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小説を書いてみようかと思ったことが何度かある。

小説を書いてみようかと思ったことが何度かある。

だが、ちょっと書いてみると、すぐにそれは私の手に余るものだとわかり、短編とよびうる長さにもいたらず、嫌になってすぐに投げ出してしまった。そんなことが何度かあって、自分は小説書きには向いていないと確信するに至った。
この文章だってそうだ。こんなところから書き始めてみても、とうていまともな小説になどならないだろうが、まあ、なんでも書いてみることだと、そう投げやりに思ったのである。

初めから小説をらしい小説を書こうとすると、きっと行き詰まるに決まっているから、これは映画のアイデアメモくらいのつもりで書いてみることにした。映画など絶対に作ることなどないからこそ、かえって完成を意図せず、思いつきを並べられる。一貫した物語だの登場人物だのストーリーだのといったことを考えなくてよいから、とにかく評論文以外の何かが書けるだろうと、そんなふうに思ったのだ。

この、思いつきについて「こんなのは、どうだろうか」と尋ねてみると、
「ひところ流行ったポストモダン小説みたいなものか? そんなもの、今どき誰も読まないだろう」と彼が言う。

もっともなことだと思うが、私のような素人が、いきなり一般読者の獲得を意識したら、何も書けなくなってしまうから、まずは、苦痛なく書き続けられる形式であることが大切なんだと説明した。
すると彼は、
「まあ、商品としての小説を考えないのなら、それで良いんじゃないか。今どきなら、ネットにアップして、ごくごく少数の奇特な人が読んでくれるだろう。それで君が満足なら、あながち無価値だとは言えないからね」
と、いたって冷淡なご意見である。

僕は少し鼻白み、何も言い返せないでいると、かわりに七海がフォローしてくれた。
「大切なのは、楽しく書くことじゃないの。それで才能があれば評価されるかも知れないし、無ければ自分で楽しむだけだとしても、それはそれでいいじゃない」

おいおい、それはあんまりフォローになってにないぞと思ったが、好意から言ってくれたのだというのはわかったので、僕は黙っていた。

いや、わかってる。主語が「私」から「僕」に変わっているじゃないかと言いたいのでしょう? やっぱりダメでしょうか?

でも、僕としては、それが自然だから、そうしているだけで、主語の統一なんか、別にどうでもいいような気がする。
それに今どきでは、チャットGPTなんかで、スッキリした文章が書けるんだから、ちょっとくらい出鱈目なほうが、むしろ人間的でいいんじゃないか?

『僕のライバルは、チャットGPT』って、なんだか小説のタイトルみたいだ。
でも、これが小説のタイトルだとすると、やっぱり恋愛小説だろうか? 恋愛小説が僕に書けると思わないんだけれど、それにしても、恋愛主体としての身体を持たないチャットGPTがライバルの恋愛って、ラブレター合戦みたいな感じになるのだろうか。

どこかで書かれていそうな気がしたので、そんなものを書こうとは思わなかった。私が書きたいのは、チャットGPTが書けないような、ちょっと狂った小説だ。まとまりなんかくそくらえである。

それにしても、こういう感じだと、主語は「私」になる。私の、小説ジャンルに対するイメージが、たぶんそういうものだからだろう。こういうことを語るのは、「僕」ではなく「私」なのだ。そして、私は「私」のほうが好きだ。ちょっと硬くて、とっつきにくいくらいのほうが良いように思う。
誰が? 自分がだ。

しかし、こんな調子で、狂人の独白めいたものを延々と書いていても小説にはならない。いや、出来の良し悪しはべつにして、これもたしかに小説のうちなんだろうが、こんなもの、誰が読むのか? 読まれなくてもいいから書きたいことを書くということで始めたはずだったのだが、僕はそろそろ挫折し始めていた。いつでも、こんな感じで嫌になって、放り出してしまうのである。

ひとまず、この調子で書き続けるのはしんどくなってきたので、次回に続くということにしておこう。

誰か続きを書いてくれないかな。だったら楽なのに、って、これはリレー小説かよ!

でも、チャットGPTには、こんな小説は書けないだろう。そこだけは「勝った」と言わせてもらう。勝った!

(※ 本稿は、チャットGPTを使って書いたものではない)

次回に続く。

(2023年5月13日)

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