑む。
「亜紀ちゃんに戻って、学校へ行きなさい。しかるべき教育を受けるのは亜紀ちゃんよ」
 初めて視線が逸れた。
「七海に依存するのは悪いことよ」
 小町の唇が、何か呟くように動く。亜紀、と聞こえた。もう少しだ。行け! 自分に喝を入れ、夏樹はとどめの一言を放つ。
「それ、よこしなさい」
 指さしたのはビニール袋だ。しかし小町は抗った。「これは亜紀が貰ったものです」やっぱり、やっぱりだ。小町は三島亜紀のために生きている。胸が高鳴った。
「亜紀ちゃんに今日の記憶があるの? ないんでしょう。だったら、余計なものを持ち帰ったらますますおかしなことになる」
 想像するがいい。自宅に帰り、母親にそれはどうしたのかと訊かれる三島亜紀を。分からない、覚えていないと答える三島亜紀を。深くため息を吐き、独り言を繰り返す母親の姿を、それを見て自分を責める三島亜紀を!
「さあ。よこしなさい」
 数秒の沈黙のあと、つるし雛は夏樹の手に渡った。

 その後冬になるまで、小町は姿を現さなかった。時々、三島亜紀のままで遊びに来ることはあったようだが、それもいつしかなくなった。
「あーあ、あたしらの頃には年金なんていくら貰えんのかなあ」
 介護ヘルパーを見送った七海がぐったりと言う。腰に手をやりイテテ、とやる姿を見ると堪らなかった。ヘルパーが帰ったあと、七海はひとりで祖父母を看るのだ。ふたりの年寄りはあっという間に弱体化した。居間には介護用ベッドがあり、祖父が寝ている。祖母は身の回りのことを自分でできるが、認知症が始まったらしい。
 目の前でさっさとジャージに着替える七海から目をそらし、なんとなしに訊いてみた。確認である。
「亜紀ちゃんは、最近どうしているのかしら」
「ああ、元気だよ」
「今も遊びに来るの?」
「いやあ、いつだったかな。学校のことで悩んでるみたいだったから、勇気をだしてごらんって話したんだよね。積極的になってごらんよって」
 そう言うしかなくてさ、と七海は言った。それからしばらくして、亜紀ちゃんが友達と楽しそうに帰って行く姿を見たと。
「そう。少し寂しい気もするわね。ふふ……」
「うーん、まあ、いいんじゃないかな。それが一番だよ」
 頬が熱くなるのを感じた。もう大丈夫だ。あの依存娘は、完全に七海から引き離した。これで七海は私だけのもの。
 だが、まだ邪魔者が存在していることにすぐ気付く。
 見慣れた七海の部屋、きっと小学生の頃から使っている机の上に、それはあった。
 無造作に、そして無防備に。そのテキストに触れた指先が震えた。
「ねえ七海、これ……」
「ああ、それね」
 ジャージに着替えた七海は、情熱的な厚い唇をにいっと横に開いて言った。高校出たら介護の道に進もうと思っててさ。ようやくやりたいことが見つかったんだよね。
「じいじとばあば、自分で面倒見たいじゃん」


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