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ハルオサン 『警察官をクビになった話』 : 〈偽キリスト〉による救済

書評:ハルオサン『警察官をクビになった話』(河出書房新社)

警察の悪口を書けと言われれば、いくらでも書けるだろう。そんな人ならいくらでもいるはずだし、私にとってもそれは、ぜんぜん難しいことではない。そもそも警察が「正義」を実現するための組織だなどというのは、子供だましの「夢」でしかなく、まともな大人なら、そんな「おとぎ話」からは、さっさと目を醒しているはずだ。

警察というのは「国家秩序の維持を目的とした権力機関(つまり、国家の暴力装置)」でしかないし、警察の正義とは「権力者にとっての正義」でしかない。だからこそ、警察の正義は、その国の国家体制に准じて、如何様にでも変わる。
例えば、自由主義国家においては、正義とは「自由主義国家体制を守るもの」であり、共産主義国家においては「共産主義国家体制を守るもの」でしかない。言うまでもなく、両者の「正義」はまったく別物であり、両立することはない。つまり、ここで語られる「正義」とは、その国の「国家体制の自己正当化を目的としたお題目」でしかない、ということだ。
だからこそ香港では、数年前までは世界に誇るべき「市民警察」であったものが、あっさりと「国家警察」に変貌して、主権者だったはずの市民(シチズン)を弾圧する、国家の「暴力装置」になってしてしまう。一一「警察」とは、もともとそういうものなのだ。

だから、警察が必要としている人材とは、そういう「現実」を見ることができない人であり、現にある国家体制を守ること、つまり「治安の維持」が正しい(=「国家体制の変革」は悪だ)と思い込める、単純でクセのないナイーブな人、ということになる。言い変えれば、「給料さえ貰えて、自分の生活を保障してくれるのなら、その現状を支える国家は正しい」と自己正当化できるような「普通の人」、あまり余計なことは考えない「普通の人」を、警察は求めているのである。
だから、本書の著者のような「思い込みの激しい、個人主義的な正義感にとらわれた人(自己妄信者)」は、当然いらない。警察が、本書の著者を採用しなかったのは、「(組織としての正義を掲げる)組織主義」の警察にとって、著者のような「個人主義」者という「異物」は、最初から馴染ないことがわかっていたからである。

警察が「絵に書いたような、正義の組織」でなどないことは、まともに「現実を見る目」をもった人ならば、簡単にわかることでしかなく、多くの場合「常識」のたぐいと言えるであろう。
しかし、何かを「妄信」する類いの人、「現実」を見たくなくて、何かを「美化」して、それに依存してしまう人というのは、その「自己正当化としての美的意味=自己欺瞞のためのイデオロギー」にしがみついてしまう。つまり、本書の著者による「警察=正義」という「観念連合」は、著者自身のための「依存的な幻想」であり、一種の「宗教」であったと言えよう。

しかし、警察は、イエス・キリストでもなければ、観音菩薩でもなかった。彼の存在をそのまま受けとめて、彼を「正当化」してくれる救済者ではなかった。
彼は「自身の幻想」に裏切られた。そして「被害者という復讐者」となり「宗教改革者(という宗教者)」へと横滑りした。
一一つまり、彼は「警察=正義」という自分のすがりついていた「幻想」から目覚めるのではなく、べつの「正義」という「宗教」をでっち上げて、それで自身の「現実逃避」を正当化することにした。だからこそ彼の正義は「主観的」であり、彼のファンは「信者」的なのだ。「被害者意識」を共有して、お互いの正しさを保証し合うような「自己正当化のための教団(共依存体)」めいた、きわめて主観主義的な気持ち悪さが、おのずとそこに漂うのである。

本書の著者の絵柄を見れば、それが極めて「主観的イメージ」に依存したものであり、事柄の客観的評価を前提にしようという意志の無いことを端的に表しているし、あきらかに「被害者意識」がその世界認識を規定しているというのがわかる。「私はこんなに純粋だった。ただ純粋だっただけなのに、警察はそれを裏切って、私をこんなにも傷つけた」というのが、本書の「絵柄」が語っていることである。

