璦憑姫と渦蛇辜 18章「月代の船出」①
「それが和睦の条件というのだな、淤緑耳殿」
死者の行軍から一夜明けようとする頃、巫女の社を訪れる者があった。夜通し焚かれた松明が熾火になったまま忘れ去られ、社の護人もこの黎明の客人の動向ばかり気にかけている。
謁見の間の、そのまた奥の間に通されたのは肚竭穢土
の皇子の側近淤緑耳とその息子の黄耳である。
岐勿鹿皇子の命を受けた老爺は息子に自らを担がせ夜の海を渡った。月明かりだけを頼りに敵の最奥まで辿りついた密使に、賽果座の王一派は肝を抜かれた。
海を割って肚竭穢土が攻めいってくるという一大事に続き、海からあがった死者に領土を占拠され、それが退いたと思ったところにこのふたりは現れたのだ。本来なら二国は五分五分の状況まで引き戻されたはずだが、先手を打った淤緑耳の方が優位にあると王達に錯覚させた。今、賽果座の王と有力者達を前に淤緑耳は交渉が己の手の内で進みつつあるとみた。
小柄な父と比べ、息子は縦にも横にも大きな男だが父のような敏捷い抜け目なさは微塵も感じさせない。父の後に巨木のようにのっそりと控えている。
賽果座の現王、鹿族の長が念を押したのを受け、淤緑耳は鷹揚にうなづいた。
淤緑耳の鼠のような顔の中で瞳ばかりが猛禽類のように光って、居並ぶ部族の長達を順にとらえた。彼の目がひとりの人物の上で止まった。部屋の隅に黙して立っているが、月の光のような冷たい静けさを放っている。
ー女か?いやあの上背は男だ。部族の者ではないが、此奴がこの場の要じゃな。いつでもわしを切れるよう、短刀を隠しておるのじゃろう………わかるぞ、しかして……。
賽果座は部族国家である。三つの小国が持ち回りで王を輩出するが、彼らをまとめあげているのが代々の水鏡の巫女だった。今、社に集まったのは三国の部族の有力者と巫女の夫だ。
ーまずは、焚きつけるのは王たちじゃ。
淤緑耳はたっぷりと間を取りながら、
「我が肚竭穢土の皇子は御心の広いお方。聞けばぁ……和を愛す三国の王は賊に半ば国を乗っ取られ窮しておると。賊は諸国に攻め入り、我が国と友好を結ぶ国も憂き目にあっておる。諸悪はそのならずもを水軍に仕立てあげ従えた賊頭であってあなた方王ではない。
この度の戦も、その賊の征伐こそが目的……。賊が消えればあなた方の国は正しき王のものとなる。かつてのように、春の夕凪のようにのどけき和平が戻る。そのために我が王は遥かな地より出兵いたした。
じゃがあ………、神の意思は人智を越えたところにおわした。大海神はその戦いさえ不要との見立てを出した。
それがこの度の死者の行軍じゃ。
我らもあなた方も戒められた。我らの間に勝ち負けはない。ただ來倉から賊が奪った宝珠の返還、そして皇子が国に帰るための舟の工面………、それをお願いしたい」
と語った。長い沈黙に誰も口火をきろうとしない。
長達は海を割って攻め入ってくる騎馬軍の存在に怯え、続いての死者どもが国に溢れかえるという天地のひっくり返るような目にあったのだ。老人は小柄だがその背後にあるのは大国肚竭穢土だ。さらに大海神を擁していると云う。
戦意はもとより低く、心内を支配するのは怖れであった。この二人の密使を前にしても平伏すような態度が見受けられた。
「………宝珠は、元々礁玉が持ち込んだものだ」
鹿族の王がボソりと云うと長達は口早に続けた。
「我らとて海賊どもには手を焼いておったのだ」
「あのような血生臭い女、『下海』の魔物に相違ない」
「………本当にわたしどもはお咎めなしなのですな、淤緑耳どの」
淤緑耳はその言葉のいちいちに深くうなづいた。
「宝珠の返還、舟の用意、それから礁玉の引き渡し。以上が和睦の条件。見返りとして肚竭穢土は各部族の長と協力し海賊勢力の一掃をする、というわけですね」
今まで何も喋らなかった浪が口を開くと、長達はギョッとしたように押し黙った。
「賊の女ひとり差し出せば国がひとつ無傷で戻ってくるのですぞ」
と云って淤緑耳は浪に視線を這わせた。
敵国の牙を抜く。有能な指導者がいなくなれば海賊団など瓦解するし、王の擁する水軍は所詮は素人。そういう考えが淤緑耳にはあった。
浪は老爺の視線を受け流し、宙空を眺めやるとしばらくしてこう云った。
「もちろん礁玉一味である私と次代の巫女である我が娘も、このまま賽果座で安寧を享受できると」
長達は定まらぬ感情を露わにどよめいた。
「無論です」
と淤緑耳は答えたが、海賊のひとりが政の中枢まで入り込んでいることに驚いていた。うまく王と長のみを懐柔するつもりだったのだ。しかしこの若者も思うところがあるらしい。
「肚竭穢土と啀み合っていちばん危険に晒されるのは巫女ですじゃ。賽果座が不穏な動きを見せたとき、かつて刺客が送られたことももちろんご存知でしょう。しかし和睦を受け入れてくだされば、幼き巫女の成長はこの淤緑耳が保証しましょう」
「浪、あなたはこの国に必要な人だ」
海亀族の長が声を上げた。
「あなたの手ほどきした治水によって米の収穫も増えた」
「そうだ、揉め事もあなたが入ればうまくおさまる」
「聞けば小国とはいえ名のある一族の跡取りだったのであろう。ごろつきの海賊とは出自が違う」
それを聞いて淤緑耳の目が皺の中に沈んだ。これはうまくいく、と確信する。
「さて、私に礁玉を裏切ることなどできるだろうか………」
浪は遠くを見るような目をした。
一同が息を殺して浪を見守った。もうひと推し、と淤緑耳が口を開こうとした時、浪が深い吐息もらした。
「礁玉はただのごろつきではありません。並の男では手も足も出ないでしょう。おまけに勘も鋭く、抜け目がない」
訥々と話し始めた浪に王達は眉をひそめた。礁玉を捕らえるのは難しいと説得するつもりだろうか。
「ですから、礁玉捕縛の役目は私にお任せいただきたい」
おおと小さくどよめく王達と反対に淤緑耳だけは表情を崩さなかった。
「はて、あなたと賊の頭の関係は?そうおっしゃるにはそれなりの訳がございましょう?」
「旧知の仲です。長く、彼らと旅をしました。生きるために彼らは私を利用し、また私も彼らを利用しました。でも、こんな私を受け入れてくれる国があるならば、私はここで最愛の娘とともに、王と民に尽くしたい」
抜け目ない老人の問いに浪はゆっくりと答えた。最後は長達に向けて発した言だ。
「浪殿といったか?」
「はい」
「できるのじゃな、おぬしなら」
「はい。すみませんが至急コトウとウズを呼んでもよろしいでしょうか。彼女が何か勘付く前に、手筈を整えます」
「淤緑耳殿」
と王が呼びかけた。
「彼に任せておけば安心です。先のことはすべてお見通し、千里眼と噂される男です。さて和睦の件、受け入れましょう」
それを聞き老爺と息子は慇懃に頭を下げてみせた。
続く
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