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〈読みやすさ〉とは何か。

書評:マルクス、エンゲルス(北口裕康訳)『高校生でも読める「共産党宣言」』(パルコ)

本書のポイントは「読みやすさ」とは何か、である。

訳文の原文に対する正確さを重視する従来の翻訳による『共産党宣言』には手がのびないという人のために、本書は「あえて意訳」を試みたところに、その意義や価値を持つ。要は、まずは読んでもらうことを第一義として「読みやすくて、(大筋で)理解できる」ものを目指したものなのである。

ところが、先行の(※ Amazon)レビュアーのお二人の意見は、真逆に分かれている。
「Visioncrest」氏は『岩波文庫、平凡社ライブラリー、学術文庫の翻訳と読み比べてみたが、もっとも読みやすいのは本書である。』と本書を高く評価し、一方の「みちこ」氏は『噛み砕いて書きすぎて、本文の表現が未熟になり、とても読みづらい。』と完全に否定的だ。
一一では、いったいどちらが評価が正しいのだろうか?

まだ、別訳の「共産党宣言」と「共産主義の諸原理」しか読んでいない「共産主義の初心者」である私の実感からすると、本書は間違いなく「読みやすい」。
ただし、「みちこ」氏のご意見がいちがいに間違っているとも思わない。要は、ある「テキスト」が読みやすいか否かは、「テキスト」そのものだけに起因するのではなく、テキストと読者の関係に起因するものだからである。

例えば、私は昔、日本ミステリの最高峰にして古典的名作、中井英夫の『虚無への供物』のジュブナイル化なんてことを考えたことがある。「『虚無への供物』の素晴らしさを、少しでも多くの若者に知ってほしい。しかし、『虚無』の華麗な文体は、今の若者には、逆に敷居が高いのではないか」と考えて、「あえてフラットな文体」に書き換えてみようとしたのだ。
ところが、これがどうしてもできない。ぜんぜんどうにもならなくて、早々に断念せざるを得なかったという経験が、私にはあった。

『 黒天鵞絨のカーテンは、そのとき、わずかにそよいだ。小さな痙攣のめいた動きがすばやく走りぬけると、やおら身を翻すようにゆるく波を打って、少しずつ左右へ開き始めた。』

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(中井英夫=塔晶夫・愛蔵版『虚無への供物』)

知る人ぞ知る、『虚無への供物』の冒頭の一文。「サロメの夜」の開幕を告げる文章だが、これを「今風のフラットな文章」に書き変えられるだろうか?
「黒ビロードのカーテンが、小さくそよぐと、少しずつ左右に開き始めた。」と、こんな訳文に「意味(存在価値)」があるだろうか?

少なくとも、こんな調子で書かれた『超訳 虚無への供物』など、中井英夫ファンには「ゴミ以下のおぞましいもの」でしかないだろう。
一一ただし、初めて読む若者が「原文」と「超訳文」だけを読み比べて、どちらを手にするかは、にわかには断じ難いと思うし、少なくとも「原文」に「古臭さ」を感じて敬遠する人も少なくないだろうという予想は、容易に可能だろう。

だとすれば、問題は『高校生でも読める「共産党宣言」』が、誰のための「意訳」かということになるし、少なくともマルクスやエンゲルスの本をたくさん読んで、その「専門用語」に通じた人のための本ではない、というのは明白な事実なのだ。

そりゃあ、原文の内容に忠実な翻訳文を苦もなく読める人にとっては、変に意訳されたものより、原文に忠実な訳文の方が良いに決まっているし、感覚的にも「気持ちいい」。「意訳文」というのは「原(訳)文」に馴染んだ者には「それは、ちょっと違うだろ」という「違和感」がつきまとうのも、ごく自然なことなのだ。

しかし、本書の訳者は、そういう「マニア」に読んでもらうために、本書で「あえて意訳」を行ったのではないことを考えれば、本書の「意訳」に微視的な注文をつけるのは間違っている、と私は思う。

それに「文章の読みやすさ」というのは、極めて主観的なものだ。例えば、

『 伊藤辨護士も、「〈連帯〉の重要性」を十二分に認識・尊重する。ただ、彼の確信において、〈連帯〉とは、断じて、〈恃衆(衆を恃むこと)または恃勢(勢を恃むこと)〉ではない。彼の確信において、「正しくても、一人では行かない(行き得ない)」者たちが手を握り合うのは、真の〈連帯〉ではないところの「衆ないし勢を恃むこと」でしかなく、真の〈連帯〉とは、「正しいなら、一人でも行く」者たちが手を握り合うことであり、それこそが、人間の(長い目で見た)当為にほかならず、「連帯とは、ただちに〈恃衆〉または〈恃勢〉を指示する」とする近視眼的な行き方は、すなわちスターリン主義ないし似非マルクス(共産)主義であり、とど本源的・典型的な絶対主義ないしファシズムと択ぶ所がない。』
 (大西巨人『深淵』)

この文章を「読みやすい」と言う人は、滅多にいないと思うし、大西巨人のこの「個性的な文体」は、しばしば「悪文」と呼ばれたりもする。
しかし、この「正確に表現する(意図を伝える)」ことを大前提とした「厳格主義」的文体を、大西巨人ファンは「気持ちいい」と感じるし、その意味では「読みにくくはない(読むに、苦痛は感じない)」のである。

そしてこれが『ある「テキスト」が読みやすいか否かは、「テキスト」そのものに起因するのではなく、テキストと読者の関係に起因するものだ』ということの意味なのである。

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(文章とは、読みやすさがすべてではない)

したがって、本書『高校生でも読める「共産党宣言」』の「意訳文」は、一般的には「読みやすい」と言って良いだろう。
ただし、「みちこ」氏がそうであるように、従来の訳文に馴染んで抵抗のなかった人の一部には『噛み砕いて書きすぎて、本文の表現が未熟になり、とても読みづらい。』となるのも仕方のないことだし、さらに言えば、わざわざそうした「個人的な感想」を「一般的な意味のある評価」として公表するのは、ややお門違いだと思う。

なぜなら、大の大人が、わざわざ子供用の「離乳食」を口にして「歯ごたえがなくて、気持ち悪いから、これは食物としてよろしくない」などと評するのは、明らかにその趣旨をはき違えた、筋違いの注文でしかないからである。

初出:2021年5月17日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年5月23日「アレクセイの花園」

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