もちろん、著者は「警察官も人間である」という一定の理解を示しているが、これは、そうした現実の警察官や警察を「許している」ということではない。
「主観」主義者にとって、「現実という客観」は「虚偽」であり「悪」でしかないのだから、そんなものを本気で許容するわけはない。ただ「警察官もまた人間である」という、著者自身が支持しているわけでもない「客観的事実」を語ることで、著者自身が「客観的事実」を尊重しているかのような「印象操作」を行なっているだけなのだ。著者は、けっこう「したたかに欺瞞的」なのである。

こうした「ビジュアル的印象操作」のわかりやすい例としては、小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』があげられよう。小林の『ゴー宣』は「イデオロギー漫画」であり「架空論争マンガ」だと言える。小林はその中で「悪としての欺瞞を批判して、正義としての真実」を伝える「主人公」を演じてみせる。だから、作中の論敵は「見るからに、うさん臭い人物」として、ビジュアル的に表象される。
そこには「客観的な事実と論理で、事の是非を争い、読者にその判定を委ねる」という姿勢は皆無で、初めから「作者は正義であり、論敵は悪である」と「わかりやすくビジュアル化されている」のである。
一一そして、こうした手法は、本書『警察官をクビになった話』においても、なんら選ぶところはないのだ。

しかし、そんな「子供だまし」であっても、「被害者意識」に強く縛られており、だれか「有名人=権威」に自分を「肯定してほしい=救ってほしい」と願っている人は、その「主観的な正義」に飛びつき、すがりついてしまう。傷つき弱っている読者には、「客観的事実」や「現実」などはどうでもよくて、自分に都合のよい「正義」や「自己正当化のためのイデオロギー」が語られていれば、それで「(気持ち的には)救われる」からである。

そうした意味において、本書の著者は、きわめて「宗教的」であり、「教祖」的なのだ。

著者のこうした「うさん臭さ」、その「手前味噌な主観的自己正当化」の「技巧」というのは、例えば彼のブログ「警察官クビになってからサイト」の掲載記事「彼女の浮気で『婚約破棄』になった修羅場の話」などに、典型的に表れている。

端的に言えば、本書の著者は「過去に自分に絡んだ人を悪し様に描くことで、自己正当化をして生きている」人だと言えるだろう。
普通に、社会常識のある大人が「彼女の浮気で『婚約破棄』になった修羅場の話」を読めば、著者の「元婚約者女性とその家族」についての「描き方」が、「きわめて自己中心的」であり「一方的」なもので、「きわめて印象操作的」なものでしかない、ということに気づくだろう。
この「元婚約者女性とその家族」についての「きわめて自己中心的な描き方」は、本書『警察官をクビになった話』における「警察官と警察」についての「描き方」、そっくりそのままなのである。

「警察官と警察」にも「元婚約者とその家族」にも、たしかに「問題はあった」だろう。それは「作者と同じ」ように「人間だから」である。
にもかかわらず、作者の「描き方」は、自分は「純粋で不器用な人間」つまり「正義の弱者」であり、「警察官と警察」や「元婚約者とその家族」は「強者としての悪」だという、きわめて図式的で一方的なものでしかない。
たしかに、かつてそこには「弱者と強者」の関係があったのかもしれない。しかし「弱者が必ずしも正義だとはかぎらず、強者が必ずしも悪とはかぎらない」。これが現実なのだ。

しかし「弱者のルサンチマン」は「復讐」を目指す。そしてそれは、ニーチェが嫌悪を隠さずに批判した「キリスト教的倫理」にも似た、「欺瞞」的形態を採る。
「小さきもの」「弱きもの」こそが「真理」であり「正義」であると言って「弱者救済」を説くのだが、じつはそのことによって、弱者ではあっても、正義であるとは言えない「自身」を正当化する。そのことで「強者」に報復をする。
その極めつけのイメージが「権力者によって磔刑に処されて死んだイエスこそ、キリスト(救世主)である」という「倒錯的な欺瞞」であろう。

つまり、本書の著者であるハルオサンは、この「弱者切り捨て社会」における、「被害者意識」を共有する人たちにとっての、イエス・キリストなのである。
彼は「君たちは何も悪くない」と言いながら「やつらが悪いのだ」という「ルサンチマンの言葉=本音」を吐きつづける。

だが、無神論者の私に言わせれば「イエス・キリスト(救済者たるイエス)」など、存在しない。それは救い主を求める人たちの「幻想」でしかなく、それが肉体を持って現れたとすれば、間違いなくそれは「偽キリスト」なのである。

初出:2020年4月4日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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