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吉田裕『兵士たちの戦後史 戦後日本社会を支えた人たち』 : 私は「今ここにおける兵士」である。

書評:吉田裕『兵士たちの戦後史 戦後日本社会を支えた人たち』(岩波現代文庫)

「兵士=兵隊」と言っても、上は「将軍」から下は「二等兵」まで存在する。いわゆる「兵士=兵隊」と言うと、私たちは「二等兵」に近いところ、つまり「現場」で戦う「下級兵士」を連想するが、それはいったい何故なのだろうか。

私が思うに、「現場としての戦場」に出ない、その身を「戦闘の直接的危険性」に晒すことのない「上級幹部」というのは、善かれ悪しかれ「デスクワーク」の人たちであり、そういう人たちは「兵士=兵隊」と言うよりも、実質的には、軍隊における「政治家」や「官僚」「経営者」のたぐいにすぎないからである。
いくら軍隊を動かしていても、政治家を「兵士=兵隊」とは呼ばないのと同様、いくら軍服を着ていたとしても、「現場としての戦場で、戦闘の危険にその身をさらすことのない、軍隊における上級幹部」たちを、多くの人たちは、本能的に「兵士=兵隊」とは感じないし、呼びはしないのだ。そうした「上級幹部」と「現場の戦闘員たる兵士=兵隊」とは、本質的に違う、ということを、私たちの多くは、直観的に知っているのである。

一一しかし、それが意味するところは、意外に「深く普遍的な問題」であり、しかしまた、それを考える人は、ほぼいない。

具体的に言えば、この「軍隊における二層」の問題は、「会社における二層(経営幹部と一般社員)」とか「国家における二層(政治権力者と一般国民・市民)」という問題にも、そのままつながってくるのだが、私たちは「戦争」というものの特殊性や重大性において、どうしてもそれを「別扱い」や「例外扱い」にしてしまう。
しかし、そうした「別扱い」「例外扱い」では、重大貴重な「戦争体験」を、私たちの「今ここの問題」に生かすことが出来なくなってしまうのではないか。

こうした観点から、私は、本書の「意義」を指摘強調しておきたい。

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まずは、本書に語られたことを、簡単に整理しておこう。

(1)日本は、アジア・太平洋戦争に敗れた。
(2)占領国アメリカは、良く言えば「日本を二度と戦争を起こさない国」、悪く言えば「戦後の、戦勝国主導の世界体制に、二度と歯向かわない国」にしようと、日本国民に「反軍思想」を植えつけた。「この悲惨な敗戦の責任は、軍部指導者たちにあって、国民にはない。国民は被害者である。だから、二度と騙されてはいけない。二度と武器を手に取ってはいけない」と教えたのである。
(3)そのために、終戦直後は、軍指導者たちだけではなく、一般の帰還兵に対してまで、世間の風当たりは強く、帰還兵たちはいたたまれない経験にさらされた。
(4)ところが、しばらくしてアメリカが、ソ連との冷戦体制を意識し、日本を西側体制の一員に組み込もうと方針転換をしたため、日本の軍事力を復活させる方向に舵を切った。いわゆる「逆コース」だが、そのために旧軍関係者の復権が始まり、世間的にも「日本の戦争を擁護」したり「戦死者を賛美」したりする動きが活発化する。
(5)兵隊たちは、旧軍所属部隊の仲間たちと「戦友会」などの旧軍人団体を作りはじめる。
(6)そうした中で、主に旧軍上級幹部の手になる「戦史ブーム」が起こる。しかしそれは、言わば「鳥瞰的視点に立った、建前としての戦史」であって、そこには「現場としての戦場の実態」や「軍隊内での私的制裁や、戦場における略奪虐殺などの、不都合な事実」が書かれることはなかった。
(7)「戦友会などの旧軍人団体」が、さらに大きな「旧軍人団体」へと組織化され、やがて「政治的圧力団体」となり「戦争の美化・正当化」の動きが加速する。
(8)そうした中で、一般兵の視点に立った「戦争体験記」的なものの刊行も増え、徐々に「現場としての戦場の実態」が語られるようになり、「上級幹部の描く、日本の戦争像」の修正が余儀なくされていく。また、一般兵士による手記には、上級幹部による「現場不在の軍運営」への批判が語られる。
(9)「靖国問題」などを契機に、「日本の戦争の記憶」の扱い方が、国際政治問題と化していく。
(10)兵士たちの高齢化により「戦友会などの旧軍人団体」の解体が進み、元兵士たちが「団体」の縛りから解放され、さらに人生の最終盤における総決算として、個々に「戦争の記憶」と向き合うようになると、さらに踏み込んだ「戦場の実態」としての「戦場における略奪虐殺などの、不正義としての加害行為」が語られはじめ、従来は「被害者」的な立場として描かれがちだった一般兵士自身の、戦争責任を問うような「戦場の現実」が徐々に明らかになる。

こうした「兵士たちの戦後史」を通して、私たちは、何を学び、いかに生かすべきなのか。

著者は、「戦争の悲惨な現実」を直視して、それを「反省しなければならない」のは当然として、しかし「悲惨な経験をした者ほど、その経験の直視は困難ものとなる」という現実への配慮も説いている。
つまり、「日本の戦争の不正義=侵略戦争(他国民に対する出張的虐殺)」という「不都合な現実」を否認したがるのは、大きな責任を負うべき「上級幹部」だけではなく、やむなく戦った「一般兵士」もまた同じであり、彼らがそうした「心理的な防衛機制」から自由になるためには、それなりの「時間」が必要であった。戦争を直接体験していない私たちは、彼らのそうした「戦争の傷」への一定の配慮も必要である、と説いているのである。

当然ここには、「真相究明」についての背理がある。被害者の存在する「戦争」においては、加害者を特定して、負うべき責任を負わせ、その責任を取らせるための「真相究明」は、不可欠である。
しかしながら、否応なく戦場に立たされ、否応なく人殺しなどを行なった、行なわざるを得なかった「兵士=兵隊」たちは、いわば「加害者」であると同時に「被害者」でもあったのだ。

だから彼らはまず、動物としての「自己防衛本能」にしたがって、自身を「被害者」だと考えることにより、自身の「加害者」としての側面を否認する。しかし、「事実」を消去することはできず、やがて「加害の記憶」という「罪責感」が彼らを苦しめ、それからの解放のためには「真実を語る」しかなくなるのだが、それはそのまま「加害責任の(社会的な)自認告白」ということにもなるのである。

本書の、一種独特の「陰影」は、ここにある。
著者は、そして読者の多くは「同じ状況におかれれば、私もまた、彼らと同じようなことをしただろう」という当たり前の認識において「兵士=兵隊」たちに同情的であり、できれば彼らを責めたくはない。
しかし、その同情すべき「兵士=兵隊」たちもまた「加害者」があったというのは否定できない事実であり、それをなかったことには出来ない。しかしそうなった場合、その「事実」をあばく行為は、そのまま「私たち自身の弱さ」と向き合うことを求めるものともなるのだ。

一一私たちは、今ここにおいてしばしば「被害者」でありながら、しかし「加害者」でもあるのではないか。そして、その「加害者性」を、はたして自身に隠蔽してはいないだろうか。

例えば、ご立派なことを語る「政治家(政治権力者)」や「会社経営者」の「きれいごと」や「建前」を鵜呑みにして、その「偽の理想」を言い訳にすることで、私たちはその「被害者たちの存在」から、目を背けてはいないか。

たとえば、「国家を守るためには、ある程度の犠牲は止むを得ない」という、一見もっともらしい理屈を鵜呑みにして「弱者を犠牲にする」ことで、「自分の生活」を守ろうとはしていないか。「会社経営者」の「社員一丸となって、社会に貢献できるように頑張ろう」という「きれいごと」や「建前」を鵜呑みにして、会社の「ブラック」な部分を易々と受け入れ、頑張れない「弱い」自分を責め、「弱い」同僚を責めることで、「会社の犯罪」に加担してはいないか。

なぜ「ノー」と言えないのか。なぜ「きれいごと」や「建前」にすぎないものに対して「それは嘘だ!」と声を挙げられず、それを易々と鵜呑みにして、より「弱い人たち」に犠牲を強いてしまうのか。

それはもちろん、私たち自身が「弱い」からであり、自身の「弱さ」から目を背けているからである。
たしかに、「将軍」でもなければ「政治家(政治権力者)」や「会社経営者」でもない私たち「平民」は、多くの点で「被害者」であろう。「弱者」は、虐げられ搾取されるのが、この社会の常なのだから、それはそのとおりなのである。

しかし、私たちは、自身が「被害者」であると同時に、「加害者」であるという事実を直視しなければならない。その勇気を持たなければならない。

「私たちは、被害者であると同時に、加害者でもあり、私の加害による被害者が、必ずどこかにいるのだ」という「現実」を直視しなければならない。
そう出来ないかぎり、私たちもまた、鳥瞰的な視点に立って「現場を無視」し、あれこれ偉そうに指図していた「上級幹部」たちと、なんら選ぶところのない「無責任な人間」に、現に堕していることだろう。

しかし、自身の加害責任を認めた「兵士=兵隊」たちの「人間としての崇高さと潔白」を支持賞賛するのであれば、私たち自身が、彼らとまったく同じ「兵士=兵隊」の一人であるという現実を、自認(告白)しなければならないのではないだろうか。

初出:2020年4月10日「Amazonレビュー」

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